2. ものすごく失礼なひと
ソラは普段、店の裏手に広がる森の中に20分ほど進んだところにある小さな小屋に住んでいる。
その小屋はソラが生まれるよりもずっと前に、猟師が住んでいた家だが、空き家になって久しく。ソラが住み始めたときには、街の人たちもその存在を忘れていたような小屋だった。それを、手先が器用な動物たちに手伝ってもらって少しづつ直し、バイトで稼いだお金で色々と買い揃えた、ソラだけの城だ。
外見は丸太を積んだような素朴なログハウスで、小さな窓にはソラが選んだ赤いギンガムチェックのカーテンが掛かっている。ちなみにこれは、ソラがあこがれているあのお菓子屋の雰囲気をソラなりに真似していたりするのだが、合っているのはギンガムチェックという事だけで、ラルでさえ気付いていない。
ソラは小屋の裏手にある小さな鳥小屋の前へ、覗き込むようにしゃがみこんだ。
「おはよう、コッコおばあちゃん。今日は卵、ある?」
『おはよう、ソラ。あぁ、あるよ。もってお行き』
「ありがとう、おばあちゃん」
ソラがパンくずを小屋の前に置くと、中から雌鶏がひょこひょこと現れる。
このニワトリは野生化したニワトリで、元々森で自由に暮らしていたが、今はこうしてソラに卵を提供する事で住処と食事をもらう共同生活をしていた。
曰く、『もう十分子孫は残したし、この老体で肉食動物から逃げながら食料を探すのは大変だからねぇ。農場から逃げてきた母がよく言っていたものさ。人との暮らしは、まんざらじゃなかった、ってね。それで、アンタと一緒に暮らしてみたくなったのさ』
コッコばあは、もう毎日卵を産む事はできなくなってしまったけれど、それでもソラに貴重な食料をくれる。
ちなみにコッコばあの子供たちは先週までここに居て、たくさんの卵を提供してくれていた。クッキーも焼き放題で、それはそれはありがたかったのだが、ついに自由を求めて森の中に入っていった。コッコばあは、『そのうち戻って来るさね。森の中は甘くないよ』と苦笑していたから、ソラはちょっとだけ期待している。
貴重な卵で何を作ろうか考えていると、小鳥たちが話しかけてきた。
『ソラちゃん、ソラちゃん』
『お店にお客さんが来たよ』
空を見上げれば、黄色と赤の飾り羽が鮮やかな小鳥が3羽旋回している。ソラは「ありがとう!」と手を振って、卵を抱えたまま小屋へ駆け戻った。
キッチンのキャニスターに入れてあるパンくずを一掴み取って窓辺に蒔けば、先ほどの小鳥たちがわっと集まってくる。
他の動物に横取りされていないのを確認してから窓に鍵をかけ、寝室に置いてある肩掛けポシェットを引っつかんで、飛び出そうとして、寝室の壁に掛けてある鏡に映る自分の姿に足を止めた。
先日買ったシャンプーの威力は凄かった。
今まで一番安い石鹸を使っていたのを後悔するくらい、あっという間に、どうにも収まりがつかなかった、ヤマアラシの背中のような髪が、ふわりと大人しく肩に掛かっている。
嬉しくなって一度さらりと髪を梳いて、鏡に向かって微笑んだ。
肩につくぎりぎりの長さで適当に切ってある毛先はぎざぎざで、他の人間が見ればやっぱり眉を顰めたのだろうが、ソラにとっては、十分に清潔感の漂う人間らしい髪型だ。
「ラル、仕事よ!」
上機嫌にラルを念話で呼び寄せながら、ソラの持っている服の中では一張羅である、古いがフリルやレースがたくさんついたワンピースに着替えて、ソラは足取りも軽く家を飛び出していった。
森の出口まで来ると、先に店のドアに引っ掛けてある記帳を確認してきたらしいコウシャクと合流した。
コウシャクはソラの前では気取って2本足で立って歩くのが好きで、今もソラに並ぶように歩いている。
この辺では害獣として人間からは嫌われる傾向があるアライグマだが、コウシャクは赤ちゃんの頃から成獣になるまでの1年間を人間に飼われていたため、人の言葉も文字もある程度理解する事ができる。ちなみにコウシャクが人から捨てられてしまったのは、彼が彼女欲しさに暴れたのが原因だと言う。コウシャク曰く『だって本能なんやから、しゃあないやろ』と不貞腐れていたが。
『依頼は家主からみたいやで?』
「ダンさんが?ふぅん?なんだろう?」
ダンは今の店を貸してくれた人だ。
開店前にレストランの前を掃除する、という仕事をソラがしていたときに知り合った農家のダンは、その頃、畑がイノシシの被害にあっている事が悩みだった。
