第二章 1
家臣たちが式典で着る衣装の制作もいよいよ大詰めだ。何百といる家臣のうち僕が依頼を受けているのは男女を問わず五十人分で、四十人分は既に完成している。身分の低い者は持ち合わせの衣装で済ませるが、大臣クラスにもなるとやはり、この日に合わせて新調する人が多い。中には気に入りの仕立屋に外注している人もいるが、信頼できるからと僕に依頼をしてくれる人もたくさんいる。
ただ、女王陛下の衣装制作から外されたからと言っても、一人分の服を作るのに掛かる時間は最低でも一週間は必要だ。式典まで残り二か月であることを考えるとやはり、昼夜を問わず仕事部屋に籠もって作業をしなければ期日に間に合わせることが出来ない。仕事があるのはありがたいことだが、しばらくの間は夫婦の時間を作れないだろう。
事情を告げるとマリーネは俯き、小さな声で労いの言葉を掛けてくれた。僕は居たたまれない思いを胸に、暗い廊下を一人で歩きルイーゼ様のもとへ向かった。
彼女に告げたことは事実だ。だが、僕が向かおうとしているのは仕事部屋ではない。
本当は仕事を理由に嘘を吐きたくない。だけどそうでもしないと僕もマリーネも城にいられなくなる。僕さえ我慢していれば全てが丸く収まると言うのなら、マリーネの気分を損ねることになったとしてもこの関係を続けなければならない。
ルイーゼ様のいる部屋の前までやってきた。僕はノックをせずに扉を開け、するりと室内へ滑り込む。
「……ジークね?」
「はい、参りました」
「さぁ早く、こちらへ」
彼女の声に促され、音を立てないように歩き向かう。そしていつものようにベッドの端に腰掛ける。
「待っていたわ。マリーネにはうまく言ってくれたわね?」
「仕事熱心な僕を気遣って送り出してくれました」
「あの子らしいわね。でも今夜、ジークはわたくしのものよ」
「仰せのままに……」
「あなたも相変わらず生真面目な男ね。マリーネのことを気にしているのでしょう?」
「いえ、そのようなことは……」
「いいのよ。あなたはあなたの好きなようにすれば。マリーネの命がどうなってもいいと言うのなら」
「……それだけは、許してください」
胸が詰まる中それだけを何とか絞り出すと、僕は彼女を抱いた。
僕とマリーネ、そしてルイーゼ様とは複雑に絡み合った糸で繋がっている。
表面上、僕らはとても仲良く交際している。口論することも意見を違わすこともなく、いつだって笑みを絶やさない。だが夜が更けると全てが逆転する。
僕とマリーネの仲はすこぶるいいが、実はルイーゼ様もまた僕を愛していて僕らの仲を引き裂こうとしているのだ。僕の、マリーネと幸せな家庭を築きたい、平穏な日々を過ごしたいと願う気持ちを知りながら、権力で僕を独占しようと、時々こうして一夜を過ごさせる。
僕が逆らおうとすれば、マリーネは毒を盛られ、子供が授からない身体にされてしまうばかりか、下手をすれば命までも失うかもしれない。どうすればいいのか分からず、結局僕はマリーネと結婚してからと言うもの、二人の女性の間を行き来しているのであった。
ルイーゼ様が結婚しない理由は様々に噂されているが、僕は僕自身のせいだと確信している。平民生まれの仕立て職人でしかない僕は、ルイーゼ様と結ばれるべき身分には到底ない。しかも僕には妻がいてルイーゼ様も僕らの結婚を認めてくれている。その上で彼女が僕との関係を望むのならば、今宵のような危ない道を選ぶしかないのである。
ルイーゼ様に呼ばれるのは月に数回程度。ここ数日も大臣から聞いたように、近隣のフリッカ王国はじめ諸大国を訪問しており、まさに激烈な公務をこなしている。その中で、わずかに空いた夜を僕と過ごす時間に充てる。
彼女から直接政治の話を聞くことはない。僕といる時くらいは仕事のことを忘れたいと言う思いが強いようだ。だから僕は何も語らず、ただじっと身をゆだねる。それしか、出来ない。
彼女が成そうとしていることの大変さは仕立て職人の僕でも十分に理解できる。だが重圧や責任の重さから逃れるために、仮にも妻を持つこの僕を権力で押さえつけようとするやり方にはもう耐えきれない。夫婦ではない男女が交わりを持つこと、それがどれほどの大罪であるか、またこのことをマリーネに説明できない、僕の精神的苦痛のいかに大きいことか。
「ねぇ、ジークゥ……。わたくしの夫に……ならない? あなたが望むなら地位も名誉も与えるわ。子供だって、欲しがっているじゃない。はぁ、はぁ……! あなたとの子供なら、わたくしは喜んで産むわ。はぁ、あぁっ……!」
「…………」
行為の最中、ルイーゼ様は無責任にもこんなことを言った。僕は何も言うことが出来なかった。いや、言いたいことはあった。だが無理やりにでも飲み込むしかなかった。
確かに子供は欲しい。でもあなたとの子供が欲しい訳じゃない。僕が欲しいのはマリーネとの子だ!
