20ピース目
時は流れ、季節は廻る。
春の彩り、夏の輝き。
秋は虫の声に耳を澄ませ、冬が温もりを求めさせるーー。
「あなた。診て貰ったら、3か月目だって言われたわ」
夫婦になって、二年。
石油ストーブの上に乗るケトルの注ぎ口から湯が吹きこぼれるを見た英司は、妻が差し伸ばす掌より先に取手を掴む。
「無駄な優しさは相変わらずね?」
真っ赤になった右の掌を流水で冷す英司の背中に、妻の額が押す感触が迸る。
「大事を大切にすると、言って欲しいな」
「私、あなたを沢山困らせたよね?」
「考え過ぎるは止してくれと、何度もキミに言ったよ」
ーー大好きよ……。
妻の囁きが英司を爽快に誘うと、頬を寄せ合い口付けを交わすーー。
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〇命名 琥太郎
秋の穏やかな陽射しが降り注ぐ日だった。
ベビーベッドが備わる部屋の壁に貼る『我が子』の名が太く濃く毛筆でしたためる和紙を、英司は見つめる。
ーー“名付け”で十分だろう?
ーー“本人”だと『名』に深みが増します。
英司はかつての上司とやり取りした思い出に、満面の笑みを湛える。
英司が勤務する会社で《伝説の男》と、なってしまった。
名は、岡村晴一。
妻は、岡村が好きだった。岡村も妻を愛していると、思っていた。
志帆。
英司がこよなく愛する妻の名。
出会いは、今日の日和と似た数年前の河川敷。川の水面を見つめる志帆の姿が、哀しみに満ち溢れていた。
今なら解る。
妻は……。志帆は、岡村に疲れていたーーーー。
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『ぎゃんっ!』
飼い犬の作蔵は、腹這いで10歩進んだ乳児にふさふさとした尻尾を掴まれて必死の抵抗も虚しく、フローリングの上で押し潰されたような姿になった。
「琥太郎、強くなったな」
「感心はいいから、作ちゃんを助けてよ」
「……。救いの手が伸びて良かったな、作蔵。どれ、琥太郎はーー」
英司は琥太郎を作蔵から引き離そうと抱き上げるが首を横に振られ、頭突きされた顎の激痛に目から涙を溢す。
「琥太郎さん、今のは凄く効きました」
「作ちゃん、たまには琥太郎を叱りたい筈よね?」
「僕がみっちりと躾た。作蔵は絶対に琥太郎を舐めて掛からないっ!」
英司が能弁の為に大きく開く口を、抱く琥太郎の拳がすっぽりと塞ぐ。
「琥太郎の将来が心配よ」
志帆は琥太郎を英司から離すと、小さな握り締める拳をこじ開けて、指と指の間に絡む作蔵の毛を払い落とす。
「解った。と、言うことで琥太郎くん良いかな?」
英司は琥太郎と目を合わせると鼻から空気を吸い込み、頬に溜めて口から吐く。
ーー言うことを聞かなくても良いけど、怒られないようにしなさいっ!
志帆が凍てつく形相で英司を見つめる一方、作蔵の自らケージに飛び込む前足があと一歩のところで、琥太郎に尻尾を掴まれるーー。
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英司は昼休みを知らせるベルに耳を澄ませ、会社の敷地に吹雪く桜の花びらを仰いでいた。
『コケコッコー』と、作業用のズボンの腰ベルトに装着するスマートフォンが着信音を鳴らすと、画面に表示する名に懐かしさを覚える。
「ご無沙汰してます。はい、息子は元気に保育園に行ってます。 嬉しい事に二人目が授かりまして……。ははは、続きはお会いしてお話しと、言うことでーー」
英司は『相手』と会食の日程を打合せすると、通話を終わる。
業務が終了して帰宅すると「当日は軽装だと失礼だろうな?」と、志帆に相談を持ち掛ける。
「普通の居酒屋だったら、普段着が落ち着くと思うわ」
身重の志帆は笑みを湛えながらクローゼットの扉を開くと、取り出したハンガーに吊るされた青を基調としたYシャツと、紺色のスラックスを英司に押し当てる。
「一歩間違ったら、嫌がらせだよ?」
「平気よ。私達に黙って会社を辞めたと思ったら『今度は仕事に関係ない交流をしよう』と、言うくらい気ままな人だからーー」
「会ったら伝えとくよ。キミが一番振り回されていたと、ね」
「あなたがでしょう?」
「全然っ! 今の僕があるのは『あの人』のおかげだからーー」
英司はまだ見ぬ我が子の音を聞く為、志帆の膨らむ腹部に耳を澄ませる。
「名前はまた付けて貰おう」
「すっかり宛てにしてる様子ね?」
「『絆』の証だよ」
どすり、と、英司の頬に胎動の衝撃が迸る。
「ふふふ。今から『お父さん、あっちいってっ!』かしら?」
「勘弁してくれよぉお」
夜は更ける。
英司は幸福に満ちるを、志帆と分かち合う。
日に日に成長する琥太郎の寝顔を見つめて就寝した。
後日ーー。
「ああ、既に着いてるぞ。先に注文するからさっさと来るのだ」
居酒屋『大葉』と掲げる店の暖簾を白の半袖Yシャツとグレーのスラックス姿の青年が、携帯電話を腰のホルダーに押し込みながら潜り抜ける。
「いらっしゃいっ!『社長』」
「止せよ、茂吉」
入店して目を合わせる店主の呼び掛けに青年は苦笑いをすると、黒光りの革靴を脱いで座敷席に上がり込む。
「晴。あんたも大変だな?」
「都合が良いときだけ担ぎ出される。其れだけだ」
「どっちみち『前の会社』を辞めて『継げ』だったのだろう?」
「丁度潮時だったしな。おい、茂吉。他の客に俺の事をべらべらと、言いふらしてないだろうな?」
「ないない。店だってマスコミ各社の取材を頑として断りまくってる程、完全に『隠れ家』にしてる」
「流石だ、友よ」
『晴』と呼ばれた青年は、座卓に乗る徳利からお猪口に日本酒を注ぎ、口に含むと付ける時だった。
「お待たせしました岡村さん。参りましたねぇえ、店の目印を探すに手間取ってしまいましたぁあ」
「良いから、早く座れ」
「お? 晴が言ってた『英』て、このあんちゃんかっ!」
店主は目を輝かせて訊く。
「『課長』だよ、茂吉」
岡村は笑みを湛えると『英』と呼ばれた青年と季節の料理と酒を堪能するーー。




