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Chapter.28 邂逅

 ほんとにわたしは素直じゃない。

 怖いなら怖いで紅月くんの言葉に甘えておけば良いのに。任せきりにするのが忍びないなら、一緒にきて貰ったら良い。絶好のチャンスだった。

 しかしどうだろう、わたしは怖がっている自分の姿を見られたくなくて、紅月くんの申し出を断った。


「嬉しかった癖に……」


 紅月くんと飯島くん、那木さんと別れたわたしは再び灰名工場の前まで戻ってきた。

 夕闇に溶け込んだ人気のない廃墟は、人を怯えさせることだけを目的にして建てられたかのような不気味さで、電線に留まった無数のカラスたちが発するけたたましい鳴き声が、不吉な雰囲気を何倍にも増幅させる。

 さながらお化け屋敷だ。


「怖くない怖くない」


 掌を胸に当て、自分に言い聞かせるようにして呼吸を整える。

 それから、改めて目の前に聳える廃工場と対峙した。


「うぅ、やっぱりムリかも」


 溜め息を吐いた。

 那木さんならきっと、こんな廃墟くらいで臆したりはしない。それどころか、むしろ進んで探索するに違いない。そういう娘だ。

 誰よりも好奇心旺盛で、誰よりも無邪気で、誰よりも愛らしくて。それでいて誰よりも周囲を見ている、芯の強い女の子。

 人見知りのわたしに愛想も尽かさず接してくれる那木さん。

 わたしもあんなふうになれたら、なんて思ったことが何度もある。

 なけなしの勇気を振り絞ってフェンスに空いた穴を掻い潜り、敷地の中へと侵入する。その間にもどんどん日は落ちて、いまや夕方から夜になりつつあった。

 ガラスのなくなった窓から建物の中を覗くと、当たり前のように真っ暗だった。

 昼間とはまったく異なる空気に呑まれてしまいそうだ。単に暗いのだけが理由じゃない。

 隣に紅月くんがいない。たったそれだけのことがこうもわたしの不安を煽るのだ。

 紅月くんはいつも、さり気なく気遣かってくれる。この間の帰り道も、今日の昼間もそうだった。わたしが周囲に馴染めるように、那木さんともっと親しくなれるように、あれこれ後押ししてくれる。

 勿論、紅月くんにしてみれば深い意図はないのだろう。わたしに向けるのも乱刃さんに向けるのも、きっと同じ意味合いの優しさだ。

 紅月くん曰く親友の乱刃さんと一緒にするなんて、おこがましいことこの上ないが、事実は事実。たぶん紅月くんにとっては一緒なのだ。誰かが困っていたら助けになりたい――なんて高尚なことは決して思ってはいないだろうけど、口では面倒がりつつも、なんだかんだで放ってはおけない性格なのだ。

 だからこそ、わたしが紅月くんに助けられているように、紅月くんに何か悩んでいることがあるのなら、力になってあげたかった。

 たとえ、わたしが、紅月くんの『特別』じゃなかったとしても――。


「って、思考からして暗くなってどうするのよ」


 鬱々としていたら怖いものが余計に怖くなる。鼻唄くらい口遊んでやる勢いでないと。

 窓に両手と右足を掛けて件の研究室に入り込む。多少はしたない恰好になってしまうけれど誰が見ているわけでもなし、あまり気にしないことにした。

 相も変わらずゴミ、塵、埃、ガラス片が散乱する部屋の中を、鞄から取り出したペンライトの光で照らす。

 あった。紅月くんの言っていたとおりだ。

 わざわざ探すまでもなく、わたしの体育着袋は机の上に無造作に置き去りにされていた。

 すぐさま目的のものを回収し、さっさと外に出ようとしたそのとき――。

 部屋の隅の方で緑色の光が点滅しているのに気がついた。


「何?」


 あの辺りは昼間見て回ったが、特におかしなところはなかったハズだ。

 地下室の浄水槽で見た“触手”を思い出し、身体が小さく震えた。

 しかし、ここで尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。一連の事件に関係する重大発見かもしれないのだ。未確認生物研究会の部員として、ヒントはひとつでも多く持ち帰らなくては。

 わたしはペンライトの灯りを頼りに得体の知れない光源へと近付いていく。いまさらなながらに、今宵の湿度が高いことに気付く。じめっとして、もわっとして、落ち着かない。緊張と恐怖感がない交ぜになって額に汗が滲む。

 そして辿り着いたそこにあったものにわたしは驚いた。


「――これって」


 床の上に目を落とす。光を放っていたのは、どこにでもあるような黒の携帯電話だった。

 でも、それはおかしい。ここは昼間確かにチェックして何の異常もなかったのだ。携帯なんて一ミリ足りとも存在していなかった。当然、わたしの持ち物でもないし、紅月くんが落としたわけでもない。何故なら紅月くんの携帯は可愛らしいパールピンクで――それはつまり、わたしと紅月くんがここを出ていった後に某かがこの場所に携帯を落としたか、或いは置いていったことを示していた。

 わたしは腰を屈めて携帯に手を伸ばす。


「きゃっ」


 途端、肩に受けた強い衝撃と共に視界がぶれた。

 煙草の吸い殻や空の薬品瓶が転がる床に尻餅をつく。幸いにして手を切るようなことはなかったけれど、単純に身体をぶつけて痛かった。

――え?

