遊び
「育ちゃん、ちょっとノートを見せてもらってもいい?」
「うん、いいよ」
璃穏が小声で育実に頼み、育実は快くノートを開いて見せる。
「どうぞ」
「ありがとう」
先日、先生が席替えをすることをクラスメイト達に言った。
「育実!」
「一桜ちゃん!」
全員がくじを引いて、結果を待っている。
「隣同士だったらいいね」
「そうだね」
黒板を見ていると、先生が机に触れながら、名前を呼んでいく。
結果、育実の隣の席は璃穏になり、一桜と友希は一番後ろの席となった。
「隣、初めてだね」
「そうだね」
「これからよろしくね。育ちゃん」
「うん、よろしく」
後ろから一桜が璃穏を睨みつけているので、友希が宥めていた。
「いいわね、白沢。育実の隣で」
「一桜ちゃん・・・・・・」
「今来さん・・・・・・」
鋭い目つきになっている一桜を見た育実と璃穏は困った顔になった。
席替えをしてから、育実と璃穏が机を寄せて、二人でノートを見ることが何度もある。
理由は璃穏が一番端で、先生が端から黒板にいろいろと書くので、角度によってとても見ることが難しいから。
「本当に仲が良いわね・・・・・・」
「そ、そうだな・・・・・・」
「あんなにくっついて・・・・・・」
何度も溜息を吐きながら、一桜は璃穏を睨みつけている。
「一桜、落ち着けよ・・・・・・」
一桜を宥めようとすると、友希に大声で怒鳴った。
「友希は黙っていて!」
「はい、すみません・・・・・・」
授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、号令をしてから席に着くと、璃穏が後ろの黒板を見ている。
「次は体育か・・・・・・」
璃穏は傷が残っているので、制服の下にすでに半袖の体操服を着ている。
それでも友希も璃穏の傷のことを知っている。友希には中学のときに喧嘩をしたことだけ話したようだ。
「同じクラスなのに、別々でやるのはちょっと嫌だね・・・・・・」
「育ちゃんを遠くから見ているよ」
育実はそれに対して、やめるように何度も言った。
「やめてよ!ドジを踏まないか、楽しみにしているでしょ!?」
「そんなことないよ」
そんなことを言いながら、璃穏はしっかりと笑っていた。
体育が苦手な育実はいつものように深い溜息を吐きながら、更衣室へ向かった。
璃穏の予想通り、育実は体育の授業でドジを踏んだ。ボールを投げたら、なぜか後ろに向かい、何もないところで二回も転んだ。
三回目も転びそうになったが、周りにいた女子達が育実を助けてくれた。
制服に着替えて教室に戻ると、璃穏が育実に手を振った。
「体育はどうだった?」
「そんなに悪くなかったよ」
育実は璃穏の顔を見ないようにしながら言った。
「そう?それは転びそうになったところを他の人達が助けてくれたから?」
「なっ!」
育実は手の力が抜けて、体操服を落とした。
「見ていたんだ・・・・・・」
「ちゃんと見ていたよ」
璃穏は育実の体操服を拾って、育実に渡した。育実はそれを受け取り、ロッカーの中へ放り込んだ。
席へ戻ろうとしたとき、友希や他の男子達が璃穏に話しかけてから、それぞれ席に着いた。
「何を話していたの?」
「ん?ボウリングに誘われただけ」
「そうなんだ」
璃穏は友希達と行くことにしたので、日曜日は家にいない。
「やったことはある?」
「家族に連れられて、何度か行ったよ」
璃穏が一瞬だけ険しい顔をしたように見えた。
「育ちゃん」
「は、はい!」
「日曜日、夕飯までには帰ると思うから、作って待っていて」
もしも、遅くなりそうだったら、電話かメールをするように璃穏に言った。
日曜日、いつも家にいる璃穏が今日はいないので、家の中がいつもより静かだ。
「育実、元気がないね」
育実に声をかけたのは母親。
