8ピース目
前回、我が人生最悪な日となった戸田英司。彼が目にして踏みつけたのは、余りにも衝撃的だった。気の毒だが、頑張れとしか言いようがない。
岡村は益々返り咲く。
散らばるパズル。また、ひとつと埋め尽くす。
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あれから一週間が過ぎた。英司はまだ、引き摺るように日々を送っていた。
憧れの志帆が岡村と相思相愛だった。一方、怒りも膨らんでいた。
岡村の為に志帆が苦しい思いをしていたかもしれない。幾度なく涙を流していたかもしれない。
臆測ばかりを思考に刷り込ませるものの、真実を確かめる勇気はなかった。
戸田英司とは、そんな奴だった。均等を保つことを選ぶ癖は性分だと自負する程だ。
今までそうやって自分を守っていた。
傷つくのを恐れて、他人には虚像を見せ付けていた。
ーー戸田さん、具合が悪いのですか?
聞き慣れた声に英司は驚愕する。振り向けば、目の前に志帆の姿があり、咄嗟に後退りをした勢いで足元を縺れさせる。
「もうっ! 大袈裟過ぎます」
英司が振り上げる両腕を志帆は手掴みしながら苦笑する。
「僕に近づかない方がいいと思う」
「何訳がわからない事をおっしゃってるのです? いつもの元気さがないからどうしたのかしらと、こうしてですね」
「だから僕に構わないでいいから、彼をーー」
英司は口を濁して志帆の形相をくっきりと脳裏に焼き付ける。
唇を噛み締めながら目を大きく開くと頬を膨らます志帆。掴まれる腕は手前に引っ張られ、反動をつけて後方に押し戻される。
英司は通路に今度こそ転倒した。頭部を少し持ち上げた状態で背中には鼠駆除に仕掛けた鳥黐状の罠が貼り付く。尻にすっぽりと填まる火の用心と白い文字の赤いバケツには水が張っていた。
ーー戸田さんなんてもう、知らないっ!
追い討ちをかけての志帆の絶叫だった。
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夕方の事務所。岡村のデスクには各部署の業務日報や伝達事項が記される書類が積み上がっていた。
「戸田、手伝え」
岡村は右隣にデスクを構える英司に声を掛けたつもりだった。
「戸田さんなら、早退しましたよ」
正面で事務処理をする女性事務員がパソコンのディスプレイから顔を覗かせながら言うと、岡村は眉間に皺を寄せて顎を突き出した。
「何があったのでしょうねぇ? 岡村さん」
「バカちんっ! 如何にも俺が原因だと決めつけるな」
岡村は背後から男性事務員が言う言葉に激昂すると一枚の届け書を手にする。
〔体調不良の為に、早退します〕
岡村は溜息を吐き、確認印としてデスクの引き出しから取り出した印鑑に朱肉をつけてぽん、と押す。
〔戸田英司〕
届けた本人の名前が雑な文字で記入されていた。
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次の日、事務所は外線が絶え間なく鳴り響いていた。受話器をおろしたと思えばまた取るを幾度も繰り返しているという光景が繰り広げられていた。
「戸田は現場の様子を見に行けっ!」
「ですが、岡村さん。此れでは現場も内線が使えません」
1から8の着信を知らせる通信機のランプはすべて緑色に瞬いていた。
「岡村さん、外線も繋がらないとなれば業務にも影響が及びます」
「取ってもまた同じ先方。限界です、岡村さん」
次から次へと対応に追われる事務員は声を揃えて絶叫する。
「やむを得ない。戸田、U部署の細野百合子を連れてこい」
「U部署の? その人がこの騒ぎの本人」
「浅田には黙っとけ。かつての班長には羽振りは良かったが、ホラ吹きで有名だった」
「よく解りませんが、その人がとんでもない事に手を染めていたとなれば……」
「会社はボランティアではない。あくまで、仕事をする場所だ」
岡村は唇を震わせていた。
受話器を取る岡村の背中を見ると英司は事務所を飛び出していった。
場内では従業員がいつもと変わらずに業務を遂行していた。
英司はU部署の細野の姿を見つける。
女性の筈なのに、其らしさがひとつもない体つき。髪はワックスがべたべたとするオールバック。ついでに胸元をみるが……無かった。
ーーあの人、私の前の班長さんが好きだったの。
志帆が雑談で喋った事を思い出した。想像が全くもって出来ない。どうしたら、女を捨てるようになったのかと首をかしげた程だった。
「戸田さん、何のご用事ですか?」
「あ、浅田さん。業務中に申し訳ないけど、細野さんを……」
英司は昨日の出来事など気にも止めない様子の志帆に安堵しながら言う。
「細野さん。そう、解りました」
志帆の冷静な態度に英司は堪らすこう尋ねた。
「細野さんて浅田さんから見れば素行がよくない方なのですね?」
「ちょっとばかりか、かなりだらしない人というのは場内では有名なの」
英司は志帆が指差す印字された伝票の文字に呆気に取られる。
〔円〕
「傍迷惑な方だ」
英司は細野百合子を事務所に渋渋と連れていった。