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「ボイン、点火!」

「……今、何と仰ったのですか?」

「工場を稼働する前の掛け声だ」


 早朝の〈ボイラー室〉に二人の男が引き締めあっている。一人は工場長にして会社の課長。もう一人は、その下で管理職を志す中途採用の29歳の青年。


「岡村さん、出鱈目を正しく言うのは岡村さんだけです」

「戸田、真面目に真に受けていたら、あっという間に潰されてしまうぞ」

「今日の全体朝礼の掛け声当番は、浅田さんでしたよね?」

「それがどうした?」


「人前で発言するのは苦手と、本人が言ってました」

 この言葉がまさかの白羽の矢を立てる。


気が付けば、その時が刻一刻と迫っていたーー。


『本日の掛け声は本社管理課の戸田さんです』

 歯を見せ、笑みを湛えながら、岡村はマイクを握りしめる。


戸田はほぼ硬直状態で、食堂に集う従業員に視線を浴びせられていた。


『努力なくては成長はありません。本日の掛け声は“日進月歩”と致します。私が〈日進〉と言いますので、皆さんは〈月歩〉をお願いします』


 日進っ!


 月歩っ!


役目を終えた戸田は大きく息を吐き出し、目の前にある椅子にすとり、と、腰を落としていった。


 その間を置くこともなく、岡村より業務事項の申し送り、最近の場内の風紀の報告。更に各部署の班長とのミーティングと続いていく。


「先週の各部署の状況報告を。まずは、浅田!」

 岡村がそう言うと「はい」と、返事の方向に戸田は視線を注ぎ込む。


「生産に於いては閑散の時期の為、早上がりの対応を行い、稼働時間を調整致しました。あと、班の要望として、雨天時の雨漏りの対策をお願いしたいと受けています。そのご返答を宜しくお願いします」

 黒い髪のショートカット、幼い顔立ち。岡村に浅田と呼ばれた女性の頬がほんのりと、赤く染まっていくのを戸田は見過ごさなかった。目が合い、その形相はくしゃりと、変わりながら、首を横に振られてしまう。


 彼女の事を気に出したのは何時からだろう? と、戸田はミーティングの進行の最中でも、その思考を膨らませていた。


 遡ること、去年の秋。再就職希望先への面接に向かう為に交通機関を待っていると、目下の少女の異変に気付き駿足をするものの、自身の頬に軽傷を負う。


 言葉も交わした。相手は繰り返し謝罪を述べる。面接時間が迫っていた為、急遽タクシーでの移動を決行する。


 面接の担当者には頬の傷を指摘されるが、事実を伏せたまま説明をした。一見すると温厚な人柄の担当者からの質問内容に、真剣な返答の最中、ぷっ、と、吹き出し笑いに咄嗟に険相すると、相手も察するかのように眉を吊り上げていた。


 帰り道、コンビニエンスストアに寄って一冊の求人雑誌を購入する。帰宅して即、ページを捲っていると携帯電話に採用の連絡。


そして、出勤してまさかの再会。


 少女と思い込んでいたら、自分より2つ年下。その人物こそ、浅田志帆だった。



 ******



「あの時はもう、駄目かと思っていた」

「岡村さんは、そういう方です。貴方の受け答えに直感された」

 戸田は休憩時間に、場内にいる志帆と会話する。内容は、自身の面接の思い出だった。


「睨まれていたのに?」

「あやふやな答え方をする人は信用されません」

「岡村さんの性格を知っている? 部署の班長。いや、正社員となれば、さすがだよ!」

 戸田は嬉々とする形相で手に持つ缶コーヒーを啜るが、咽び吐く。


「嫌だ! 戸田さん、こっちに向けて咳き込まないで」

 志帆は瞬時に戸田の胸部を右肘で押し込むと、缶が足元へと落下し、そして……。最悪な事態が起きてしまった。


 今朝、岡村のふざけたあの言葉が蘇る。其れを自身がやってしまった。ふにゃりとした感触、ご丁寧に吸盤のように其処に貼り付く掌。


 盛りは並、形はまずまず。


戸田が触れたのは紛れもなく……。


 ーーボイン〈なんちゃって〉点火!