結局、彼女の要求には応じなかった。果てたふりをした。それが僕の、せめてもの抵抗の証だ(あかし)った。それでも彼女は満足した様子で上気した顔を僕に向け、キスをした。
とっぷり夜が更けた頃、気持ちが満たされた様子のルイーゼ様は微笑みをたたえた表情で眠りに就いた。僕は眠気と戦いながらもベッドから抜け出し、マリーネの待つ部屋へと急ぎ向かった。
ルイーゼ様の欲求を満たすために僕自身も快楽を得る。本当に僕が愛しているのはマリーネただ一人なのに。どうして本当の愛を守るために、愛する人を傷つけなければならないのだろう。僕の心が弱いばかりにマリーネには寂しい思いをさせてしまっている。それが苦しくて仕方がなかった。
部屋に戻ると扉の隙間から薄明かりが差していた。
「マリーネ。まだ起きていたの? あまり夜更かしをすると身体に障るよ」
彼女は静かに目を閉じて両手を組み、祈りを捧げていた。何か悩みや不安があると決まってそうしている。僕は彼女の信じる神のことは分からないけれど、全てを見透かされている気がしてただじっとその場に立ち尽くしていた。
マリーネはそっと目を開くとこちらを見つめた。
「ジークに、話があるの。こっちへ来てくれるかな?」
静かな声は僕の耳に冷たく突き刺さった。全身の体温が下がっていくような感じを覚えた。
僕はいつものようにマリーネの対面の椅子に腰掛けた。小さな丸いテーブルだけど、僕らの距離は大抵こんな風に離れている。それは僕らの心の距離と一致しているのかもしれない。
「ごめん。僕は君を裏切った」
マリーネが口を開く前にそう言って頭を下げた。もうこれ以上彼女に嘘を吐き続けるなんて出来なかった。
「この一年間、仕事を理由に何度となくルイーゼ様のもとで夜を明かした。ずっと嘘を吐き、ずっと騙していた。僕は、そう言う男なんだ」
とても彼女の目を見てこれまでのことを打ち明けることが出来なかった。そんな自分も情けなかった。
マリーネがどんな顔をして僕の言葉を受け取ったのかは分からない。
「やはりそうだったのね」
彼女はため息を吐いた。だが同時に優しく僕の手を取った。温かかった。
「随分前から気づいていたわ。はじめはまさかあなたが姉上様と逢い引きをしているなんてと、びっくりして素直に受け止めることが出来なかったの。でもいつか、ジークは自分から身を引いてくれるって、そう信じて待っていたのよ? 神にも毎日のように祈ってきたわ。でも聞き届けられることはなかった」
「どれだけ謝ったところで君の怒りや憎しみを静めることは出来ないだろう。言い訳はしない。君が僕を信じられないと言うのなら、別れを告げてくれてもいいんだ」
「別れを告げてくれですって?」
彼女は声を荒げた。怒りの琴線に触れてしまったに違いない。僕は最悪の事態をも覚悟した。彼女は握っていた手に更なる力を込めて言う。
「きっとそう言うと思っていたわ。言い訳をしない。その代わり、自分で別れを告げることも出来ない。だってあなたは臆病者ですもの。そのあなたが理由もなく姉上様のもとに通い続けるなんて考えられないわ」
「マリーネ……」
「本当は深い訳があるんでしょう? もしあなたの言ったことが全て真実なら、私の目を見てはっきりと別れようって言って。姉上様を愛しているからと」
僕はようやく彼女の目を見ることが出来た。でもそれは別れを告げるためではない。どこまでも僕を信じてくれる彼女がどんな表情でこの顔を見ているのか知りたかった。
彼女は力強い眼差しで僕を見つめていた。そこにはただ、真実を知りたいと言う強い思いがあるだけだった。悲しみも怒りもなかった。
自然と彼女を抱きしめていた。もし僕が別れを告げたとしても、彼女はきっとそれを受け入れる覚悟がある。でも僕が重要な真実を隠していることにも気づいている。だから彼女はこんなにも真っすぐに僕を見つめられるんだ。
僕は彼女なしには何も出来ない。彼女を失うなんて考えられない。
「ルイーゼ様のご命令なんだ。もし逆らえば君を幽閉するか、毒殺すると脅されていた。だけど、僕が命令に従う限り君の命も生活も保障される。君を失いたくはなかったんだ。苦渋の選択だった」
正直に告白する。マリーネは静かに目を閉じ、息を吐いた。
「私のために、姉上様の奴隷になることを選んだのね」
「でも僕が君を裏切り、ルイーゼ様の夜のお相手をしたのは事実……」
「ジークは……、悪くないわ。女王の権力を振るわれたら、誰であろうと屈するしかないもの。たとえ私であっても」
「そうだったにせよ、僕は君を傷つけた。僕がもっと自分の意志を強く持っていれば」