ダンが罠を仕掛けたり、イノシシを銃殺しようと考えているのを聞いたソラは、ダンの為と言うよりも、そのイノシシの為に、畑の被害が無くなる様に奔走した。ダンには畑に目に見える柵を作ってもらい、更に出来の悪い野菜や欠陥のある野菜を、柵の外の一箇所に捨てる事を提案し、イノシシには柵の中に入らない代わりに、外に廃棄されている野菜は好きに食べていいと約束させることで、問題を解決させたのだ。
ダンはソラが動物と話せることまでは見抜けなかったが、何か不思議な力を感じたのだろう。
「それを仕事にしたらいい」と、知り合いが持っていると言う、この森との境界でうち捨てられていた家を譲ってくれるように交渉してくれたのだ。
元々使っていなかった家だったことから、ソラがやろうとしている店の業種には眉を寄せたものの、家の持ち主であった男性はダンに無償でこの家を譲ってくれた。そしてダンが、この家を無償でソラに使わせてくれているのだ。
最初はただ“相談事を受け付けます”と書いていた店の看板を、“探し物見つけます”と仕事を限定するように提案してくれたのもダンだ。
あまりにもざっくりした看板は、客を惹きつけにくいだろうと教えてくれたのだ。
だがダンは、ソラの解決できる相談事が実は多岐に渡る事を知っている。だから仕事の依頼が探し物だとは限らない。
自分が応えられる事ならいいな、と思いながら、ソラは足早に店に向かった。
ところが、いざ店に森に接した裏側からたどり着き、表通りに面した入り口に回ってみると、そこには見たことがない男性が二人いた。
どちらもこの辺りでは見かけないような立派な服装をしていて、なんと馬で来ていた。
下馬した男性の方が玄関ポーチの階段を上った所にいて、扉にかけられた文章を読んでいるところで、もう一人の男性は、見事な毛並みの美しい白馬に乗ったまま、騎手の居ない青鹿毛の馬の手綱を持ちながら、馬の上で不機嫌そうな顔をしていた。
距離が近づくにつれ、二人の会話が耳に入る。
「この私がここまで直接出向いてやったのに、また1時間後に来いとは、失礼な店だな」
「・・・まぁ、こちらも先触れは出していませんから、そのように憤慨なさらなくても」
「こんな店なら客も寄り付くまいに。24時間店を開けて、客に土下座してでも仕事を取らなければ生活できないんじゃないか?」
失礼な言いように、むっとしながらも、ソラは足を止めずに店の前へ近づいていく。
ちなみに、コウシャクは床下から、ラルは寝室の吐き出し口の壊れた窓から、それぞれ店の中に向かった為、今はソラ一人きりだ。
距離が近づいた分、馬に乗っている男の顔がはっきりとしてきた。
優雅さと雄雄しさを併せ持った短い栗色の巻き毛に意志の強そうな目が印象的な彼は、身体の線がはっきりと分かる乗馬服を着ている。飾りボタンがたくさんついた美しいジャケットは、夏の暑さも本格的になりつつある今の時期には少し暑そうに見えたが、着ている男性が涼しげなオーラを纏っている性で、やたら絵になる見た目だった。
その上、乗っている馬は白馬だ。
ソラも森の奥で、人を避けるように自由を謳歌する野生の馬を見たことがあるが、彼らの輝きとはまた違う気品を湛えた馬は、ソラが大事にしているシャイラの形見の絵本に出てくる王子様のような男性を更に引き立てていた。
なんだかとんでもない客が来ている。今までソラが出会った人間の中でも、飛びぬけて偉いに違いない。
粗相があっては大変だと、ソラは視線を合わせないようにしながら、丁寧な口調を心がけた。
「お待たせしたのなら申し訳ありません。私が店主のソラです。今店を開けますから」
深々と腰を折って、ポシェットから一応かけている鍵を取り出し、フロントポーチの階段を上がって行けば、扉の前の男性が驚きに目を見張って固まっていた。
初対面では驚かれる事が当たり前のソラは気にせず扉を開けようとしたが、後ろから刺々しい声が飛んできて、手が止まった。
「ベルジェット、帰るぞ。こんな山猿のようなみすぼらしい小娘が我々にどんな協力ができると言うんだ?これならまだ、本物のサルに頼んだ方がマシという物だ。あの老いぼれ、いい加減な事を言いやがって。だから領民の協力など要らないといったのだ」
流石にこれには、カチンと来た。今まで生きてきた中で一番まともな格好をしているというのに、それをみすぼらしいだなんて。
こちらの最大限の敬意を払って、大事にもてなそうと考えた相手から言われたから、なお更だ。その相手は、ソラに敬意を払うどころか、あからさまに侮辱してきたのだから。
(王子様みたいだなんて思った私が馬鹿だったわ!最低限のマナーもない、飛んだ野蛮人じゃない!)
