砂漠の鬼
一緒の寝床に入るのは、何も初めてのことではなかった。寒い冬の日は、身を寄せ合って眠る。少しくすぐったくて、じんわりと暖かな感情が広がっていく。幼い頃から、仲の良い兄妹のように育ってきた。砂漠の旅路でも、それは変わらない。兄として、そして師としても、シンリュウのことは慕っていた。
山を越え荒野を越えた先に、砂漠の国がある。そこでしか採れない薬草や、砂漠の民に受け継がれる治療法を求めて、シンリュウは旅に出ることになった。長く苦しい旅路だという。ついて行く、と言ったときには、シンリュウも彼の両親も、反対した。女の身で、危険が過ぎるというのだ。
山育ちで、物心つく前から山を遊び場所にしていた。自然と旅に耐える体力はついていたし、何よりシンリュウと離れることは半身を失うことに等しいと感じていた。三日三晩の説得の末、ついにシンリュウは折れた。そして、二人だけで旅をすることになった。
旅は、順調だった。荒野を越えた先にある、砂漠までは何の障害も無かった。薬草採集では一日中山に入り夜を明かすこともあったし、何よりシンリュウと二人なのだ。怖いものは、何もない。軽い足取りのまま、砂漠に入ることができた。
砂漠では、昼の暑い空気を避けて、夜に進んだ。星が行く手を教えてくれたから、迷うことはない。そう思えた。
異変は、三日目の夕刻に訪れた。強い風が吹き、砂丘の砂を巻き上げていく。頬に砂粒が強くぶつかり、目を開けていられなくなった。先を行くシンリュウの手をしっかりと握って、歩き続けた。その場に留まってしまうと、砂に埋もれてしまうと思ったからだ。夜になっても、風は吹き続けた。
つないだ手が、強く引っ張られた。がくん、と体勢が崩れる。砂丘の上に露出していた岩に、シンリュウが足を取られたのだ。そうとわかったのは、もつれあうように砂丘を転がり落ちた後のことだ。砂の上とはいえ、固さはあった。強い衝撃のあと、目を開くとシンリュウの腕の中に抱きすくめられ、彼を下敷きにしていた。
「だ、大丈夫、シンリュウにいさん?」
「大丈夫だ……っつ、あ、足が痛い……」
跳ね起きて、下に敷いた身体から身を除けた。旅衣の裾をまくりあげ、脛を見る。向う脛が青く腫れて、痣になっていた。
「にいさん、これ……」
「ぐ、だ、だいじょうぶ、どうやら、綺麗に折れてるみたいだ……」
半身を起こしたシンリュウが、自分の足を触って確かめた。
「紅玉は、無事?」
「うん。私は、平気。にいさんが、かばってくれたから……」
「よかった」
シンリュウはにこりと笑った。月明かりの下で、儚げな表情に胸がずくんと痛んだ。
「手当をしないとね。紅玉、手伝って」
歩行のために使っていた杖を折って、添え木にする。薬を患部に塗って、包帯を巻いた。その上から、添え木を固定していく。
「あとは、骨がくっつくまで、安静にしていないとね」
「にいさんったら、他人事みたいね」
結局その日は、風が止むまで立ち往生することになった。そして、次の日から休める場所を探して歩くことになる。自分の杖をシンリュウに持たせて、反対側の肩を担いで歩く。平地でも大変なことを、足場の柔らかい砂漠でしなければならない。旅路は遅々として進まず、七日間ほど歩くことになった。さいわい風は止んで、夕日と星空で方角は知ることができた。だが、同じ風景が続くような錯覚を覚える砂漠は、神経を徐々に責めて削るようだった。
「このまま、明日も水場が見つからなかったら、俺を置いて行ってくれないかな、紅玉」
砂漠の凍える夜、作った寝床で身を寄せながらシンリュウが言った。
「イヤよ。にいさんを置いてくぐらいなら、砂漠で一緒にのたれ死ぬほうがいい」
傷を負って熱を持ったシンリュウの身体をぎゅっと抱きしめて、答えた。何も言わず、シンリュウは抱きしめてくる力を強める。暗闇の中で感じるシンリュウの力強さは、暖かく頼もしいものだった。
「ねえ、にいさん……私、にいさんが好き……」
「紅玉……」
「にいさんを、愛してる……だから、一緒に、生きてよ……」
涙があふれて、こらえきれなくなった。自然と口をついて、言葉が出ていた。心の中で芽生えて、一緒に旅路を過ごすうちに育っていった、想いだった。声に出さないと、シンリュウはどこかへ行ってしまう。そんな気がした。
「ありがとう、紅玉……」
顔を上げた。優しい感情を込めた瞳が、そこにあった。目を閉じると、涙をそっと拭う指が、あごに触れた。唇に、少し荒れた柔らかなものが触れる。ぎゅっとしがみつくように腕に力をこめると、抱き返してくる腕も締め上げるように強くなった。
「人間、ここ、何、してる」
ふいに、野太く低い声が耳に届いた。弾かれるようにシンリュウの身体が離れ、身を起こそうとする。シンリュウの脇に手を入れて、一緒に立ち上がった。
「え、あ、お、鬼……」
すぐ近くにあった影を見て、呆然と咽喉から声が出た。支えていたシンリュウの身体がするりと前へ出て、影から庇うように背中を見せる。
