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第19話 止まらぬゼンマイ④


 東の空が、わずかに赤みを帯びる。小鳥すら目を覚ましていない夜明け前の時間。

 人間のエリザベスは、おぼつかない足取りで病院内の廊下を進んでいた。


 そんなエリザベスを見かねたのか、そもそも始めからそういう風に創られているのか、どこからともなく自動制御の車椅子がやって来る。そのままエリザベスの真横で静止。


 しかし、エリザベスが車椅子に身を委ねることはなかった。


「放って……おいて……」


 かりそめの主を得ることが出来ず、機械仕掛けの椅子は静かに去ってゆく。


 そんな車椅子には目もくれず、エリザベスは壁に手をつきながら、ひたすら自分の足で歩いていった。無理をして動いたせいか、あるいは別の意志が働いているのか、身体の中からズキズキとした痛みが襲いかかってくる。


「ぐぅ……!」


 その痛みに、エリザベスは思わず膝を付きそうになった。思わず泣きたくなる。

 けれど、それは出来ない。


 エリザベスは一歩一歩踏みしめるように廊下を進み、次いで非常階段を上った。人工心臓が、チキチキとゼンマイの音を立てている。


(うるさい……黙れ……!)


 屋上に続く扉を押し開ける。


 とたんに、薄い入院着に包まれた彼女の身体を、冷たい朝の風がなぶっていった。くすんだ灰色の髪が、弄ばれる。


 しかしそれすら、もう彼女にはどうでもよいことだった。

 人間のエリザベスにとって、今の思いは一つだけ。



 ――死んで、楽になりたい。



 それだけだった。


「……」


 よろよろと足を進め、屋上の縁の部分までやって来る。

 あと二歩も進めば、全てを終わらせることが出来る。そんなところまでやってきた、その瞬間だった。


「それ以上は、ダメだよ」

「……」


 エリザベスは、ゆっくりと横を見た。

 いつのまにかそこには、あの血色の髪の死神がいた。屋上の縁に腰を下ろし、ブラブラと足をゆらしている。その目は赤く染まった東の空を見つめていたが、しかし右手にはしっかりと巨大な鋏が握られていた。


「それ以上進んだら、『醜いもの』として首を落とすから」


 わずかに微笑を浮かべ、ナインスが言い放つ。


 とたんに、またしてもエリザベスの背筋に恐怖という名の震えが走った。思わず膝から力が抜け、その場で座り込みそうになる。


 しかしエリザベスは、必死で膝に力を入れると、


「どう、して……」


 エリザベスの中の何かが、とうとう溢れた。


「どうして……私を死なせてくれないの……!」


 もちろん、本当の意味で死神が死を阻止しようとしているわけではないことを、エリザベスは理解していた。


 ただ、死神はこう言っているだけだ。



 ――自殺するなら殺す、と。



 どちらにせよ、それによって自分に死が訪れることには変わりはない。


 けれど同時に、死神の存在が自分の中に恐怖を起こさせ、唯一の味方であるはずの『人間のエリザベス』を誘惑していることも間違いなかった。


「私は、死んで楽になりたいだけ! もう、嫌なの! ただ苦しむためだけに生きてるなんて、もう嫌なの!」


 いよいよ、エリザベスは叫んだ。


「どうして……どうしてみんな私を死なせてくれないの! お医者さんも、看護婦さんも、私の中の機械たちも、どうして私を生かそうとするの! どうせ死ぬのに、どうして私を苦しめるの! あなたも、どうして私を苦しめるの!」


 エリザベスは激情に駆られるまま、一歩足を踏み出した。


 とたんに、傍らにいたナインスの姿が掻き消える。同時に喉元に感じる冷たい死の気配。

 いつの間にかエリザベスの真横に立っていたナインスが、その巨大な鋏をエリザベスの首に押し当てていた。


「あと一歩で、あなたは『醜いもの』だよ」

「っ!」


 エリザベスは息を飲む。

彼女は悟った。


 あと一歩前に進んだら、死神は本当に私の首を落とす……!