「いいえ。それは違うわ。ジークが何を言っても姉上様が自分の意志を曲げることなんかない。五年前のあの日もそうだった」
「あの日?」
「父が、アレクサンダー王が亡くなった時」
マリーネが突然、目を伏せ声を震わせた。
古い体制を敷くアレクサンダー王が亡くなったのは今から五年前。あれほど元気に振る舞っていたのに、ある日突然訃報が国中に流されたのであった。
それによると王は以前から心臓に持病があって、その日も発作を起こしたため治療を施したが帰らぬ人となったと言うことだった。国の発表した情報を疑う人などはいなかったし、慣例通りの葬儀にも多くの人が参列した。
「王は心臓発作で亡くなったと聞いているけど……まさか」
「ジークはまだ街にいたのよね。知らなくて当然だわ。本当は父は姉上様に殺されたのよ。専属の医師を買収して毒を盛らせたの」
「どうして、実の父親を殺すだなんて……」
「父だけじゃないわ。姉上様は王妃様と二番目のテレーゼ姉様の母君、そして私の母の三人を辺境の地に幽閉したの。表向きは、病気療養のためとか死期が近づいていると言って国民を納得させてね」
「王妃様が、幽閉?」
「自分のやり方に口を出す者全てを排除する。それが姉上様のやり方なの。昔からそう。本当に不要な者は即刻首をはね、利用出来る者は出来るだけ酷い場所に閉じこめて生き地獄を味わわせる。残酷なことをしても何も感じていないに違いないわ。
それだけじゃない、テレーゼ姉様の結婚も姉上様の提案で実行されたのよ。姉様は政略結婚に利用されたの。私だって、ジークが振り向いてくれなかったらきっと、よその国に無理やり行かされて、好きでもない相手と結婚させられていたと思う。それを考えただけで私……」
マリーネの話はにわかには信じられなかった。でも彼女が嘘を吐いたことはこれまでに一度だってない。それに嘘にしてはあまりにも残酷な内容だ。
彼女が僕との結婚を切に望んだ理由の一端を垣間見た気がした。
本当は城を出たいんじゃないのか? 前から言っていたじゃないか。この城での生活が息苦しいと。だから僕と結婚し、外の世界に連れ出してくれることを願っているんじゃないのか?
だとすれば彼女は、心の底から僕を愛しているから結婚を申し出たのではなく、今の生活から逃れたくてそうしたのではないだろうか? マリーネの本心が知りたかった。
「私、幸せになりたい」
マリーネは言い、僕の右手を自身の頬に当てた。
「姉上様の言いなりにはならない。ジークも言いなりにはさせない。私の夫ですもの。これ以上好きにはさせないわ」
「僕はただの仕立て職人だ。お金もないし、地位もない。それでも……」
「いいの、そんなものは。私はただジークと愛し合って幸せな家庭を持ちたいの。それが私の夢なの」
そんな風に思いを語ってくれるマリーネを前に、僕は自分の力のなさを実感していた。だけどもし、貧しいながらも明るい家庭を築くことが出来たらどんなに幸せなことだろう。僕は聞かずにはいられなかった。
「君は本当にそれを、僕と一緒に叶えたいと願っているんだね? 僕を愛しているから必要としている、そう言ってくれるんだね?」
「えぇ、もちろんよ。当たり前じゃない」
「例えば街の小さな家で暮らすことになっても、粗末な食事や服に満足できる?」
「……私はどこででも暮らしていけるわ。あなたさえ私の側にいてくれれば。どうしてそんなことを聞くの?」
「今の仕事を、ハーシェルに譲ると言ったら、やっぱり怒る?」
「まぁ、ジーク! 本気なの?! あの新参者にあなたの誇りを譲ってしまうなんて」
「僕はやっぱり街で仕立屋をしてる方が性に合っていると思うんだ。もちろん、今の仕事はとても誇りに思っている。でも、君を悲しませてまで働き続けることなんて僕には出来ない。君さえ許してくれれば、これまでの稼ぎで家を買い、そこで二人仲良く暮らしていきたい。そして何より、君との子供を作りたい。どうしても」
マリーネの目をこんなにも真っすぐに見つめ返せたことはない。それほどまでに僕は決意を固めていた。はっきりと言い切ることが出来たのは、僕らの子供が出来ればルイーゼ様との関係も終わりに出来るかもしれないと言う、腹黒い思いを抱いていたせいかもしれない。
彼女は不安と喜びとの入り交じった表情をしている。
「嬉しいわ。えぇ、作りましょう。たくさん子供のいる温かい家庭を。でも……。姉上様がそれを簡単に許すとは思えないわ」
「あぁ。だから一つ賭けに出ようと思う」
「賭け?」
「うん。僕とハーシェルとの間にしか成立しない賭けをね」