 少し改ざんさせて、男だったら一度は言いたいだろうのよい子は真似をしたら駄目の行為の表現を思い浮かべる。


 見つめた志帆の形相は、まさに恐怖との遭遇そのもの。声を発しないところが戸田にとっては幸運。とはいかなかった。


 親切に目撃した従業員によって、岡村にその時の状況を通報されてしまい、今まさに〈事情聴取〉を受けていた。


 会議室で眉間に皺を寄せる岡村。戸田の口からこんな言葉が吐き出される。

「岡村さん、僕も膝を強打しているのです。ホラ、こんなに腫れ上がってるのでーー」


「空缶を踏みつけた勢いで転倒したぁあ? 嘘こけっ!」と激昂する岡村は戸田のズボンの裾を捲り、剥き出す脛の毛に事務用品のクリップを挟みぶちり、と、引っ張る。


「さぁ、素直に罪を認めるのだ!」

「だから、事故だと何度も述べているでしょう! 岡村さん、此れってパワーハラスメントですよぉおお」

「セクハラを犯しといて、何を偉そうな事を言いやがるっ!」

「偶然に触ってしまっただけです」


 ーー岡村さんもう、止してください。戸田さん此れだけ言い張ってるし、私……も、その……余計に恥ずかしいです。


「浅田、一度許すと再犯してしまうのが、戸田の様なタイプだ。特に、おまえはお人好し過ぎる。心を鬼にしろっ!」

「其れに、今回の件は休憩中に起きた事。目撃者の岸部さんは極度の近眼です。偶々、そんな様子に見られてしまったと受け止めてください」

「……だが、浅田。おまえが受けた行為は、女性の人権侵害に当たるのだぞ?」


「会社に行けなくなってしまいます」

 室内に志帆の泣き崩れる声が響き渡る。二人の男は沈黙して、その様子を見つめ、交互に溜息を吐く。


「岡村さん、浅田さんが病気になってしまったら大変です。やはり此処は僕が!」

「バカチンめっ! 此れだけ泣かれてしまったら、此方がお手上げだ。戸田、おまえは当分浅田に近付くのは禁止っ! 目撃情報も信憑性はないと、俺から現場に伝える」


 岡村は志帆だけを退室させると残る戸田と肩を組み、か細い声で会話を始めていく。


「戸田、本当に浅田に手を出すつもりではなかったのだな?」

「会社でしかも、他の従業員の方の前でできませんっ!」


「絶対に、か?」

「勘弁してください」

 涙声の戸田の両耳朶に、装飾品のようにクリップが挟まれており「ちっ」と、岡村は舌打ちをしながら、手にするクリップを作業衣の左胸ポケットに納める。


「今日はその状態で業務を遂行しろっ!」

「見苦しいから、嫌です」

「屋根に登っていれば、誰も気付きはしないっ!」

「益々、酷いですよぉお!」

「おまえは馬鹿か? 今朝、浅田の要望は何か忘れたのか!」


 がちゃり、と、戸田の耳元でクリップが擦れ合う音が鳴る。



 ******


「しっかりと、押さえとけっ!」

 戸田は工場の屋根で足元の恐怖に怯えながら、初老の男に指示を受けていた。

「松野さん、設備課は貴方だけですよね? さぞかし、ご多忙と察しております」

「要らぬ世話だ。早く此方に材料をよこせ」

 カンカン、と、男は修繕箇所を塞ぐ板に刺す釘を、金槌で叩き込んでいく。


「大変ですね?」

「接着剤はどうした!」

「……判りました」


 こうして戸田は作業を続ける松野の為に、不足している材木、工具、とその度に上へ下へとアルミ製の梯子に足を掛ける。


 汗と埃。更に擦り傷、切り傷に涙目をさせて漸くその作業が終了したのは、日没前だった。



【Uライン建屋の屋根修復作業完了】


 戸田はそう記す日報を岡村に提出すると、逃げるように事務所を出る一歩前で「待て」と、怒りを膨らませる声色に身体を硬直にさせる。


「たまには俺と飯に付き合え」

「……僕、給料前ですから」

「おごりに決まってるだろう!」

「ですが……」


 躊躇っていると腕を掴まれ引き摺られるように、会社近くの居酒屋の暖簾を岡村と共に潜り抜ける。


「お、ちゃんと待っててくれたのか?」

 岡村が声掛ける先の座敷席で見覚えがある女性がこくり、と頷く。

「岡村さん?」と、戸田は怪訝としていると「さっさと浅田の隣に座れ」の促しと背中の衝撃に目眩を覚えながらも、嬉しさを堪えて靴を脱ぎ、笑みを湛える志帆と目を合わせながら、着席していった。


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