 一瞬、エリザベスの中に甘美な誘惑が湧き上がった。死体袋に包まれた『醜いもの』を見たときに思ったことが、脳裏に蘇る。



 ――『醜いもの』になれば、楽になれる。



 その甘美な誘惑に従い、エリザベスは最後の一歩を踏み出そうとした。


 が、しかし――



「な、んで……!」



 エリザベスは、思わず愕然とした。



 足が、動かない。

 前に進みたいのに、足が動かない。



「なんで……動かないの……」


 エリザベスの瞳から、いつしか涙がこぼれ落ちていた。


「なんで……なんで動かないの! 動いてよ! 私は死にたいの! だから動いてよ! 一歩だけでいいから、動いてよ!」


 けれど、人間のエリザベスの足は動かなかった。


「動いてよ! 動いてよおおおおおおお!」


 そしてエリザベスは再びその場で座り込むと、ひたすら泣き叫んだ。







 ◇ ◆ ◇




 


 赤く染まっていた東の空から、眩い光を放つ太陽がゆっくりと顔を出す。


 真っ赤に泣きはらした瞳で、エリザベスはその光を呆然と見つめていた。


「なんで……私は……」


 あと一歩前に進むだけで死ねる。

 そのわずかな距離を前に、しかしなぜかエリザベスは前に進むことが出来なかったのだった。


「夜が、開けちゃったね」


 そこでふと、傍らでずっと大鋏を掲げていたナインスが、ぽつりと呟いた。


「ねえ、一つ聞いても良い?」

「……」


 エリザベスは、ノロノロとした動きで美しい人形の死神を見上げた。

 対して、ナインスはわずかに小首を傾げながら、


「どうして、死にたいの?」

「……」

「私が今まで殺処分してきた『醜いもの』の中に、死にたいっていう人間はいなかった。なのに、あなたは『醜いもの』になってもいいから死にたいって言うんだよね? どうして死にたいの?」

「だって……」


 心底不思議そうに問いかけるナインスに、エリザベスは目を伏せながら、


「生きてても……苦しいだけだから……」

「ふうん、そっか」


 やっぱり美しいものは難しいね、とナインスは小声で呟いた。



「あなたは……」


 しばらくして、エリザベスがぽつりと呟いた。


「あなたは……どうして、私のところに来たの……?」

「アリス姉様に言われたから、かな?」

「アリスって……」


 エリザベスは、その名を知っていた。

 都市を管理する人工知能にして絶対の女王――『ALICE』


「女王アリスが、シスターズを私のところに……?」


 どうして、とエリザベスは尋ねる。


 ナインスはわずかに首をかしげると、特に隠すことでもないかと、ALICEからの言いつけのことをエリザベスに話した。


 都市の全てを愛しているという言葉も含めて。



「あなたは、アリス姉様に愛されてるんだよ」

「愛されてる……私が……?」


 エリザベスは戸惑ったように、


「私なんて……ただの死にかけの子どもなのに……そんな私が、愛されてる……」

「そうだよ」


 ナインスは、微笑を浮かべて言った。


「あなたが死にかけだろうが子どもだろうが、アリス姉様は気にしないよ。姉様は、この都市にいる全てを愛してる。私も、あなたも」

「愛してる……私を……」


 そこでふと、エリザベスの中を何かが通り抜けた。


 同時に、彼女は先ほど自分で言った『どうして私を死なせてくれないの?』という疑問に対する答えを悟る。


 皆、愛してくれているから。


 お医者さんも、看護婦さんも。


 何より、自分の中にいる『機械仕掛けのエリザベスたち』も……


 皆、自分を愛してくれている。


 だから、私を生かそうとするのだと、エリザベスはそう思った。



「愛して……くれてるんだ……」


 エリザベスは、自分のやせ細った身体を抱きしめた。

 自分の中に埋め込まれた『機械仕掛けのエリザベスたち』を、生まれて初めて愛おしいと思った。


 もう一人の自分たちを抱きしめ、エリザベスは静かに涙を流す。


 しばらくして、エリザベスは顔をあげた。

 美しい人形の死神が、優しい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。


「あなたも……」


 人間のエリザベスは、問うた。


「あなたも……私を愛してくれるの……?」


 ナインスは柔らかく笑い、言った。



「もちろん。だって、アリス姉様が愛してるんだから」




 数年後、人間のエリザベスは息を引き取る。


 無償の愛を持つ機械仕掛けのエリザベスと、美しい人形の死神が、その最後を看取ったという。






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