9ピース目
英司は細野百合子の姿を今一度確認する。
従業員が『おっさん』または『おじちゃん』と呼んでいた意味を理解した。
中年期の男性と違う独特な雰囲気が滑稽で、何処かの動物園の流し目が特技のゴリラがまだ活けている。
岡村に奴を引き渡してさっさと逃げる……。つもりだった。
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「待て、戸田。おまえも立ち会うのだ」
会議室で待機していた岡村に呼び止められた英司は身体を竦める。
「僕が聴いていいのですか?」
「そのうちおまえに俺の雑務を押し付けてやる。細野、呼ばれた理由は何かは解っているだろう?」
岡村の形相が瞬時に険しくなり、声色が威嚇を含ませる。
一方、細野百合子は動揺する素振りもなく、備えてある椅子に腰を下ろしたままズボンのポケットに掌をしのばせていた。
「あなたの為に会社は業務が遂行出来ない事態になったのです。生活にご事情があるならば、解決策を導きたい。と、いうことですよね? 岡村さん」
「その通りだ戸田。だが、こうして騒ぎになったのは今回だけではない。会社は会社だと解っていないとなれば、最終的には我々は勧告する手段を取らせてもらう」
英司は背筋が凍りつくような感覚を迸らせる。
細野百合子の態度も腹が立つほど開き直っているように見える。
岡村は冷静さを装っているだろうが、既に感情が剥き出しになっていた。
自分を立ち会わせた意味が此れだったと英司は解釈して、重苦しい会議室の空気を吸い込みながら岡村が解き放つだろうの言葉を待ち構える。
結局細野百合子は最後まで侘びることなく、会議室から去っていくのを境にして、誰も姿を見ることはなかった。
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事務所に平穏無事な日常が戻ると、英司は細野百合子の経緯を辿らせる。
派手な振舞いをする一方、生活は借金をするほど荒れていて督促を連絡先である会社にまで押し掛けさせた。許すという条件で心を入れ替えて欲しいと願う岡村を裏切った。当然の酬いを受けた細野百合子に同情などなく、存在そのものを忘れたいと思うまでに至った。
ーー会社はボランティアではない。
労働者にとっては生きる為の場所の秩序を乱された。
岡村は幾度もなく細野百合子のような従業員と遭遇したのだろうか? 対処も身の危険さえ覚えた筈だ。
日頃は温厚な振舞いを見せる岡村だが、想像以上の重圧感と闘っているとなれば、何処かに拠り所を求めてしまうこともあるだろう。
英司も同じく《癒しの女神》の魅力に取りつかれている。負けると解っていても見つめるだけは出来る筈だと、溢れる想いを勇気に変えていったーー。
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「戸田さん、お話しを聞いて貰えますか?」
業務が終了した場内を見回っていた英司は、通り過ぎる志帆に呼び止められる。
「どうしたのですか?」
「いえ、先日は事務所は大変だったと伺っています」
「岡村さんも結構苦労されていますね? 僕は流石についていくのが精一杯だ」
志帆の頬が朱色に染まり上がるのを英司は見逃さなかった。
反応が分かりやすくて聞く手間が省ける。此処で追い討ちを掛けたら志帆はどんな態度を示すのかと興味もあった。
「岡村さんと一緒に仕事をすれば、嫌でも見せられてしまうからだよ」
「そうですよね。 戸田さん、何時も岡村さんからご指導を受けられていた。お疲れ様です」
「本当に疲れるよっ!」
冗談半分で言ったことを瞬時に焦ってしまう英司は咄嗟に身を構える。
しかし、志帆の意外な言葉に堪らず頬を捻り、夢でない事を確認する。
ーー戸田さんが約束していたお食事をご馳走になりたいです。
興奮の余り、鼻血を垂らす英司だった。