「頼めるもんなら頼んでみればいいわ!でも精々サルたちにコケにされないように気をつけるのね。あれは卑怯でずる賢い、貴方なんかの手には負えない難しい相手なんだから」
思わず言ってしまったが、ソラが彼らを良く知っているような言い方だったことに気付き、慌てて口をつぐむ。
人間の集落を逃げ出してから出会った、3番目の育ての親になってくれたイノブタのペグばあちゃんから、ソラは念話能力者であることは隠したほうがいいと忠告を受けていた。
『念話は森の民の証。それを人の前で示せば、ソラが望まぬ事に巻き込まれるだろうね。静かに暮らしたいのなら、秘密にしておきなさいな』
そう告げたペグばあさんの厳かな瞳を思い出して、ソラはぶるりと背筋を震わせたが、ソラの懸念は不要に終わった。馬上の男は、ソラが言い返したこと自体に驚き、怒り、それどころでは無かったのだ。
「娘。言葉には気をつけろよ。私を誰か分かって言っているのか?この店はきちんとした商用登録もされていない。税も納めてないんじゃないのか?普通なら今すぐに憲兵を呼んでお前をひっ捕らえるところだぞ。そうならない事は私の温情だとありがたく思え」
(何をエラッソーに!アンタなんか知らないわよ!)
ソラはますます憤慨したが、ソラの口から文句が飛び出す前に、ダンが慌てて駆け寄ってきて、その馬の足元にひれ伏した為、これ以上の悪態を重ねる事はなかった。
「カイゼル様!申し訳ございません!この娘は親も無く、森育ちで少々常識が欠けております。どうか、平にご容赦を!」
「だ、ダンさん!?」
「ソラ!いいから叩頭しろ!とにかく謝れ!」
なんで私が、と喉元まで競りあがってきたが、ダンにあそこまでさせておいて、自分が突っ立っているわけにも行かず、その場に膝をついた。
何がどうして自分が悪いのかさっぱり分からないまま、「申し訳ありませんでした」と謝罪をする。
「ふん。やはり山猿だったか。・・・行くぞ、ベルジェット。とんだ無駄足だった」
頭を下げたままでいると、すぐ横を通る人の気配があった。
偉そうな男の連れが、馬へ戻ったのだろう。
すぐに蹄の音が遠くなり、辺りがしんと静かになる。
『もう行っちまったぜ』と、ラルが屋根の上から念話を飛ばしてきて、ソラは顔を上げた。
『やだ。見てたの?』
『なんか騒がしかったからな。様子見に来てたんだ。なんていうか・・・強烈なヤツだったな』
確かに強烈だった。右ストレートの顔面パンチ並だ。
嵐のような邂逅を経て、凪の状態になった今、先ほどの男の口ぶりを思い出して再び怒りがこみ上げてくるのかと思ったら・・・怒りよりも悲しくなった。
まともな人間扱いすらされなかった。
『ラル。・・・あたしやっぱり、変?』
『・・・随分ましになったと思うぜ?』
やっぱりまだ変なんだ。
髪が少しくらい収まりよくなったくらいで、自信満々に張り切って出てきた自分が恥ずかしい。
ずんと気分が沈んだソラの様子に気づいたらしいダンが、苦笑してソラを慰めた。
「あの方はブライツヘルム辺境伯が長子、カイゼル様だ。簡単に言えば、フェリシア森林帯を含むこの辺一帯を治める未来の領主様だよ。あの方から見れば、こんな田舎の住民全部が山猿なんだろうさ」
「未来の領主、侯爵様・・・」
その昔、コウシャクにはじめてあった時、『偉そうな名前をつけてや。人間で一番偉いのは誰なんや?』と聞かれて、“侯爵”と応えた。ソラにとってはそのくらい雲の上の人だ。
「私もお顔は今初めてお見かけしたが、この辺で白馬に乗っている貴人なんて、カイゼル様くらいしか居ないからな。こんな田舎町までお出ましになるとは、お珍しい」
「何か相談事があるみたいでしたけど」
「なるほど。ソラの店も、有名になったんだな。おめでとう」
(・・・話もしてくれなかったけどね)
言葉を返さずに、内心ソラが肩をすくめると、ダンはソラがカイゼルの言葉に傷ついていると解釈して、ぎこちなく頭をなでてくれた。
「少し雰囲気が変わったな。前のままでもソラらしかったけど、女の子らしくなった。似合ってるよ」
