第一章 3
なんてこった。
顔には出さなかったが、内心ではかなり焦っていた。
女性でも能力のある者、やる気のある者は進んで働かせている女王だから、城の中は女の花園。まさに天国だと胸躍らせていた時に、よりによって一番会いたくない兄弟子にこんなところで会ってしまうとは。女王に挨拶くらいはしておこうと、無理を言って案内してもらったパーティーは既に終わっているし、全くもって運が悪い。
しかも兄弟子は俺より先に城で働き、女王の着る服の製作を任されているらしい。それだけじゃない。冷静になってよく考えてみれば、俺を迎えに来た使いの男が着ていた衣装も、さっき何人かすれ違った侍女が着ていた服も兄弟子の作に違いなかった。修業時代に毎日見続けていたそれを見まごうはずがない。それだけでも腹立たしいのに、俺を試すようにわざと左手で握手を……。左利きだった頃を知っている人間は今や少ない。俺自身、左利きだったことを思い出す機会はめっきり減ったと言うのに。挑発しているとしか思えなかった。
左利きの人間は昔から忌み嫌われていて、無理やりに矯正させられる。俺の場合も親方のもとに弟子入りしてから矯正をさせられて、今でははさみも針も右手で扱うようになった。
仕立て職人のもとに弟子入りした以上、右手でしか扱えないはさみを持つためにはそうせざるを得なかったのだが、そこまでして直す必要があるのか、本当に疑問だった。左利き用のはさみや道具を作ればそれで何の問題もなかったのにと、今でも思っている。
右利きに矯正させられている姿を、兄弟子は俺のすぐ側で見ていた。自分は何の問題もなくさくさくと生地にはさみを入れながら。
俺は右手ではさみが扱えるようになるまで、兄弟子の裁断した生地を縫わされていた。きっと内心ではいい気味だと思っていたに違いないのだ。だってそうでもなければ、あんなにわざとらしく、裁断した生地を丁寧に重ね合わせた状態で俺に渡そうとはしないはずだ。あぁ、今思い出しても悔しさが込み上げてくる。
兄弟子はいつだって俺より一歩先にいて、そこから俺を見ていた。職人歴も先、店先に立ったのも、城での勤務歴も、妻をめとったのも先……。俺の方が全てにおいて優れているのにどうして?! 納得がいかなかった。
ここで会ったが百年目、今こそ恥を掻かされ続けた恨みを晴らしてやる。何としても女王の信頼を勝ち取り、俺こそが女王に相応しい仕立て職人だと言うことを思い知らせてやるんだ。
翌日になって、女王名で「仕立ての打ち合わせをしたいから支度部屋に来るように」と言う知らせを受けた。早速その美しい身体に触れることが出来ると思うとつい仕事も忘れてしまいそうになるが、ここは職人魂を見せなければならない。
廊下を歩いていると、侍女らしき女性たちが俺を指さして何かを話している。よくも悪くも、噂されていると言うことは名が知れている証拠だ。この五年間の功績が表れていると言うことだろう。
女王が待つ支度部屋の前へ来ると、すっかりおばさんと化した肥えた女が立ちはだかっていた。これは立派な見張り番。思わずひゅーっと口笛を吹くと、女はこちらに気づいて顔を向けた。身体ばかりか顔まで醜いが、とりあえず我慢して声を掛ける。
「失礼ですがお嬢さん、女王様はこちらにおわしますか? このたび雇われました仕立て職人のクラウス・ハーシェルと申します」
「あぁ、あんたがハーシェルさんね。話は聞いてるよ。ルイーゼ様は中にいらっしゃるよ。くれぐれも無礼な真似をしないようにね」
「無礼なことなど。小生はただの仕立て職人。雇われの身であることくらい十分に承知しております」
俺が口を開けば大抵の者は「口が達者な男だ」とか「減らず口を叩きやがって」などと愚痴をこぼす。目の前の女も、口にこそ出さないが目を丸くして呆れている様子だった。
大丈夫。言われなくたって首尾よくやるさ。万に一つ女王が大声を上げればこのおばさんが俺の首を絞めに来るに決まっている。この腕に締め上げられたら一発で骨が折れるに違いない。それだけはごめんだ。
