3. 最初の一歩
ダンの家は、町外れの農地の中でも、特に森に隣接している端のほうにあった。人の通る街道を通れば、ソラの店から徒歩で1時間ほどかかる距離だ。森の中を突っ切ったほうが早く、そうなると森の奥にあるソラの家からでも1時間ほどで着ける距離なのだが、今回は一度店の方へ出て、それから街道を行くという手段を選んだ。
森に身を潜めているという盗賊を警戒したこともあるが、夏のこの時期、ソラはできるだけ森を歩かないようにしている。いつもはソラと仲良くしてくれているメスのヒグマ・コハクの匂いのついた外套を着ておけば、森で他の獣に襲われることなどまずないが、ヒグマの繁殖期である今の時期は、メスの匂いなど纏っていてはかえって危険で、ソラは身を守るすべを、一つなくす事になるからだ。
『急がないと日が暮れるぞ、ソラ』
『・・・分かってるよ』
人通りの多い街中を抜け、のどかな田園風景を重い足取りで歩くソラに、ラルの念話が飛ぶ。
ソラは全財産と呼べるすべてを詰め込んだ、大して大きくもない肩掛けかばんを背負いなおしながら、とぼとぼという擬音が似合いそうな足運びで馬車の通った跡を辿った。
何を持っていくか2時間以上悩んだ末に、結局全部持ってきた。何が必要になるかわからなかったし、コウシャクが『いつ戻れるかだって分からないんやで』なんて脅かすから、大切なものはすべて持ち出すことにしたのだ。さらに、そもそも行くべきかどうかまで迷い始めて、出発が遅れた。
『一度“行きます”って答えたんだから、時間に遅れれば信用問題だろ?』
『・・・分かってるってば』
ソラの保護者を自負する鳩は、やたら口うるさくソラを急き立てながら、頭上を旋回していたが、やがてあきらめたように、進行方向に5mほど進んだところの木に向かい、羽を休めた。
普通ならば、視線を交わすなど、お互いを認識した状態じゃないと念話は交わせないが、ソラはラルやコウシャクなどの親しい動物の念話ならば、1kmくらいまでなら離れていても何とか気づくことができるほどだ。
5mの距離などないに等しく、会話は続く。
『ダンの奥さんに会うのが心配か?』
『・・・まぁね』
ソラの中では、幼い子供と老人以外は安心できない相手だった。特に年頃の女の子と中年の女性は苦手で、ダンの奥さんも十分苦手な部類に入る。
出会いがしらにどんなリアクションをされるかと思うと、気が重かった。食堂の女将みたいに、汚らしいものを見るように見られるのだろうか。それとも、可哀想なものを見るように見られるのだろうか。
はあ、と重くため息をつくと、ラルが慰めるように『案外気が合うかもしれないじゃないか』と言った。
『物静かで、服装も地味だし、人付き合いが苦手そうな人だったぜ?ソラとは似たもの同士だよ、あれは』
『!? ラル、知ってるの?』
『・・・ソラがグズグズしてる間にな。ちょっと先に覗いて来た』
ソラを人の世界に引っ張り出した自覚があるラルは、それなりに責任を感じていた。今回の事だって、ダンの家に変な人間がいればソラを止めようと、先に偵察に行ったほどだ。
いつの間に、とソラは内心驚いたが、鳩の移動飛翔速度は、実は鳥類の中でも最速の部類なのだ。4kmそこそこの距離など、本当に“ちょっと行って来た”レベルなのだろう。
『赤ちゃんもいたぜ?2ヶ月ってところかな』
『へぇ~!』
ソラの気持ちは少しだけ浮上した。赤ちゃんが大好きなのだ。誰にも悟られず、こっそり念話で会話するのが楽しくて仕方ない。
『2ヶ月か~。まだお話できるね!』
人の赤ちゃんは、遅くとも1歳を過ぎると念話能力を失っていく。2ヶ月ならば、まだまだ十分に会話が可能だ。
最初に保護された、シャイラの集落で会ったきり、人間の赤ちゃんとは縁がなかったソラは、突然降って来たチャンスに胸をときめかせるのだった。
***
深呼吸を一つしてから、ドアをコンコンとノックすると、まるでドアの後ろで待っていたかのようなすばやさで、ダンがドアを開けた。
「あぁ、良かった!ここに来るまでに何かあったんじゃないかって、気が気じゃなかったよ」
心底ホッとした様な顔をするダンに、ここに来ることをうじうじと躊躇っていた事を申し訳なく思ったソラは、「ごめんなさい」と項垂れた。