「璃穏兄ちゃんがいないからだよな?育実」
「もう、空夜!」
母親は熱いコーヒーを飲みながら、天気予報を観ている。
今日の天気は夜から雨が降るみたいなので、天気予報が信じられなかった。
「こんなに晴れているのに・・・・・・」
「璃穏君、傘を持って行った?」
母親は心配そうな顔で空夜を見ると、空夜は首を横に振る。
「持って行っていなかったな・・・・・・」
「大丈夫だって。帰ってきた後に雨が降るよ」
「それだったらいいけど、怪しいわね」
母親の横顔を一瞥してから、育実は自分の部屋へ行って、料理の本を読みながら、何度も窓の外を見ていた。
そのことに気づいた育実は気を紛らわせるために適当な音楽を流した。
「育実」
育実の部屋の前に立っているのは空夜。
「ちょっといいか?」
「いいよ」
空夜が部屋に入ると、育実は座布団を渡した。
「珍しいな」
「何が?」
「璃穏兄ちゃんの髪、黒髪のままだった・・・・・・」
イヤーカフスだってしていなかったことを育実に報告する。
「どうして私に言うの?」
「そうするのはさ・・・・・・」
育実が続きを待っていても、空夜はそれ以上何も言わなかった。
「中途半端・・・・・・」
「どう言葉にしたらいいのか、わからねぇんだよ」
「国語の勉強でもする?」
「どうしてそうなるんだ!?もういい、十一時過ぎに昼食にしようぜ」
空夜を呼んでも、もうすでに部屋から出て行ってしまった。
「何が言いたかったの?」
育実は部屋でひたすら考えていた。
しばらくしてから、冷蔵庫の中を確認して、昼食の準備を始めた。
「育実、今日の料理、少し薄いぞ」
「ごめん・・・・・・」
両親が先に食事を済ませたので、育実と空夜は向かい合わせになるように座って、食事をしている。
いつもちょうどいい味なのに、今日はそうではなかった。
「育実さ・・・・・・」
空夜は静かに茶碗と箸を置いた。
「璃穏兄ちゃんがいなくて寂しいだろ?」
一瞬、目を見開いた育実は小さく頷いた。
いつも当たり前のようにいる人がいなくなっただけで、まるで心に穴が開いたようだ。
「夕飯を食べる前には帰ってくるんだろ?」
「そうだよ・・・・・・」
わかってはいるけれど、やはり寂しさは簡単に消えたりしない。
「璃穏兄ちゃんの好きなものでも作ってやれよ」
空夜はそう言いながら、味噌汁を啜る。
璃穏は育実が作る料理だったら、どれも笑顔で食べてくれる。
「冷めるぞ」
「うん・・・・・・」
空夜は全く料理を口に運ばなくなった育実に言うと、無表情で料理を見下ろした。
育実はいつも以上に食べるペースが遅かった。
「すげぇな、白沢!またストライクが出たぜ!」
興奮して叫んでいるのは種房潤一。
「偶然だよ」
「ただの偶然が何回も出るかよ・・・・・・」
友希は悔しそうにしていると、垣添悠が笑いながら頷いた。
潤一と悠はクラスメイトで、前から璃穏や友希と話していて、仲良くなった。
「白沢が圧勝じゃん!」
「白沢君、小さい頃から練習してきた?」
「ううん、勝負に負けたくないから」
璃穏は負けず嫌いなところがあることを知って、三人は少し驚いた。
「俺さ、白沢がもっと暗い奴なのかと思っていたけれど、全然そんなことがないんだな!」
「潤一!はっきり言うなよ・・・・・・」
「いいよ、垣添君」
璃穏が間に入ると、悠がすっと立ち上がった。
「白沢君、面白い人だね。周りから言われない?」
悠の質問に璃穏の記憶の中で少数の人達に言われたことがある。
「うーん、ときどき怖がられることはあるよ」
「本当に!?」
それに対し、潤一と悠は目を丸くして、友希は苦笑いを浮かべている。
イヤーカフスをつけたり、髪を染めたりしていることを二人は知らないから。
「全然怖くないよな?悠」
「うん、怖くない」
