エピローグ
あれから四日経った。翌六月六日は警察にて事情聴取。葛城さんが立ち会ってくれたこと、羽燐が口添えしてくれたこともあって思いの外簡単に終わった。もっと刑事ドラマ的な厳しいものを覚悟していたのだが、犯人は現行犯同然で捕まっているわけだし、本当に事情伺い程度で済んだ。ただし、廃工場に無断で侵入した件とヒツジ男の着ぐるみを燃やしてしまった件についてはこっぴどく叱られた。特に後者は、他にも危険な薬品が転がっているとも限らないのに不注意にすぎる、とのことだった。それについてはぼく自身、完全に失念していたので反省の限りである。
また、同様の件で案の定生徒指導室にもお呼ばれし、続く三者面談でも再三注意された。本来であれば停学ものの大騒動だそうだが、実際にそうならなかったのは警察からの感謝状と驚くべきことにKLGのオーナーさんからの御礼状が学校宛てに届けられたからだ。御礼状にはなんとKLGの永年パスポート(そんなものをぼくは一五年間の人生で初めて見た)が五枚同封されていたのだが、それを受け取る際にまたしてもお説教を食らわされたのは言うまでもない。しかし、これで晴れて羽燐との約束も果たせるというものだ。
その羽燐はというと「あたしは殆ど部外者なのになんだか申し訳ない」と謙遜していたが、那木が「みんなで遊びに行くとき羽燐ちゃんだけ自腹だったら遠慮が生まれちゃうでしょ」と押し付けがましい理屈で説得していた。
ちなみにその昔、灰名化学繊維工業を買収した企業こそがKLGの経営母体であるOGMだったというのだから、何か因縁めいたものを感じてしまう。
――そんなこんなで、通常授業に戻った六月九日の昼休み。
「しかし、ヒツジ男が着ぐるみだったとはなぁ」
「私たちの知らないところで、そんな大変なことになってたのね」
ようやっと完成した報告書を印刷しようと未確認生物研究会の部室を訪れると、部長と咲良先輩が出迎えてくれた。
机の上にはいままさに食べかけの、同じデザインのお弁当箱がふたつ。なんとも妬けることに、どうやら咲良先輩の手作りらしい。学年が違う恋人同士の甘々な時間をお邪魔してしまったようで申し訳ない気分になったが、先輩たちはそんなことを気にも留めず、事件の顛末についてそれぞれの感想を述べた。
「そういえば紅月くんは、ヒツジ男が人間だってどうやって確証を持ったの?」
プリンターから印刷用紙が吐き出されるのを屈んで待つぼくを横目に、端立が訊いてくる。
「確証ってほど確かなものはないけど、端立の首を両手で絞めようとしたのは動物っぽくない的確さだし、昼間はなかった携帯が突然現れたのも怪しいしね。状況から見たらやっぱり人間なのかな、って」
「わたし、ヒツジ男に襲われたときにゴムみたいな匂いを嗅いだのよね。いま思えば、あれもヒツジ男が着ぐるみだっていう証左だったのかも」
パイプイスに腰掛ける端立が頬杖をつく。
着ぐるみといえば、ぼくたちが工場探索の折に三階で発見した廃墟には似つかわしくない比較的新しめの開かずの金庫は、西野さんが灰名工場に持ち込んだもので、あの中にヒツジ男装束が隠されていたそうだ。なんというニアミスだろうか。
「それはそうと、ぼくたちが灰名の地下で見た怪物、調べてみたら似たような話を見つけたよ」
一九九六年、アメリカ、インディアナ州の工場内の廃液槽の中にイカのような生物が泳いでいるのが目撃された。化学物質や不凍液で満たされたこの廃液槽は、到底生物の棲める環境にはなかったという。
「世の中にはまだまだ不思議なことがあるのね」
「今度もう一回調べに行く?」
「それは遠慮しとく」
同感だ。あんな面倒ごとに再び巻き込まれるのはこりごりである。
「印刷、終わったみたいよ」
印刷用紙が排出されるのを見守っていた咲良先輩に言われ、ぼくは紙束を拾い上げる。
机の上でとんとん、と高さを揃えた。番号順に整え、いくつかの束に分ける。あまりに分厚いと穴空けパンチが通らないからだ。ぼくは五部に分けた小説原稿を業務用パンチに挟み、全体重を掛けて次々に処理していく。