玄関前のポプラの木に止まっていたラルは、そんな風に暖かく迎え入れられるソラを静かに見下ろしていた。どんぐり色のやわらかい髪をくしゃくしゃと撫でられるソラを、切実な瞳で見つめる。
念話としてソラに飛ばされてしまわないように心を閉ざしながら、ラルは思う。
(今度こそ、上手くやれよ、ソラ。俺だって、いつまでも傍に居てやれないんだからな)
もうすぐラルにとって3度目の秋がやってくる。普通の鳩が同じ季節を4回迎えることはない。動物としては長命な人間と違って、ラルの命には限りがあった。それまでに、ソラに番を見つけてやりたいと思う。一生添い遂げる、夫婦じゃなくてもいい。刹那的な、若い人間の言うところの、カレシでもいい。もっと妥協して、トモダチでもいい。ソラが、人を信じられるきっかけを作ってやりたい。
『ヒトって面白いわねぇ、あなた』
かつて自分の隣で、人の営みを観察することが趣味だった、生涯唯一と決めた、最愛の番を思う。そもそも人間に興味などなかったラルでも、彼女とともに人を見下ろし、時に笑い、時に怒り、時に感動しながら時間をすごせば、いつの間にか人間の生活を知り、愛着を持っていった。
森の奥で、ひっそりと動物たちと暮らすソラに出会ったのは、彼女を病で亡くした直後だった。
楽しそうに笑いながら、ふとした瞬間に見せる寂しげな横顔は、念話などよりも雄弁に、ソラの本音を語った。それは、ラルが感じていた心の穴と、きっと似ているものだったから、なおさら良く分かったのかもしれない。
自分より長く生きているかもしれないけれど、人としてはまだまだ子供で未熟なソラ。
同属を恐れ、強がって、生涯一人で生きようとしている彼女に、愛する人を見つけてほしかった。それがいかに幸福なことか、知ってほしかった。そうすることで、どれほど世界が豊かになるか、体験してほしかった。
そうして、自分も、人間の傍で生きることで、亡くした彼女の面影を追いかけたかった。
だけど、そろそろ、タイムリミットが近い。
ラベンダー色に染まった空へ翼を広げる。
できるだけソラの近くに居たくて、ラルはダンの家の軒下で休むことにした。
***
同じ頃、ソラの方はラルの寝床の心配をするどころではなく、いっぱいいっぱいだった。
夏野菜の収穫が始まり、わりと広い土地を持つダンの家には泊り込みの雇われ農夫も居て、通されたダイニングでは、4人の男が既に食事を始めていた。
想像だにしていなかった展開に、ソラは内心『らぁーるーぅ!』と、先に偵察に来ていた相棒を責めたが、ラルがここに来た時には、彼らは農場での仕事中で、そのうち何人がダンの家に泊まり込むのか知る由もなかったラルを責めるのは酷な話だ。
人の気配を感じたのか、がつがつと食事を食べていた男集の手が止まり、4対の視線がいっせいにソラへと向けられて、ソラは思わず後ずさった。
奥さんと会うことに対して緊張していて、他の人間が居る可能性を考えていなかったソラの頭が真っ白になる。
「そっちの奥に居るのから、シーゼル、ウェル、ゼスト、リックだ」
早口で紹介されても、そもそも人の名前を覚えるのが苦手なソラには呪文のように意味を成さず、耳を上滑りしていくが、固まっているソラに気づかず、ダンは続けた。
「彼女はソラ。こんな若いのに、普段は森の中で一人でりっぱに暮らしてるんだ。けど最近は何かと物騒だろ?今回の盗賊騒ぎがあって、しばらく一緒に暮らそうと俺が誘った。・・・お前ら、俺の顔に泥を塗るんじゃねぇぞ。特に、シーゼルとウェル」
ダンににらまれた、男集の中では未婚で若い・・・そもそもソラには4人とも体格のいい男というだけの認識で、年なんてわかっていなかったが・・・二人が慌ててソラから視線をそらした。
「ダン、そりゃないんじゃないか?若いモンの貴重な出会いの出鼻をくじいちゃ可哀想じゃないか」
お酒を飲んでいるのか、赤い顔をした男がはやし立てる。
「くじいて置いた方が安心だからな」
ダンは笑ってソラの分のスープ以外の食事を並べた。
「今スープを温めてるから」と言ったダンに促されて、ようやくテーブルについたソラだが、いきなりの想定外なシチュエーションに頭は真っ白なままだ。
(どうしよう、名前、聞き逃しちゃった!)
