第9話 魅力的な嫉妬①
嫉妬は、時に己すら制御できないような行動を生む。
歌劇団の看板女優の一人、キリエ・マエバラはそのことを痛いほどに実感していた。
「……」
ミィミィと可愛らしい鳴き声をあげる子猫。それを前に、しかしキリエの心が揺れ動くことはなかった。手に持ったナイフを、子猫の首に滑らせる。
断末魔の鳴き声。キリエの白魚のような手を、真っ赤な鮮血が妖しく彩った。
「これを、あの女に送りつければ……」
子猫の生首を手に、キリエは歪んだ笑みを浮かべる。
ブルネットの髪を高く結い上げた、すらりとした長身の美女だった。女優の名にふさわしい整った目鼻立ち。やや鋭いが、見るものを魅了する茶色の瞳。薄く笑みを浮かべれば、それだけで多くの男性を虜に出来るであろう妙齢の女性である。
しかし、その顔を彩るのは歪んだ笑みだった。
キリエは、用意しておいた小箱に子猫の生首を無造作に放り込んだ。血で汚さぬように注意しながら、生首の上にメッセージカードを置く。
そのメッセージカードには、こう記されていた。
――ミレーニア・ランドハート。主演を降りなければ、次はあなたがこうなる番よ。
「さすがの『微笑みのミレイ』も、これを見たら顔を真っ青にして、主演から降りるはずね……」
クツクツと笑いながら、小箱の蓋を閉めた。手の汚れを落とすと、劇場裏の路地から大通りへとそっと身を躍らせる。
さあ、あとはこれを事務所の前に置くだけだ。
目深に被った帽子のつばを押さえながら、劇場の事務所がある方へと歩く。劇場の玄関は大通りに面しているが、事務所は脇の見えにくいところにあるので好都合だ。
時間は夜の八時過ぎ。すでに夜のショーは終わっており、劇場前の人混みも少ない。
まばらな人の波の間を縫い、キリエは事務所の方へと向かう。
そのときだった。
「お、おい、あれを見ろ!」
ふいに響く、誰かの大声。
「ッ!」
一瞬、キリエは自分のことがばれたのかと思った。彼女は、歌劇団の看板女優の一人であったからだ。
しかし、彼女はすぐに違うことを悟った。
「お、屋上に誰か居るぞ!」
「人を呼べ、人を!」
「……屋上?」
帽子をおさえながら、キリエは顔を上げた。とたんに、彼女は息を飲む。
劇場の屋上。その端に、一人の少女が立っている。
「あれは……ケリー?」
そこにいたのは、女優の卵として半年ほど前に劇場に入ったケリーという少女だった。花のある少女で、いずれ自分の地位を脅かすのではないかと、それなりにいびっていた少女だ。
「あの子……あんなところで何を……?」
キリエが首をかしげた、その瞬間だった。
ふらり……!
少女の身体が、風になぶられる麦穂のように揺れる。
そしてそのまま――少女は、身を投げた。
人々の間から漏れる悲鳴。そして次の瞬間、ドン! という凄まじい音と共に、石畳の上に真っ赤な血薔薇が咲き誇った。
騒然となる人々。キリエもまた、呆然と大地で無惨な姿をさらす少女を見つめる。
そのときだった。
キリエの視界の端を、金色の何かがかすめた。顔を上げ、屋上の方を見る。
「あれは……ミレーニア……?」
屋上から、冷たい微笑みを浮かべながら落下した少女を見つめる金髪の女性。
それは、キリエにとって一番のライバルであり、同じ歌劇団の看板女優の一人でもある『微笑みのミレイ』ことミレーニアだった。
「まさか……あの女がケリーを……?」
子猫の生首が入った小箱を抱えながら、キリエは呟いた。
「可愛い顔して、あの女もなかなかやるじゃない」
キリエの顔には、なぜか不敵な笑みがあった。
◇ ◆ ◇
「悲劇の歌劇団? なにそれ?」
買い置きの縫い針が全て折れてしまったため、フォオスの部屋に針を借りに来ていたナインスは、フォオスから聞かされた言葉に首をかしげた。
「おや、知らないのかい、ナインス? 結構有名だと思うのだけれど?」
「ううん、知らない」
「まあ、ナインスらしいといえばらしいね」
銀色の髪を短く切りそろえた中性的な少女――フォオスは苦笑する。
フォオスの部屋は、ほとんど物のないナインスの自室と違って、様々な楽器で溢れかえっていた。部屋の中央に置かれたグランドピアノを皮切りに、チェロ、バイオリン、フルートなどの楽器が壁一面に飾られている。またそれだけでなく、大きな作りつけの本棚があり、そこには様々な本や楽譜が所狭しと詰まっていた。
「ええと、確か昔買った針が裁縫箱の中に……あった。これだね」
裁縫箱の中から何本かの針を取り出すと、小さな針山ごとフォオスはそれをナインスに手渡した。
「ほとんどボクは使っていないからあげるよ。ナインスの事だから、全部折ってしまいそうだしね」
苦笑気味のフォオスに、ナインスは口を尖らせながら、
「……言わないでよ、フォオス。私も気にしてるんだから」
つい先日から、趣味として裁縫を始めたナインスだったが、その結果は散々なものだった。布を切るところまではいいのだが、縫い合わせようとすると、ところ構わず針を自分の手に刺してしまうのである。
