19ピース目
英司は胸の違和感を覚えていた。動悸は激しく、息切れもある。そんな身体的状態を圧して、場内業務の遂行をする。
ある時は製品の整理整頓、またある時は配送の代行。稀に従業員同士の喧嘩仲裁。待ちに待った指定休日は、満長直直の連絡で渋渋と出勤ーー。
調和がない人と人。
混沌と化した風紀。
日常的な非日常。
英司は嫌味混じりの思考を膨らます一方、岡村が支店に赴く間際に解き放した言葉を糧にして、総てに立ち向かっていた。
しかしーーーー。
ーーお名前を教えてくださいっ!
朦朧とする意識の最中、聞き覚えがない男性の声に英司は反応をするが、息を吐くがやっとの為に受け答えが出来なかった。
人が行き交うと思われる振動、理解に困難な言葉のやり取り。口を塞ぐが酸素マスクと気付くも虚しくーー。
英司は深い眠りに堕ちていった…………。
******
耳を澄ませると、奏でられる弦楽器の音色。目の前で広がる白色と薄紅色が混じる空間。ふかふかと、綿毛を彷彿する足元。
英司は先程まで身動きが取れない身体が軽いと、満面の笑みを湛える。
試しに駆け出してみると息切れなく、何処までも行けそうだと心を踊らせた。
序でに膝を曲げて飛躍すると、身体は空中に浮上する。だが、自身の意思と反して川の流れに逆らうことが出来ない感覚が迸る。
ーー間一髪っ!
がっしりと足首が掴む感触と安堵感がある声。姿を確認すると、誰であるかと英司は瞬時に覚る。
「澪亜さんと、呼んで良いですか?」
「まぁっ! 私を知っているなんて、嬉しいです」
「いえ、僕の上司の亡くなった奥さんに似ているから。丁度貴女がお召しになってる衣装が印象的で、幸せそうでーー」
「益益舞い上がってしまうわよ?」
「ははは。僕は既になってしまいました」
「綺麗なままは良いけど、正直に言えば困ってるわ」
「僕でよければ、理由をおっしゃってください」
「愚痴るのも嫌よ。言うだけで気が滅入るから」
澪亜は身に纏う純白の衣の裾を掌で掴み、足元を軽やかにしながら三歩進んで立ち止まる。
「美味しい食事をお腹一杯食べて、最高に酔えるお酒を味わって、大好きな人の寝顔を見つめる。ちょっとした慾望を僕が抱いていると言ったならば、貴女の秘める想いを訊けますか?」
「返答は遠慮するけど『三つ目』は貴方の願望と、伝えるわ」
「つまり、僕は誰かを欲しがってると、貴女は解釈した」
「自分でばらしてる癖に、如何にも私が見透かす言い方はすべてから逃げてるようなものよ」
英司は澪亜の言葉に切り返せなかった。否定するに口を突くさえ恐怖を覚える。
「弱腰では本当の望みを叶えるなんて、出来ないわ。貴方が言葉にすれば良かった事が沢山あったと思う。欲しいのは欲しいと、自分に約束してっ!」
澪亜が叫ぶと同時に、眩い閃光が英司を目掛けて迸る。堪らず綴じた目蓋を恐る恐る開くと、一直線に延びる輝く路が表れていた。
英司は腰を下ろす。路に腕を伸ばして掌を押し当てると涙が溢れ頬を濡らすが、拭うことなく咽びまくる。
「澪亜さん。僕は皆に大切にされていたと、言うのは自惚れでしょうか?」
「離れて気付く事は、誰にでも起こりうるけど『諦める』の口実には成らないわ」
背中に衝撃を受けて路に転倒した英司は澪亜に振り向くが、姿は遠く離れていく。
「澪亜さんっ!」
「振り向かないでっ! 貴方が思い出になるは早すぎる。貴方の時間は貴方のもの。十分に間に合うから、怖れずにーー」
ーー自由になって…………………………ーーーーーーーー。
ーー戸田さん、戸田くん、英司さん、英司くん……。
「あなたっ!」
「わっ! どうしたっ? し……母さん」
「汗だくになりながら唸る程の夢だったのでしょう?」
「ふえぇえん」と、耳元を擽る泣き声が室内に木霊する。
「琥太郎も心配しちゃうよね? 大丈夫よ。たった今うんと叱ったから、寝んねしましょう」
「では『父さん』が代わりに琥太郎の『ご飯』を飲むとしようっ!」
「却下っ!」の罵声と共に英司は弾き飛ばされるーーーー。
******
英司は重く綴じる目蓋を漸く開く。そして、辺り一面を目で追うとちらりと、人影が視野に入る。
「戸田さん、私が分かりますか?」
全身すっぽりと医療用の蒼い防護服。声は女性と英司は理解するが、やっとの思いで腕を伸ばし、掌を差し出した。
「良かった……。そして、貴方がこんなになるまで気付かなかった。私は過ちを犯した『赦して』なんて、あまりにも調子良いですよね?」
英司は懸命に口を開くが、声を上手く出せない歯痒さに堪らず「はあっ!」と、呼吸を激しくする。
「嫌っ! 行かないで、戸田さん」
触れる掌の温もりが英司の全身に駆け巡る。
「……。僕は生憎《花畑》から『解雇』されてしまった。だから、居場所を探してる。只し、何処でも良いはないーー」
英司は一息を吸い込み、か細く言葉を吐く。
「もう一度、言って貰えますか?」
英司の口元に、女性の耳朶が僅かに掠める。
擽る感触に悶えるを押し込めて、英司は今一度想いを解き放す。
ーーはい……。
籠の鳥の囀りを彷彿する囁きに偽りはないと、英司は笑みを湛えたーー。