考えるのはそればかりだった。
いや、きちんと名前を聞いていたとしても、一度に四人もの名前を覚える自信はない。
名前を覚えたとしても、誰が誰だか見分けがつかないのだ。
けれども、軽いパニック状態のソラを置いて、テーブルの会話は再開された。
ソラに質問攻撃をするでもなく、今日の収穫について談笑する。かといってソラを無視するでもなく、時々ソラのリアクションをうかがうように視線を向けてくれた。
少しその場の空気に慣れてきて、余裕が出てきたソラは、やっと状況の把握に入る。
最大で8人座れるらしい大きなテーブルに3人と1人が向かい合って座っていた。一人で座っているのが、割と饒舌な赤ら顔の男性で、既に入浴を済ませたのか、黒に近い茶髪は濡れてペタンとしていて、洗い立ての白いTシャツを着ていた。ソラは心の中で彼にヨッパライさんとあだ名をつける。
ヨッパライの向かいに並んで座っている3人は、奥の方に比較的若そうな赤茶の髪の男が二人座っていて、彼らがシーゼルとウェルなのだろうが、どちらがどちらか分からない今、とりあえず、奥に居る、ゆるいウエーブ・ヘアのひょろりとした男性をスラットさん、真ん中の筋肉隆々でいかにも強そうな短髪の男性をマッチョさん、と認識した。マッチョの隣に座っているのは、こちらもマッチョと呼べそうながっしりしたおじさんだったが、眼鏡をかけているのが一番の特徴だったので、メガネさんと覚えることにした。この際、多少失礼なのは仕方ない。
ソラが座らされたのは、ヨッパライの隣だった。
さらにダンが、その隣にスープとパンを持って座る。
ふとテーブルを囲む面々が皆男性であることに気がついて、ソラがダンに話を振った。
「あの、奥さんは?」
「あぁ、メイサは部屋に居るよ。娘のライラと一緒だ。産まれて2ヶ月しかたたない赤ん坊なんだが・・・これがちょっと気難しい子でな」
眠るといってもせいぜい1時間程度で、おっぱいを飲んでいるときこそおとないしいものの、あとはぐずって泣いている事が多いのだという。そうしてまた泣き疲れるようにして、少し眠る。そしてまた起きて泣く。
そんな状態だから、メイサはライラが眠っている間に、ベッドで急いで食事を取り、そのまま短い休息を取っているという。
「正直見ていられないよ。俺の両親は早くに亡くなっちまったし、メイサとは駆け落ちしてるからなぁ」
普通ならば子育ての先輩として頼りになるはずの祖父母が居ないのだ。
「だから、俺のところに来たらどうだって言ってるんだよ」
ヨッパライがそう言って頬杖をついた。
ソラに視線を投げて、解説するように「俺の家には嫁と子供が5人居てな」と付け加えた。
「下の子はまだ1歳にもなってないからメグをこっちにつれてくる訳には行かんが、メイサとライラがうちに来る分には歓迎するぞ。散らかってるし、うるさい家だが、一人で部屋に引きこもっているよりマシだろ?」
「お前の言うことも分かるが、メイサは人一倍人見知りなんだ。ただでさえライラで手一杯な彼女が新しい環境に行くのは難しいよ」
ダンはスープを無意味にかき混ぜながらこぼした。
こんな風に、大勢と食事をしたことがないソラは、こんな状況で自分だけ食事を続けていいものなのか分からず、とりあえず、繰り広げられる会話をしっかりと聞く体制をとっていたのだが、向かいに座っていたマッチョが「ソラちゃん、食べないの?」と振ってきたことで、ダンが苦笑した。
「あぁ、すまなかったな。この話は後で酒でも飲みながらするとしよう。今はとにかく食べるぞ。せっかくのスープが冷めちまう」
そこから、ソラとダンは黙々と食べることに集中した。
先に食事を始めていた4人がする雑談に耳を傾け、相槌を打ちながら、ソラの初めての晩餐は過ぎていった。