もちろん、実際には針がナインスの手に刺さることはない。色も感触も人間の皮膚にそっくりだが、シスターズの皮膚は特殊な繊維と皮膜で出来ており、ナイフで突かれようが銃弾を受けようが、かすり傷一つつくことはない。
しかしそうなると、むしろ困るのは縫い針の方だった。早い話、針先の方がナインスの皮膚に負けて折れてしまうのである。
そういうわけで、買いそろえた十本近い針を、ナインスは二日ほどで全て折ってしまったのだった。
「それより何なの、フォオス? その悲劇の歌劇団っていうのは」
話題を変えるように、ナインスは聞いた。
「最近、街の方で人気の歌劇団のことさ。実は一昨日、シクスたちと見に行ってね」
「一昨日って……」
そういえば、とナインスは思い出す。裁縫針に四苦八苦していたときに、なにか誘われたような気が……
「ナインスは、針を折るのに忙しくて聞いていなかったみたいだけれどね」
「……針を折ってたわけじゃなくて裁縫だよ、フォオス」
「はは、ごめんごめん。それはともかく、そのときに見に行ったのが、話題の『悲劇の歌劇団』の歌劇だったと、そう言うわけなのさ」
フォオスは説明する。
その歌劇団の名前は、正式には『バーミンガム歌劇団』と言った。二年ほど前に新しく設立された歌劇団で、最近話題急上昇中らしい。歌も演劇もなかなかのものなのだそうだ。
しかし、それよりもその歌劇団を有名にしたのは、ある『悲劇』とのことだった。
「実は、その歌劇団では設立からこれまでに三人もの女優が自殺をしているのさ」
「自殺なんて、物騒な話だね?」
「どうやら、その歌劇団の中では女優たちの熾烈な人気争いがあるという話でね。その人気争いに敗れた女優が、自殺をしてしまっているのだそうだよ」
「ふうん、私たちみたいに仲良くすればいいのに」
不思議そうに首をかしげつつ、ナインスはそう曰う。
ナインスたちシスターズは、非常に仲の良い姉妹だった。もちろん、時々ケンカをすることもあれば、からかわれてむくれることもあるが、それで相手のことを嫌いになったりすることは決してなかった。姉妹の間には確かな絆があるし、何より姉妹全員に分け隔て無く深い愛情を注いでくれるALICEがいるのだ。嫌いになったり憎しみあうなんてことは絶対に有り得ない。
しかし、その歌劇団の女優たちは違うようだった。
「はは、ナインスの言うとおりだ。仲良くしていれば良いのにと、ボクもそう思うよ」
柔らかな笑みを浮かべつつ、フォオスは続ける。
「とにかく、その歌劇団では自殺する女優が相次いでね。そこで名付けられたのが、『悲劇の歌劇団』という二つ名だったと、そういうわけなのさ」
ちなみに、そんな名前がついているにもかかわらず、今その歌劇団は大人気なのだそうだ。
その理由の一つが、女優たちの熾烈な人気争いを背景とした質の向上だった。
少しでもライバルを出し抜こう。ライバルの上を行こう。そういう感情が、歌や演劇の質を高めているらしい。
また、女優同士の人気争いも、ある意味、一つのゴシップネタとして市民たちの注目をあつめている。
それらが相まって、ガーデンでは今、この歌劇団が大人気だということだった。
「歌も演劇も良かったし、演奏もなかなかだ。裁縫の息抜きにでも行ったらどうだい、ナインス? アリス姉様に頼めば、きっと良い席を用意してくれると思うよ」
「でも、一人で行くのは気が進まないんだけど……」
「そっか、ボクたちはもう見てしまったからね」
ふむ、とフォオスはしばし黙考すると、
「それなら、エドワードと一緒に行ったらいいんじゃないのかい?」
エドワードというのは、ナインスの専属執事を務める男性型の自動人形のことだった。ナインスの世話をすることを第一とする人形であり、涼やかな微笑が似合うメガネの美青年である。ナインスにとっては、ALICEや姉妹たちの次に心許せる相手だ。
「エドワードなら、ナインスをしっかりとエスコートしてくれるはずさ。そういう風に創られているはずだからね。せっかくだから、ナインスも少しくらい男性にエスコートしてもらう経験を積んでみるといいさ」
「まあ、エドワードとなら」
確かに、とナインス。気心の知れたエドワードとだったら、初めての場所でもそれほど緊張することはないだろう。
どのみち、縫い針も買い足しておく必要があるし、買い物がてら歌劇というのを見に行ってもいいだろう。
問題は、さして歌や劇に興味のない自分と、自動人形であるエドワードの二人が、歌劇のおもしろさを理解できるかということだったが……
(……つまんなかったら寝よ)
とりあえず、退屈だったら眠ってしまおうとナインスは思った。
「わかったよ、フォオス。行ってみる」
おそらく一日で使い切ってしまうであろう縫い針を手に、ナインスは座席の予約をお願いするべく、虚空に向かって姉のALICEの名を呼んだ。