璃穏は二学期になってから、よく笑うようになっているので、地味で暗いイメージは薄れた。
「友希、白沢が怒ったところを見たことがあるか?」
「あるな・・・・・・」
弁当のおかずを奪おうとしたときにはいつもの優しい笑顔がなくなることを二人に教える。
「あったな、騒いでいたこと・・・・・・」
「でも、白沢君を含め、誰だっていい気分にならないよ」
「あれは・・・・・・怖かった・・・・・・」
そのときの記憶を思い出した友希は恐怖で手が小刻みに震えている。
「大騒ぎしていたよね。面白かった」
「俺は痛かったよ!」
たまに友希は璃穏のおかずを食べようとするので、璃穏は容赦なく、弁当箱の蓋で彼の指を挟む。
「見てみたいな、そのやりとり」
「面白半分に見るなよな、潤一!」
「そうだ、二学期からだよね?白沢君が弁当を持参するようになったの」
何か他に気づかれたのか、璃穏は内心ドキドキしている。
「学食に飽きたのか?白沢」
「そ、そうだね・・・・・・」
璃穏は視線を逸らしながら、適当に話を合わせた。
一回だけ学食へ行ったことがあり、味は悪くなかった。
しかし、食事中に予想以上に生徒や先生が集まったので、それ以来、教室で昼食を食べている。
「羨ましいな。俺はパンばっかりだ」
「でもさ、潤一は前に自分でおにぎりを作ってきていたよね?」
「そうなんだ」
けれど、三角に握る予定だったのに、思うようにできず、丸いおにぎりに変更した。
「やっぱりいつも違うものを食べたいな」
「学食だと、席は早い者勝ちだからね」
「垣添君も弁当だよね?」
璃穏が質問すると、悠は頷いてから、母親に作ってもらっていることを教えた。
「白沢、言いにくくないか?白沢も下の名前で呼べよ!俺も呼ぶからさ!」
実はさっき、璃穏は危うく舌を噛みそうになっていた。
「構わない?」
「もちろん、僕も呼ばせてもらうよ。璃穏君」
三人で微笑み合っていると、友希が目を細めて見ている。
「おい、俺を置いて行くなよ・・・・・・」
「悪い、友希のことはとっくに名前で呼んでいるからさ・・・・・・」
潤一が友希に謝っていると、エレベーターを待っている家族連れが天気について話している。
「さっき、姉さんから電話がかかってきたんだけど、雨が降っているらしいの・・・・・・」
「ママ、傘は?」
小さな子どもが不安そうに母親を見上げていて、母親はどこかで傘を買うつもりでいる。
「こんなことなら、車で来れば良かったな・・・・・・」
「私は最初に言ったのに・・・・・・」
「ママ、言っていなかったよ?」
娘の一言を聞いて、母親は静かにするように小声で話している。
エレベーターのドアが開くと、ガラス張りになっているので、外の景色がよく見える。
「雨、降っているな・・・・・・」
「友希君、傘は?」
「折りたたみを持ってきたぜ。璃穏は?」
雨が降るのは夜からだと思っていたので、持ってきていなかった。
「雨が激しくなりそうだな・・・・・・」
それを聞いて、璃穏は険しい顔で暗い空を見る。
「悠君と潤一君は傘を持ってきている?」
「いや、けど、まだそんなに激しくないし、今から帰ったら、大丈夫だよな?」
「そうだね。時間も時間だから、そろそろ出ようか」
交通手段として、悠と潤一はバスに乗って帰り、璃穏と友希は電車だが、路線が違う。
璃穏が傘を買いに行こうとしたとき、携帯電話が鳴ったので、電話に出た。
「もしもし?」
『璃穏君?育実だけど、遊んでいる?』
「ううん、みんな帰ったよ」
思った以上に楽しむことができて、璃穏は満足した。
璃穏の嬉しそうな声を聞いてから、育実は駅まで傘を持って、迎えに行くことを伝える。
育実は璃穏がいる最寄駅まで向かおうとしているので、家の最寄駅に変更してもらって、電話を切った。
最寄駅に到着すると、傘を二本持った育実の姿を発見した。