女が重たい扉をゆっくりと開けると、広い部屋のほぼ中央に美しい女性が立ってこちらを見ていた。一目で女王と分かった。
そう、女とはこのように美しくなければならない。そして美しさを保持するための努力をしなければならない。金を掛け、時間を美のために費やす。それが出来て初めて真の女と呼べるのだ。
「クラウス・ハーシェルですね? 待っていましたよ」
女王は静かに口を開き、美しい声でそう言った。あまりの完璧さに息を呑み、自分が仕立て職人として謁見しに来たことを一瞬忘れてしまう。だがすぐに頭を切り換えて仕事モードに戻る。
「仰せの通り、参りました。小生の腕を買っていただき、ありがとうございます。誠心誠意尽くして参りますので、どうかよろしくお願い申し上げます」
「随分と礼儀正しいのですね? 街の仕立屋と聞いていたので、もうちょっと粗暴な言葉遣いをするものとばかり思っていました」
「小生は普段からこうですよ。商売をする上でこういった話し方の方が都合がいいですから。それより……」
くだらない前置きなどは不要だ。俺は早くこの美しい女王のことが知りたい。そして彼女に相応しい服を作りたい。
部屋の隅には二人の侍女がいて常に俺たちを見ている。まぁ、どれだけじっと見ていたって俺の手に掛かれば女王といえども簡単に俺の手中に入る。他の女と一緒。女は所詮女でしかない。長い歴史の中でも、女王や王妃が夫以外の男と関係を持っていたと言う話は決して珍しくはないし、目の前の彼女が独身なら尚更だ。
「堅苦しい話は抜きにして、女王様のことをいろいろと聞かせてください。服を作る上で、相手の好みを知るのはとても大切なことです。一方的なイメージを押し付けて出来上がった服を召されても、女王様自身のイメージと合わなければ互いに不幸な思いをするだけですから」
「互いとは、わたくしとあなたですか?」
「いいえ、小生ではなく、服です。服は今や、ただ身を包む布ではありません。実用的、機能的である必要はないのです。着ている者が満足して着られ、また衣装そのものも見ている人の目を楽しませることが出来る。それが今の服の役目だと考えます」
「噂通りのお人なのですね。服に掛ける情熱が伝わってきました。そうですね。それでは、わたくしの事をいろいろとお話ししましょうか」
「ありがとうございます」
女王はゆっくりとした動作で近くの椅子に腰掛け、空いている席に座るよう促した。その所作の一つひとつが優雅で、眺めているだけでも癒される。
「本当にお美しい。こんなに近くでお目に掛かれたとあっては、国民の怒りを買ってしまいそうです」
「そう言ってわたくしを口説こうとなさっても無意味ですよ。女の価値は容姿のいい悪いで決まるものではありません。よく働き、自分の力で行動できるものは、必然的に女としての魅力も生まれるものです」
「女王様らしいお言葉ですね。でも、一日中あくせく働いていたら疲れてしまうのでは? 精力的に活動するためにも、何かしら息抜きをする必要があるでしょう。女王の場合はどのように息抜きをされていらっしゃるのですか?」
「息抜き、と言うほどのことではありませんが、社交界でダンスを少々。踊りに集中すると、行き詰まっていた考えもうまくまとまるようです」
「それはよいことを伺いました。実は小生、ダンスをさせれば右に出る者はいないと言われるほど得意としております」
「まぁ。それは奇遇ですこと」
女王は驚いたような表情を見せた。いい反応に内心でほくそ笑む。
ほんの少し見栄を張ったが、全くのダンスの素人であればこんな風に豪語したりはしない。こう見えても大きな舞踏会が開かれた時には必ず足を運んでダンスに興じる。俺が公に女性に触れることの出来る数少ない場である。
「もしよろしければ一つ踊っていただけませんか? 服のイメージが湧くかも知れません」
さっと席を立って女王の側で跪き、早速ダンスを申し込む。この機を逃す手はない。
女王は小さく笑うとそっと俺の手を取った。
「随分と積極的ですのね。国中の(くにじゆう)男たちがあなたのような人だったら、どうなってしまうのかしら?」
