13ピース目
場内の一階と二階を繋ぐリフト。アコーディオン式の扉で仕切られているが、開閉は手動だった。
田村悦子は扉を開くとキャスター付きの台車を押していく。本人曰く、此処までは作業行程を踏まえていた。
一階に設置されている業務用の機械のモーターの音を、作業場のスピーカから発信されるリフトの上昇を知らせるブザーと誤認識した。違和感なく足場さえ確認もせずに業務を遂行した結果、高さは5メートルはあるだろうの二階から転落をした。
作業手順を重ねて怠った事が事故の原因。大惨事であったが、同時に落下した製品がクッションの役割を果たして全身打撲を免れる。ただし、全治三週間の怪我には変わらず、入院治療を余儀無くするに至ったーー。
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現場検証が終わり、捜査官達が引き上げて行く様子を英司は会議室の窓越しから見つめていた。一方、志帆は事情聴取から解放されて、疲労困憊状態で椅子に腰を下ろしていた。
室内は息苦しく、英司は吸い込む空気を吐く事でさえ躊躇っていた。就労時刻を知らせる非常ベルと区別がつかない音が響くと同時に、金木犀の薫りが鼻を擽らせる。
「戸田さん、私はこの時期にしか嗅げない香りが好きです」
窓を全開にした志帆は淡い日射しを浴びていた。
英司は《女神の輝き》に剥ける渾渾と涌きあがる欲望の水を、理性の蓋で閉じる。
掛ける言葉にも慎重となった。田村悦子に触れるような発言を思考から排除して、ポメラニアンの作蔵を一か八かで話題にしてみようと、思い付く。
「戸田さん、ワンちゃんを渋いお名前で呼ぶのですね?」
「『蓋は開かれる』という、邦画の主人公の名前から付けたのです」
「映画がお好きなのですか?」
「専らレンタルですけどね」
微笑みを浮かべる志帆の様子に、英司は肩の荷を下ろせたと安堵の息を吐く。
「僕、業務に入りますね。浅田さんは暫く此処で待機されて下さい」
「ならば、私も行きます」
志帆が会議室の扉に靴を鳴らして行く。英司は瞬時に前方に駆けてドアノブを両手で握り締める。
「いえ、貴女もご存じと思いますが、特に彼是と興味深く話を聞き出そうとするチビで口から生まれた人が恐らく……。ですよ」
「依子さんでしょう? 気にはしません」
「僕が赦せないのです。貴女の傷口に塩を塗られるなんて、僕は堪えられません」
「降りかかる火の粉は自分で払い落とします」
「駄目です!」
「退いて下さい!」
「嫌です!」
「戸田さん、意外と強情ですね?」
「貴女に何を言われようが、怯みません」
志帆の掌が英司の腕を掴む。爪を点てられて堪らず唇を噛み締め、抑えていた感情を解放するかのように、英司は更なる行動に移した。
正面に向き合う顔。目を合わせる事もなく、志帆の唇を唇で塞いでいったーー。
ふわりと、志帆が脱力する身体に空かさず両腕で包み込み、深く自身に引き寄せると唇の感触を英司は貪り続ける。
志帆の甘い息を吸い込み、風を受けるように英司は震えて悶える感覚を膨らませた。
「戸田さん、やめて……」
志帆の振り絞る声に耳を澄ます一方、腕を解すと伸ばす掌を英司は掴み、自身の振動を押し当てる。
「僕は岡村さんのように敏腕じゃない。仕事だって何時も叱られる。でも、人を好きになるは僕にも権利はある」
深海で泳ぐ魚と例えて盲目状態。事を先ばらしてもよかったが、今いる場所は何処だという思考で平常心を取り戻して、頬を涙で濡らす志帆に口付けを今一度すると、自ら離れて扉を潜り抜けていった。
志帆へ向ける想いを精一杯に伝えた……。
受け止めてくれると期待はしなかった。岡村という男の存在を絶対に拭いきる事が出来ない志帆だからこそ、真っ正面で立ち向かった。
これで良いと自身に言い聞かせ、慌ただしく動く従業員に交じって業務を遂行する英司だった。