第5話 お姫様の条件①
十八歳になるジュリエット・メイスンという少女が、そのお姫様のように美しい人形と出会ったのは、ある朝のことだった。
三ヶ月前に高等学校を卒業したジュリエットは、実家のパン屋で働いていた。看板娘として近所の人たちから愛されていたジュリエットだったが、正直に言えば単調な日々に飽き飽きしていた。
もちろん、これといった不満があるわけではない。
実家のパン屋はそれなりに繁盛しているし、両親も健康である。将来を誓い合ったジャックという幼なじみの彼氏もいる。ジャックがパン職人として一人前になった暁には、教会で結婚式を挙げることになるだろう。純白のウェディングドレスには、一人の乙女として心が躍らないわけではない。
しかし、それでもジュリエットはどこか日常に退屈していた。
朝は早くから粉まみれでパンを焼き、その後は常連客への配達。午後は暇な店番。たまにジャックとデートすることはあるが、修行が大詰めなのか最近はほとんど遊びに行けていない。
変わりばえのしない単調な日々。
そんなとき、決まってジュリエットはこんなことを思った。
――あーあ、お姫様みたいなドレスを着て、素敵な王子様と恋に落ちてみたいな……
自分でも子どもっぽいと思うが、それでもジュリエットは心のどこかでいつもお姫様に憧れていた。
そんなジュリエットが出会ったのが、ゾッとするほど美しい人形だった。
それは、ある朝のことだった。いつも通り焼きたてのパンが入ったバスケットを抱え、常連客の家やお店を回っていたところで、ふいにジュリエットの耳朶を可憐な声が打った。
「おはようございますわ。少しよろしいですの」
「あ、はい! なんで……」
振り返り、そしてジュリエットは言葉を失った。
そのときの衝撃を、ジュリエットは決して忘れないだろう。
ジュリエットを呼び止めたのは、お姫様のように美しい少女だった。
ゆるく波打った亜麻色の髪に、大きな白いリボン。白と萌葱色を基調としたドレスに身を包んでいる。恐ろしいほどに整った顔立ちは、女であるジュリエットですら見惚れてしまうほどだった。白磁のような手足を、球体関節が繋いでいる。
え? 球体関節?
「あ……もしかして……」
ジュリエットはそこでハッと思いついた。パブリックスクールで習ったことを思い出す。
このガーデンには、秩序を守る人形の少女たちがいるという。都市の女王であるALICEの代行者にして妹人形。名を――
「シスターズ……さん……?」
「あら、よくご存じですのね」
人形の少女は、クスリと笑いながら、
「はじめまして。わたくしはシクス。アリスお姉様の六番目の妹人形。シスターズ・シクスですわ」
どうかお見知りおきを、と言いながら、スカートの裾をつまみ上げ、一礼する人形の少女。その洗練された仕種を見て、思わずジュリエットはこんなことを言っていた。
「お姫様みたい……」
「ふふふ、そんなことを言われたのは初めてですわ」
「あ、ご、ごめんなさい! いきなり!」
「いいのですわ」
口元に手の甲をあて、優雅に笑う少女。そのあまりに様になった仕種に、ジュリエットはなぜか穴があったら入りたい気分に襲われていた。
「それより、少しよろしいですか。実は、少し教えていただきたいことがあるんですの」
「あ、はい! なんですか!」
「実は、パン屋を探してるんですの。メイスンパンというお店なんですけれど、ご存じですか?」
「はい?」
思わずジュリエットは素っ頓狂な声を漏らしてしまう。
メイスンパン。それは、紛れもなく自分の実家のパン屋の名前だったからだ。
「あの、それ……私の家です」
「まあ、そうだったんですの!」
手を合わせ、嬉しそうに笑みを浮かべる少女人形。
仕種一つ一つが美しすぎて、ジュリエットは気恥ずかしいやら悔しいやらだった。
「まるで運命ですわね。あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
ジュリエットはせめてもの対抗意識を燃やし、バスケットを持っていない右手でスカートの端をつまむと、こう言い放った。
「ジュリエット。ジュリエット・メイスンです」
スカートは、悲しいくらいに粉まみれだった。
◇ ◆ ◇
ショーと呼ばれる仕事がないときは、基本的にナインスたち『アリスの妹たち』は何をしていても良いことになっていた。ALICEにお小遣いをもらって買い物に行っても良いし、サロンでお茶をしていても良い。ALICEに頼んで好きな勉強をしても良い。自由である。
とはいえ、大抵のシスターズはそれぞれの趣味に時間を費やしていることが多かった。楽器演奏が趣味のフォオスは一日中バイオリンやピアノを弾いていたりするし、ガーデニングが趣味のエイスなど、レッドキャプスというお手伝い人形を引き連れ、中庭でせっせと花を植えていたりする。シクスは大抵、自室にこもって自作恋愛小説を執筆中である。
