プロローグ
初連載です。どうぞよろしくお願いします。
彼方に見えるぼんやりとした橙の明かり。
手に持った燭台の灯だけを頼りにぼくたちはただ闇の中を歩いていた。
隣を往く背の低い少女が、不安そうな面持ちでぼくを見上げる。
この闇の先には何があるのだろう。あの光の下には何があるのだろう。
長い道のりを経て辿り着いたそこには、一卓のテーブルが置かれていた。
その上にはオレンジの火を揺らすランタンと、掌に収まるサイズの小瓶がひとつ。
透明な小瓶の中では金色に輝く鍵が眩い光を放っている。
これこそがぼくたちの求めていたもの。
ぼくは少女と顔を見合わせる。
それに触れることが何を意味しているのかは、充分にわかっている。
それでもぼくはやらねばならない。
たとえどんな試練が待っていようとも、彼女のために。
決心を固めて小瓶に手を伸ばした、その瞬間――。
セピア色のランプが一斉に灯り、ここまで歩いてきた廊下の全容が露わになった。
石造りの細い通路の内に、少女の悲鳴が響き渡る。
彼女の視線の先には、到底この世のものとは思えない咆哮を上げる、異形の怪物の姿があった。
「――って、別に夢の話とかじゃなくて!」
ぼくは思わず声を張り上げた。
否が応にもとある生物を想起させる、湿ったように黒光りするずんぐりとした巨体。繊毛の生えた太い腕と、節の目立つ細い腕がそれぞれ一対、計四本。背中には薄く透き通った翅。昏赤く光る大きな複眼が侵入者たるぼくたちの姿を捉え、触角を小さく震わせる。
蝿の王、ベルゼブブ。黄金の鍵を護りしおぞましき怪物が、低い唸りを響かせこちらに迫ってくる。捕まったら最期。鍵を取り上げられるだけで済むものか甚だ疑わしい。
「何、わけわかんないこと言ってんの! 紅月、とにかく走って!」
左胸に校章をあしらったブレザーにチェックのスカート、胸元には赤のりぼん。
御音学園の制服に身を包んだツインテールの少女が、ぼくの傍らで言う。
身長たったの一四二センチ。超がふたつ付くほどミニマム体型の那木は、こうして制服を着ていなければ、とてもじゃないがぼくと同級生には思えないだろう。
「どうしたの? 改まって人のこと見つめちゃって」
「いや、相変わらず小学生みたいに背が低いなー、と思って」
「これでもれっきとした女子高生ですっ」
げし、と右足を踏みつけられた。
「――っ痛! 仮にも走って逃げようとしているこの状況で、そういうことするか?」
「デリカシーを持って生まれてこなかった紅月が悪い」
冷たい口調で返し、そのまま駆けていく那木。さすがに小さいだけあってすばしっこい。
とはいえこの那木、小っこくて可愛らしい外見に天真爛漫な性格ときたものだから、その手の人たちは勿論、一般男子にも隠れファンが多いと聞く。そのせいで、何かと彼女と行動を共にすることが多いぼくは彼らから無用に恨まれている。まったく良い迷惑だ。
「紅月!」
先の方にいる那木に言われて我に返ると、ぬらりとしたものを頬に感じ、総毛立つ。怪物の腕だ。
「げっ」
悠長に那木の説明なんか挿んでいる場合じゃなかった。とにかく逃げないと。
幸い、鍵を手に取るとランプが灯る仕組みだったので、さっきまでのように視界に苦労することはない。
全力で駆けて、なんとか那木に並んだ。
「てか、あいつ何気に速くない?」
薄暗い廊下を走る足は緩めずに、目だけを後ろに動かす。
あの重たそうな図体のどこにそんなスピードを秘めているんだ。少し気を抜くとどんどん距離を縮められる。
「そう簡単には渡さないってことでしょ。向こうも本気なんだよ」
「ぼくはもうちょっと楽なクエストを想像してたんだけど」
これでは完全に体力勝負だ。
ここのところ運動不足だったのでなかなかにきつい。
「言っとくけど、もしアレに捕まっても鍵だけは取られちゃダメだからね」
ぼくよりも鍵が大切なのか。
「でも普通に考えたら、捕まった時点でアウトだよね?」
「なら、逃げ切ってよ」
本当に那木は平気で無茶を言ってくれる。
掌中の小瓶に目を落とすと、走っているせいもあって中の鍵がからこん、と音を立てていた。
こんなのがそんなに欲しいものなのか? 正直、ぼくには理解できない。
けど。
まぁ――とりあえず。
「ご期待に添えるよう、頑張りますか」