「育ちゃん!」
「あ!璃穏君、おかえり!」
「ただいま」
近づいてくる璃穏に向かって走っていると、知らない人にぶつかり、バランスが崩れた上に水溜りで滑った。
痛みに襲われることを恐れて目を閉じると、強い力で引っ張られたので、目を開けると、璃穏の顔が間近にある。
「大丈夫?」
「う、うん・・・・・・」
璃穏に支えてもらっていることを知った育実は頬を朱に染めた。
育実は璃穏に向き合ってから、璃穏の傘を渡すと、育実はくしゃみをした。
「寒い?」
「少し・・・・・・」
雨が降っていて、気温が低くなっているから、寒さを感じている。
震えている育実に璃穏は自分の上着を育実にかける。
「帰ろうか」
「ちょっと待って!上着ーー」
「着ていいから」
璃穏が駅の構内を出ているので、育実はその背中を追いかけた。
「育ちゃんは今日何をしていたの?」
「今日はずっと家にいたよ」
料理の本を読みながら、音楽を流していて、ほとんどがゲームのオープニングやエンディング。
「勝負して、誰が勝ったの?」
「俺だよ」
「本当に!?すごい!」
璃穏は今度一緒にボウリングの勝負をすることを育実に誘った。
「でも、私、下手だから、勝負になるかどうか・・・・・・」
「じゃあ、教えるよ」
「いいの?ありがとう」
璃穏の話によると、友希が勝負に負けたので、全員分の飲み物を奢ったらしい。
「楽しかったな」
「いい思い出になった?」
「もちろんだよ」
家に帰ると、育実が空夜を呼んで、タオルを二枚持ってくるように頼んだ。
「璃穏兄ちゃん、育実を連れて帰るの、大変だっただろ?」
「あはは・・・・・・」
雨のせいで道が滑りやすくなっているので、育実は何度も転びそうになったり、璃穏にぶつかったりしていた。
いつの間にか手を繋がれていて、空夜は視線を下に落とした。
「手・・・・・・」
「ああ!璃穏君、もう大丈夫だから!」
育実が前に進もうとすると、靴下も濡れているので、後ろに倒れそうになった。
空夜と璃穏が育実を支えたので、どこも怪我をしなかった。
「ったく、本当にヒヤヒヤさせられる・・・・・・」
「二人ともありがとう」
タオルで拭いてからキッチンへ行くと、母親がコーヒーを飲んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「ただいま戻りました」
「璃穏君、ボウリングはどうだった?」
璃穏は楽しかったことを母親に告げた。
「璃穏兄ちゃん、今日は育実がずっとつまらなそうだったぜ?」
「そうなの?」
「く、空夜!」
璃穏は目を見開いて、その通りなので、母親は何度も頷いた。
「話しかけても会話が続かなかったからな・・・・・・」
「そ、そんなことないよ!」
育実が否定しても、それは無駄なことだった。
母親はコーヒーカップを水につけて、そのまま自分の部屋へ戻った。
「俺も戻るか」
空夜は冷蔵庫からチョコレートを二個取って、そのまま部屋へ向かった。
キッチンには育実と璃穏だけとなって、静けさが増した上に居心地が悪い。
「育ちゃん」
「な、何?」
さっき、空夜や母親が言っていたことについて何か言われる。
そう思って、育実は璃穏に顔を向けて、続きを言うことをじっと待った。
「はい、これ」
璃穏が鞄の中から出したのは透明な包みに入っている数種類のスナック菓子。ボウリングをする前に璃穏がクレーンゲームで取ったもの。
育実の好きなものが入っているので、それを取るために何度も挑戦したらしい。
「ありがとう」
「どういたしまして。俺、鞄を置きに行くね」
「璃穏君!」
思わず呼び止めてしまった育実はお菓子を両手で前に出した。
「もし、良かったら、一緒に食べない?」
「うん!」
その後、育実と璃穏は二人でスナック菓子を分けて食べた。