対して、ナインスには特定の趣味がなかった。ショーの練習をしたり、大事な仕事道具であるシザーズ・マリーを磨いたりして時間を潰しているが、それでも時間を持てあますことが多い。
しかし逆に言えば、暇だと言うことは使える時間が多いということでもある。
そんなわけで、ナインスはよく他の姉妹に捕まり、趣味に付き合わされることが多かった。
◇ ◆ ◇
その日、ナインスは暇だった。
ショーもなく、朝のお茶会以外のお茶会の予定も入っていない。ショーの練習をしても良いが、二日前、あまりに長時間戦闘駆動を続けてしまい、ALICEから直々に『加減をしなさい』と怒られていたため、なんとなくやりづらい。
しかたなく、ナインスは専属執事エドワードに手伝ってもらいつつ、自室で愛用の仕事道具であるシザーズ・マリーの手入れを行っていた。
「ナインスお嬢様、こちらの布をお使い下さいませ」
「ん、ありがと、エドワード」
テーブルの上に置いた大鋏を、専用の布で磨いてゆく。
仕立屋マリーの鋏という名の巨大な鋏は、ナインス専用の仕事道具だった。大きさはナインスの身長とほとんど同じ。黒光りする刀身には、蔓薔薇の装飾が彫り込まれている。ナインス自身は詳しくは知らないが、特殊な合金で出来ているらしく、銃弾を跳ね返しても傷一つつかない。その分、異常なまでに重いが、人形であるナインスは苦もなく扱うことが出来た。
刀身を布で磨き、装飾の隙間は毛ブラシで払ってゆく。実を言えば、昨日も同じ作業をしたばかりなので汚れているはずなどなかったが、とりあえず時間をかけて磨いてゆく。ようするにただの暇つぶしだった。
「暇だね」
ぽつりと呟かれたナインスの言葉に、エドワードが応えた。
「お嬢様も、他の妹様方のように何かご趣味を持たれてはいかがですか?」
「趣味か。何が良いかな」
「楽器、勉学、乗馬、刺繍、裁縫……ナインスお嬢様が望まれるのであれば、なんでも取りそろえることが出来ますよ」
「裁縫……洋服作りか。たぶん切るのは上手いと思うけど……」
ナインスはテーブルの上に置かれた巨大な鋏を見た。
金属だろうが、岩だろうが、あるいは人だろうが、全てを一刀のもとに断ち切る大鋏――シザーズ・マリー。
未だに返り血でドレスを汚してしまうなんてドジをやってしまうが、それでも切ることだけは自信があるとナインスは思う。
しかし、それでは縫い合わせたりするのはというと――
「……だめ、縫い合わせるとか全く自信ない。というか、絶対にエドワードの方が上手だよね」
「確かに。私はもともとそのように創られておりますので。ナインスお嬢様をサポートするのが、私の存在意義であり喜びです」
エドワードは、ナインスの苦手な部分をサポートするために創られた自動人形だ。ALICEほどではないが、高度な人工知能が植え付けられ、陰に日向にナインスを助けてくれている。
逆に言えば、日常生活に限ってだが、エドワードさえいれば何とでもなるということだった。
「焦ることはございませんよ、お嬢様。ご趣味も、おいおい見付けてゆけばよろしいかと思います。お嬢様は最も新しいシスターズでございます。これから時間は永遠にございますので」
「そうだね」
確かに、とナインスは思う。自分は人間ではなく人形だ。これから永遠に近い時を、このままの姿で過ごすことになる。焦ることはなにもない。
「とりあえず、ショーの時にドレスを汚さないようにすることからかな」
苦笑を漏らしつつ、ナインスは大鋏の手入れを続けようとする。
そのときだった。
「ナインス! 居ますの、ナインス!」
控えめなノックの音とは裏腹に、姦しい声が響いた。この声は――
「シクス?」
エドワードに言って、部屋の扉を開けてもらう。
その瞬間、喜色を浮かべた亜麻色の髪の少女――シクスが部屋に飛び込んできた。そのまま一直線にナインスの元に歩み寄ったかと思うと、
「ナインス!」
「わわ!」
ナインスは思わず椅子から転げ落ちそうになった。突如、シクスが突っ込んできたかと思うと、ナインスの手をグッと両手で握りしめたからだ。
目を白黒させるナインス。
対して、シクスはそんなナインスのことなどお構いなしに、グッと顔を近づけてくると、
「暇ですわよね、ナインス! 出かけるので付き合ってくださいまし!」
さあ、行きますわよ! とナインスの手を引くシクス。
「ちょ、ちょっと、シクス! 行くって、どこに!」
「そんなの決まってますわ!」
シクスはまるで当然のことを言うように、
「お姫様をしに行くんですのよ!」
「……どういうこと?」
ナインスは目を瞬かせる。
シクスが突拍子もないことを言い出し、それに付き合わされるのは割とよくあったが、今日は極めつけらしかった。