「きっと今よりも住みやすい豊かな国になりますよ」
「あなたにとってはそうでしょうね」
「……ははっ、女王様には敵いませんね」
「さぁ、踊りましょう。メアリ、バイオリン弾きを連れてきてちょうだい」
さっきから部屋の隅の椅子に腰掛けていた侍女の一人が、名前を呼ばれて返事をし、すぐさま部屋を出て行った。ものの数分でバイオリンを持った男が現れた。
「どの曲でも踊れるかしら?」
「もちろん、大丈夫ですよ」
どんな曲でもステップは同じに踏めばいい。だから迷わずそう返事をした。
バイオリン弾きが定番のクラシック、ジョルジュ・クレーニの管弦楽曲を弾き始めた。女王と向かい合って右手を組み、左手を腰に回す。
私腹を肥やしている王族とは思えないほど痩せた身体。王族、貴族の間では、くびれたウエストラインを無理にでも作り出すのがこのごろの流行りらしいが、いくらコルセットで締めつけても、元がぶよぶよではこの細さは作り出せない。肉付きのいい方が女らしくていいと言う男もいるが、俺はこういう体型の方が好みだ。胸も痩せ過ぎていないのがいい。
身長は五.九フィートの俺より頭一つ分ほど小さい。肩幅はあるが首から鎖骨のラインが美しく出ている。首が細いから、首にチョーカーやリボンを巻いても収まりがいいだろう。
目で確認できるのはここまで。あとは想像の域になる。
ダンスの足の運び方もなめらかで、日頃から踊っているのがよく分かる。スカートの下に延びる足も同様に引き締まっているに違いない。
すらりと伸びた美しい足を思い浮かべる。ルックスは完璧だ。
形のよい足は、長くても短くても様になる。スタイルのいい女の腕や足を隠してしまう今の服装は本当に良くない。早く廃れればいいと切実に願っているのに、なかなか新しい波がやって来ないのはどうしてだろう?
「ダンス、お上手ね」
女王は軽やかなステップを踏みながら言った。
「女王様には及びませんが、お褒めの言葉を頂き恐縮です」
「あなた、本当に仕立て職人ですの? 街に住む職人たちは遊びに興じている暇などないくらい、日々一生懸命働かなければ暮らしていけないと聞いています」
「それは遊び方と金の儲け方を知らない連中の言い訳でしょう。どれほど忙しくても時間を有効にさえ使えば、仕事以外のことをするのは簡単ですよ。女王様だって、そうしていらっしゃるでしょう?」
「さぁ、わたくしと国民たちとは生活の仕方も働き方も違いますから」
いろいろと話してくれる、とは言ったものの、彼女は積極的に自分のことを話そうとはしない。それが女王としての立場を考えてのことなのか、単に話したくないだけなのだろうか。
そうこうしているうちに曲が終わってしまった。
「楽しかったわ。スマートな人が相手をしてくれると、こんなにも踊るのが楽なのですね。もう一曲踊りたいくらい」
それを聞いて思わず笑ってしまう。おそらく彼女にダンスを申し込む者の多くが、腹の出た男だと言うことが容易に想像できる。
「女王様がお望みとあらば、何曲でもお付き合い致します」
「変わったお人。服のイメージは湧きましたか?」
「えぇ、おおよそは。あとは型紙を作って生地を裁断し、縫い合わせるだけです」
「まだ採寸をしていませんわ」
「だいたいは終わっていますよ。一寸の狂いもなく計って欲しいと仰せであれば、それはもちろん計らせていただきますが。ダンスを踊っただけでは計りきれない部分もありますからね」
「……なるほど。では早速作ってもらいましょうか。イメージが鮮明なうちに」
さすがの女王も、俺の考えを察したらしい。少し気を悪くしたのか、顔から笑みが消えた。計算の範囲内だが、これ以上気を損ねないうちに身を引くのがよさそうだ。
「女王様の意志に従います。また、ダンスのお相手をさせていただければ幸いです」
「そうね。機会があれば。では仕立て部屋へ案内させます。ハンナ、お願い」
部屋にいたもう一人の若い侍女が呼ばれ、部屋の扉を開けた。
「ではまたお目にかかります」
深く頭を下げてそう言ったが、女王は何も言わなかった。