「紅玉、逃げるんだ!」
「イヤよ、にいさんを置いて、逃げるなんてできない!」
言い合うあいだに、影はのっそりとこちらへ近づいてくる。砂の上を移動しているためか、足音はわずかしか聴こえてこない。
「ここ、あたり、見る、無い、恰好。お前、お前、旅人?」
月明かりに浮かび上がる巨体に、息をのんだ。シンリュウも、全身をこわばらせている。それは、人食いの化け物、鬼そのものだった。
「く、来るな、化け物!」
「にいさん、その足じゃ無理よ!」
杖を振りかざそうとして、シンリュウの身体が崩れた。肩を担ぎ、間一髪で身体を支える。
「足、怪我、ある。動く、良い、無い」
鬼がシンリュウの前で屈み、足を見た。触れるほど近くまで来た鬼の身体から、懐かしい匂いがした。
「これ……薬の匂いだ……」
呟いた言葉に、鬼が顔をこちらへ向けてうなずく。
「俺、人間、食う、無い。お前、お前、俺、助ける、必要?」
簡素な単語を並べただけの、単純な言語だった。理解ができると、鬼にうなずきを返した。
「旅の途中で、にいさんが怪我をしたの。助けてくれるというなら、にいさんを運んで水場へ案内してくれない? もし必要なら、私の命をあげるから……」
「紅玉……鬼よ、俺からも、お願いしたい。俺はどうなってもいいから、紅玉は、この娘は助けてくれ」
鬼の視線が、こちらとシンリュウをゆっくりと往復する。
「お前、お前、俺、食わない。言葉、通じる、無い?」
鬼の口が、大きく横へ開いた。笑いかけているのだ、と気づくのに、少し時間がかかった。
「ありがとう。あなたを、信じるわ。にいさんを、助けてくれるというのなら」
「俺も、信じる。紅玉が信じるのだから」
ほとんど同時にそう言うと、鬼は息を吐きだした。
「お前、お前、運ぶ。水場、行く」
そう言って、鬼の手がこちらへ伸びた。そのまま、米俵を担ぐように左肩へ乗せられる。反対側には、シンリュウも同じように乗っていた。
「強い、掴まる、良い」
鬼が言って、駆け出した。砂漠の景色が、どんどん流れていく。半刻ほど、鬼は駆け続けた。
「ここ、水場。お前、お前、少し、待つ」
シンリュウとともに鬼の肩から降ろされて、地面に足をつけた。そこは砂の地面ではなく、土のものだった。鬼がどこかへ駆け去っていく。見回すと、サボテンが点々と生えた先に大きな水たまりがみえた。
「み、水よ、にいさん……!」
「ああ、水だ、紅玉!」
シンリュウに肩を貸して、水に向かって走った。身体にのしかかってくるシンリュウの重みも、水場を前にした喜びで軽く感じられる。澄んだ水を革袋ですくい、シンリュウと分け合って飲んだ。冷たい水は、ほのかに甘く感じられた。
ひとしきり水を堪能してから、シンリュウの患部を洗う。腫れて熱を持っていた部分が、青黒くなっていた。
「これじゃあ、しばらくは動けそうにないな……」
「大丈夫よ、にいさん。薬は、まだあるもの」
患部に薬を塗って、また包帯を巻いた。そうしているうちに、鬼が手に何かをぶら下げて戻ってきた。
「お前、肉、必要。食う、良い」
鬼は手にした肉を、放り投げた。捕ってきたばかりの、鹿の肉だった。
「ありがとう、鬼よ。ついてはお願いがあるのだが、聞いてもらえるか?」
シンリュウの言葉に、鬼はうなずいた。
「この場所を、しばらく借り受けたい。俺の、足が治るまででいい」
「私からも、お願いします」
シンリュウとともに、頭を下げた。砂漠の旅を続けるには、シンリュウの足を治すことは必要不可欠だった。
「ここ、俺、主、無い。お前、お前、使う、良い」
「ありがとう、鬼よ!」
「礼、言う、無い。俺、助ける、偶然」
照れたように頭をかいた鬼が、一本のサボテンを指さした。見ると、サボテンの中ほどに、一輪の白い花が咲いている。白みかかった夜明けの気配のなかで、花は神秘的な美しさをしていた。
「花、一晩、散る。花弁、採る、薬、作る」
「綺麗な花……」
「鬼よ、その薬には、どんな効用があるんだ?」
「煎じる、飲む。痛み、止まる」
「なるほど、痛み止め、腹、腹なのか?」
「頭、痛む。少し、効く」
「そうか。胃の痛みを和らげるのか」
花を前に、鬼とシンリュウは薬談義を始めた。花を愛でる気分を台無しにされて、少し腹が立った。だが、楽しそうなシンリュウと鬼の様子を見るうちに、笑いがこみ上げてくる。
「紅玉、この鬼は、大した医者だ! 母上にも、母上の師匠にも劣らないほどの!」
「お前、知識、ある。良い、成長、有る」
すっかり意気投合したふたりに微笑ましい気持ちを感じながら、花を眺める。無理やりにでも旅に同行して、本当に良かった。爽やかな風の吹く砂漠の夜明けに、心の底から、そう思えた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。旅って、いいものですね。私は基本、ヒキコモリですが。お楽しみいただけたなら、幸いです。