後は用意した厚紙を表紙と裏表紙に宛てがって、紐を通して綴じるだけ。
表紙には『ヒツジ男事件』というシンプルなタイトル。詩的で素敵な題名にしたところで何の報告書だかわからなければ意味がない。
「それじゃ、俺から読ませて貰おうかな」
「ダメです、部長! わたしがチェックするまでは誰にも読ませませんっ」
揚々と手を伸ばす部長とぼくの間に、すかさず端立が割って入る。
いつの間にやら赤縁眼鏡を掛けて、検閲準備は万端だったらしい。ぼくは素直に端立へと手渡した。
「ったく。厳しいなぁ、端立は」
「まあまあ。後輩に譲ってあげるのも部長の大切な役割ですよ」
溜め息を吐く部長を咲良先輩が包容力ある微笑みで励ます。このふたり、やっぱりお似合いのカップルかもしれない。
それからしばらくはそれぞれ、思い思いに過ごす時間が続いた。部長と咲良先輩はお弁当の残りを食べながらに雑談し、端立は黙々と報告書を読み進め、ぼくは着席して、そんな端立の横顔を眺めていた。
端立が一ページ一ページ目を通していく間、ぼくは隣で緊張しっ放しだった。自分の書いたものを他人が読んでいるかと思うと無性にどきどきしてしまう。
しばらくパラパラと読んでいったところで端立が手を止める。
「この小説、わたしの描き方に悪意ない? これじゃあ、とんだ暴力女じゃない」
「そうは言うけど端立がぼくに鞄を投げてきたことは事実なわけだし」
「そ、それはそうだけどっ。一連のくだりをカットするとか、色々書きようがあるでしょ」
「あそこは謎解き場面に掛かる重要な伏線になってるんだから、カットはできないよ」
「とにかく書き直して!! このままじゃ見も知らぬ後輩に誤解されちゃう」
端立が報告書を持ち去ろうとしたのでぼくは慌てて取り返す。
「あ、ちょっ――紅月くん! 返しなさいっ」
「それはできない相談だな」
腕づくで確保しようと試みる端立をにべもなくあしらう。それでも彼女は諦めず、ぼくは机の下に潜り込んで反対側に逃れ出る。
逃げるぼくと追う端立――。狭い部室の中では殆ど鬼ごっこのような光景が展開されていた。
「おいおい、あんまり暴れるなよ」
部長も半ば呆れ気味で、咲良先輩はその横で楽しそうにしている。
われながら、高校生にもなって何をやっているんだか。
「紅月! 依藍ちゃん! いる!?」
そこへ、大きな音をさせて扉が開けられた。
「那木さん?」
「おう、久し振り」
「あ、咲良先輩、夜々先輩、おはようございます」
いち早く声を上げた先輩たちに那木が反応する。
この光景、ついこの間も似たような展開があったような。そう、KLGへの取材話を那木が持ってきたときだ。
肩を大きく上下させ、息を切らしているところから見て、かなり本気で駆けてきたようだ。部室で鬼ごっこを繰り広げていたぼくが言えた義理ではないが、廊下を走っちゃいけません。
「どうしたの、那木さん?」
「それが依藍ちゃん、大変なんだよ!」
端立が訊ねると、那木が大層急がしそうに部室へ足を踏み入れる。
しかしぼくには、那木の用件はわかっていた。だいたいいつものパターンなのだ。さんざん那木に付き合わされてそのことがよく身に染みているぼくは、既に心の中で警鐘を鳴らしていた。
「いや、那木。皆まで言うな。ようやく『ヒツジ男事件』が片付いたところなんだ」
先回りして釘を刺すと、那木はそんなもの意に介す様子もなく喜色満面言ってのける。
「片付いたってことはつまるところ、新しく広げるスペースができたってことだよね」
「それは片付けができない人の発想だ」
「そんなことはどうでも良いんだよ。それよりも重要なのは――」
また厄介ごとか。本当に那木には困ったものだ。
ひとつの物語が終わったら、また次の物語が始まる。そうしてぼくたちの物語は続いていく。
今度は果たしてどんな事件が待っているのだろうか。
「まあ、那木。立ち話も何だから、とりあえず座ったら?」
自然と綻ぶ口許を覚られないよう大仰に溜め息を吐いてみせ、ぼくは手に持っていた報告書を本棚に収めた。
〈fin.〉
次回は「あとがき」です。
もうしばしお付き合いください。