食事の後にダンに案内された部屋は、2階にあった。
前に掃除の日雇い仕事をしたレストランは二階に宿があって、掃除などで二階に上がったこともあったが、基本的にソラは二階で寝泊りしたことはない。
今の塒である猟師小屋も店として使わせてもらっている古い家も平屋だし、最初に過ごした村も、このランフォルの街よりもずっとずっと小さくて、猟師小屋と同じレベルの家しかなかった。当然、2階建ての建物などない。
だから、「ここを使ってくれ」と通されたのが、2階の日当たりの良さそうな、南向きの部屋だったとき、ソラは物珍しさに浮かれていた。
可愛らしい小花柄で統一されたベッドリネンや、質素なランプシェードに飾られた小さなリボン。無地だけれどピンク色のカーテンには、蝶の形をしたアクセントがついたカーテンタッセルがゆれている。
今まで見たこともない、可愛らしい部屋に視線を奪われていて、こんなお部屋を使っていいのかと我に返ったときには、ダンの姿は消えていた。
よくよく見てみれば、ベッドにかけられたシーツなどは新品だ。
(こ、こんな立派なところで眠れないよ!リビングのソファでいいって言って来なくっちゃ!)
慌てて廊下に飛び出したところで、赤ちゃんの泣き声が耳に飛び込んできた。
部屋に居たときから聞こえていただろうに、気がつかなかったのが不思議なくらい、思いっきり泣いている。
「眠って頂戴!もう夜なのよ。静かにして」
「メイサ、代わろう。お前も少し食べて休め」
穏やかに言い聞かせてはいるが切羽詰った女性の声と、少し疲れたようなダンの声に、足を止めた。
きっと、ソラや他の客人への給仕が終わったから、妻のところへ食事を持ってきたのだろう。
いくら人と暮らした事がないソラだって、このくらいの空気は読める。
もう、今夜はあの部屋で過ごすしかない。
すごすごと部屋へ戻り、皺一つなくシーツに包まれたベッドに寄りかかるように板張りの床に座った。
カーテンが開けっ放しの窓から、細い三日月が見える。
ダークグレイに見える雲が、月の前を割りと速いペースで通り過ぎていった。かなり風があるらしい。
なんとなく床全体が揺れている気がして、ソラは落ち着かない気持ちになった。
狼に追われて木の上に逃げて、一晩明かした事もあるソラだったが、初めて経験する二階の部屋と言うのがこんなにも心もとない気持ちになるなんて思わなかった。足が地に着いていない、不安。
『ラル・・・』
念話で呼びかけてみるが、夜は視界が利かない相棒は、日が沈むとすぐに眠ってしまうため、応える気配もない。
「なんか・・・すごく静かだな」
風がカタカタと窓を揺らす音と、誰かが歩くたびに床が軋んだ音を立てる位で、生き物の音がしない。
壁越しに聞こえる赤ちゃんの泣き声だけが、ソラが一人じゃない事を教えてくれていた。
ネズミやモモンガのおしゃべりや、フクロウの囁きも聞こえない。静寂。
なんだか眠れそうになくて、ソラは持ってきたカバンを引き寄せ、中から一冊の本を引っ張り出した。
ソラの2番目の養い親で、村の人間には長老と呼ばれていた、シャイアがくれた、唯一の本だった。
表紙の絵は、日に当たり、泥にまみれて殆ど判別がつかない状態で、もう何度も捲ったページは、雨風に晒されたせいもあり、いつバラバラになってしまってもおかしくない位、脆くなっている。
そんなボロボロの本だが、何度も読み返したソラには、その見えなくなった表紙も、ちゃんと瞼の裏に刻まれていた。
日の光を集めたような黄金色のやわらかそうな髪の少女には、向こうが透けそうにうすい、深緑色の蝶の様な形の羽がついていて、栗色の巻き毛の王子様に優しく抱かれている絵だ。