 たったいま自分の身に何が起きたのか、まるで理解できていなかった。

が、そんな疑問も自分を突き飛ばした相手を前に、一瞬で崩れ去る。

 弧を描くようにして曲がった一対の大きな角、白い長毛に覆われた隆々とした身体つき、面長の顔には横一文字の瞳を湛える緑の目。床にお尻をついたままで見上げるわたしの視界に入ったその姿は。


「――ヒツジ男!」


 まさか本物なの!?

 これまでにヒツジ男が目撃されているのは、決まってこの灰名工場の周辺。水瀬さんはこの廃工場の中にヒツジ男の姿を見たと言っていたそうだ。

 一連の事件のカギを握っているのは間違いなくこの廃工場だ。そう思ったからわたしと紅月くんは今日、ここにやってきた。でも、結局これといった発見もなく終わってしまって。

 それなのに。

 それなのに、どうしていまになってヒツジ男が現れたの? 昼間はどこに隠れていたの? この怪物の正体は何?

 わからない。全然わからない。

 目の前の現実に手いっぱいでまったく頭が働かない。ヒツジ男がわたしの髪を乱暴に引っ張り、ムリヤリにでも立たせようとする。


「痛いっ! ちょっ、やめ、てっ!!」


 かしゃぁん、とガラス製品の割れる音が耳に刺さる。わたしを掴んでいない方の左手で、ヒツジ男が手近にある机に載っていた器具を床の上へと払い落としたのだ。

 そのまま、強引にわたしの身体を引き寄せる。


「ひっ!!」


 持っていた体育着袋をぶつけ、その逞しい胸元を通学バッグで力の限り殴るも、ぱすり、という軽い音がした程度で何の抵抗にもなり得ない。午前授業な上、うち一時間が体育だったせいで鞄の中身はあってないようなものなのだ。

 ヒツジ男が勢いをつけてわたしを机の上に叩きつける。


「んっ」


 硬い机に打ったせいで背中全体に鈍い痛みが走る。膝から上――身体の大部分を机上に載せられて、仰向けに寝ている状態だ。

 何これ、わたしどうなるの? 殺されるならまだマシだ。でも、このシチュエーションはもっと嫌な感じがする。どこまで本気なのか、紅月くんはヒツジ男の正体にインキュバス説を挙げていた。冗談じゃない。ううん、冗談であってほしい。

 だって、これじゃあ丸っきり――。

 寝かされたままのわたしの上にヒツジ男がのしかかってくる。ゴムのような独特な匂いが鼻を突く。


「いやああっ」


 足をばたつかせてヒツジ男に蹴りを入れるが、当たっているかどうかさえ定かでない。

 そしてヒツジ男は左右の手をわたしの首に掛けて――。


「っく、こほっ……かはっ」


 もはや言葉は喋れない。苦しい。辛い。息ができない。涙なのか意識が朦朧とし始めたのか、わたしの首を絞めるヒツジ男の無機質な顔が段々と滲んでくる。

 不思議なもので聴覚の方は逆に冴え、雨音だろうか――? たん、たん、という規則的なリズムだけが静寂の中に響いている。いままでまったく聞こえなかったその音に、人間死ぬ間際になると五感が鋭くなるのかな、なんて場違いなことを考える。

 やり残したことはたくさんある。お父さんやお母さんにはお別れを言っていないし、先輩たちと観たい映画もまだまだあった。週末にはショッピングの予定もあった。那木さんとももっと仲良くなりたかった。飯島くんはわたしが死んだら泣いてくれるんだろうな。 紅月くんには結局、告白できず終いだ。

 紅月くん。

 ぼやけたままの視界がさらに歪む。せめてもうひと目、紅月くんに逢いたかった。

 たん、と再び小さな雨音が聞こえた。

――違う。これは足音だ。


「端立っ!!」


 聞き馴れた声にわたしの意識が呼び覚まされる。こんな状況にあってもどうしようもなく胸が高鳴る。

 刹那、重たげな音がしたかと思うと、どさりと何かが崩れ落ち――身体が軽くなった。


「はぁ……はぁ……」


 喘ぐような荒い息。わたしの呼吸音だ。

 何が何やら混乱していると、温かみのある手に引き起こされる。スクールバッグを肩越しに後ろに背負った、制服姿の男の子の背中が目に入った。

 わたしのことを上から下までひととおり眺めて大事がないことを確認すると、誰にでもなく満足そうに頷く、彼。

――また、助けられてしまった。


「和英辞典に英和辞典、意外と探検の役に立っただろ?」


 紅月くんは意味ありげにバッグを揺らし、皮肉っぽく微笑んだ。

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