頭をなでられたことなど、シャイラを亡くしてから無かったソラは、目を見開いて固まった。
その様子を誤解したダンが、慌てて手を引っ込める。
「あぁ、年頃の女の子にすることじゃなかったな。なんだか今日のソラは猫みたいに思えてね」
山猿の次は猫か。つくづく自分は動物寄りらしいと、ソラは少し落胆しながら、ドアを開けた。
「そんなに畏まらなくていい。今日は仕事を頼みに来たわけじゃないんだ」
ダンは「どうぞ、お座りください」と、椅子を示すソラに笑って答えた。
首をかしげるソラに、ダンは逡巡してから切り出した。
「しばらく、うちに来ないか?」
「え?」
思っても見なかった言葉に、ソラの頭上をハテナが埋め尽くした。
ダンは勢いをつけて続ける。
「ソラが一人で立派に暮らしていることはわかっている。でも、最近の森は物騒だ。ソラみたいな女の子が、一人で居ては危険だと思う」
ソラはやっぱり内心首をかしげた。
森は、確かに危険な動物たちが沢山いる。けれども、生まれたての赤ん坊だったソラでも命を救われるくらいには、森は慈悲深かった。ソラにとって、森は家そのものだ。
ダンは、「今更そんなことをいわれても」とありありと言っているソラの顔を見て、額を押さえた。
「あぁ俺は本当に、説明とか説得とかには向かない性分だな。ソラは人の噂に疎いんだったな」
まずは、事情を説明するべきだった、とダンは再び話を始める。
「この辺りを、山賊崩れの盗賊がうろついているらしい。森を根城にしていて、夜遅くに森沿いの家を襲い、略奪の限りを尽くす、それは恐ろしい一団だ。この街の隣町では、5件の家が一気に襲われて、家人は子供一人生き残らなかったらしい。誰にも姿を見せずに、すぐに森へと隠れ戻っちまうから、そいつらがどんなヤツなのか、誰も知らねぇ。あるのは被害だけだ。・・・考えてみれば、カイゼル様の用事も、この件と関係あるのかもしれないな。こんな辺境の地でも領主様に気にかけてもらえてありがてえことよ。有能と噂のカイゼル様が動いているなら、そう長くは賊も存えまい。やつらが捕まるまで、うちに来ないか?」
ソラは戸惑った。他の人間と暮らすなんて、あの村を飛び出して以来だ。短時間ならともかく、もう自分が、人の前でどんな風に振舞っていたかさえ覚えていないのに。
反射的に、「いいえ、大丈夫です」と答えそうになったところで、コウシャクが話しかけてきた。
きっと、キッチンカウンターの影で、ダンとの会話を聞いていたのだろう。
『受けろ、ソラ。絶好のチャンスやないか!何のためにまた人里に下りてきたんや。お前、いつかツガイを見つけたいんやろ?あの街娘たちみたいな、人間の友達がほしいんやろ?』
『でもっ・・・』
『家のことなら、俺らでどうにかする。コッコばあにパンくず撒いてやるくらい、俺にもできらあ。悪いやつに荒らされんように、ヒグマに巡回してもらってもええ』
コウシャクは、ずっとソラが人の世界に憧れていたのを知っているから、必死に背中を押す。
『今ならラルもつけるで?』
『・・・今じゃなくても行ってやるけどな』
こちらも寝室で聞いていたらしいラルが加わる。
ダンの家に行けば、会ったことの無いダンの家族に会うことになる。一緒に住むとなれば、一日中一緒だ。そんなの怖すぎる。
先ほどのカイゼルのリアクションで、自分がまだまだ普通の身なりをしていないこともわかって、それだって怖い。
だけどダンは、ぶっきらぼうながら今まで暖かくソラを見守ってくれていた。信頼もしてる。
『ソラ。踏ん張りどころやで』
コウシャクの後押しに、ソラはヤケクソ気味に『行けばいいんでしょ!』と念話を返した。
「・・・一度家に帰ってから、日が沈むまでに行きます」
うつむいたまま黙り込んでしまっていたソラが小さく呟いた言葉の意味を捉えかねて、ダンが首をかしげた。
ソラは不安を押し殺した笑顔をダンに向ける。
「しばらくお世話になります」
なんと言っても、失うものなど何もないのだ。
目はつぶったまま、どーんと崖から飛び降りるように、ソラは勢いよく頭を下げた。