二人を祝福しているように、頭上には澄み渡った青空が広がり、その目の覚めるような青の中に浮かぶ雲のように、白い文字で“妖精姫・フェリシアーヌ”と書かれている。
ソラはもう何度も開いたページを、ぱらぱらと捲った。
それは、このカナーディア公国に住むものならば誰でも知っている、お伽噺だった。
ある日フェリシア森林帯に狩りに出ていた、公国の第一王子・ヴィートリッヒは、森の奥で怪我をしていた、森の妖精・フェリシアーヌを見つけ、助けるところから話は始まる。
ヴィートリッヒは、人を知らないフェリシアーヌを街へ連れ出し、人の営みを見せていく。戸惑いながらも、新しい世界を知っていくフェリシアーヌと、彼女にずっと寄り添うヴィートリッヒは、やがて恋に落ちる。王族と妖精と言う身分の違いを乗り越え、結ばれる二人を祝福した森の精霊が、カナーディア公国に平穏を与えるために、今はカナーディアの天然城壁と呼ばれる、あのマッキー山脈を築いた、というものだ。
ソラはこの話が大好きだった。
動物に囲まれ、森で暮らすフェリシアーヌは、まるでソラのようで共感できたし、人の世界に戸惑い、しり込みするフェリシアーヌを優しく導くヴィートリッヒは、本当に素敵な王子様で。幼いソラは、よくシャイアに「ソラのところにも、王子様、来てくれないかなぁ」と言いながら目を輝かせていたものだ。
「王子様が来たら、ソラはどうするんだい?」
「え~?それはモチロン、お城に連れて行ってもらうの!賑やかな城下町を見せてもらって、きれいなドレスを着て、バラの咲くお庭で、宝石みたいなお菓子を食べさせてくれるんでしょう?」
華麗で優しい王子様をうっとりと夢を見るソラの柔らかい髪を、シャイアが苦笑しながらゆっくりと撫でる。
「これはお伽噺だからねぇ。・・・実際のお城や王子様は、どんな風か分かったもんじゃないよ?」
王子様を否定するシャイアに、ソラはぷくりと頬を膨らませて反論したものだ。
「王子様はいい人よ!だって、将来王さまになる、偉い人なんだから!沢山の人に慕われるんでしょう?シャイアだって、この村で一番偉くて、一番いい人だもん!」
村とも呼べないような小さな集落だったが、そこの長老だったシャイアは、人の言葉さえ解さなかったソラを受け入れ、守り、慈しんでくれた。
群れのリーダーには、そういう強さと優しさがあるものだと思う。
最初の育ての親だったオオカミのことは、ソラはもう殆ど覚えていない。
それでもやっぱり、群れのリーダーだったメスのオオカミは、無力なソラを匿い、養ってくれる器があったのだと思う。
ふと、今朝会った、絵本の表紙の王子様と重なる面影を思い出した。
この広大なブライツヘルム領の、次期領主。
アメジストのような鮮やかな紫だったヴィートリッヒの瞳とは違う、冬の湖の水面のような暗いプルシャンブルーの瞳が、険悪に細められる。
「こんな山猿のようなみすぼらしい小娘が」
「これならまだ、本物のサルに頼んだ方がマシという物だ」
(・・・やだ、私ったら、変なものまで思い出しちゃったじゃない)
なまじ言葉を交わすまでは、少しカッコいいかも知れないと思ってしまったから、あの口の悪さは衝撃的だった。
(ヴィートリッヒ様みたいな顔して、ホント失礼っ!)
ソラは中途半端に開いたままだった本を、少し乱暴にバタンと閉じた。
眠れそうに無いけれど、どうにか眠らなくてはいけない。
明日は、お世話になっているお礼に、ソラにできる仕事をさせてもらわなければいけないのだから。
背中を預けていた、きれい過ぎるベッドを振り返って、しばらく考えてから、肩掛けカバンを枕に、床に直接眠る事にした。もう季節は夏だ。このまま眠っても問題は無い。
ゆらゆらと揺れているような気がする床に、ソラはぎこちなく丸くなった。