第一章 2
クラウス・ハーシェルがこの城に来る……!
そう聞いた時、頭上から暗闇が覆い被さってくるような感覚に襲われた。予想していたこととはいえ、ショックは大きかった。またしても僕はやつに仕事を奪われようとしている……!
その名がルイーゼ様の耳に届くまでは随分と時間が掛かったようだが、僕にとって彼の名は物心ついた時から刻み込まれた忘れようもないものだった。
どうしてあんなろくでなしがルイーゼ様のお付きに? 僕と言う仕立て職人がありながら? その思いはついに陛下に言うことが出来ず、ついさっき、彼のもとへ行く使いの人間を見送ってしまった。
十五年前。仕立屋である親父のもとに弟子入りした年。あいつはいつの間にかやってきて、それ以来ずっと僕の隣にいた。
ハーシェルは八つにして仕立ての天才だった。跡取りとして弟子に迎えられた十三の僕よりもずっと筋がよく、接客もうんとうまかった。
仕立屋なんてそんなに儲かる商売じゃない。働き手が一人増えればそれだけ飯を食わせるための費用が掛かる。だから自分の子供であっても、別の大きな店に修行に出すのは当たり前のことだった。親父だってそれが分かっていたから僕一人だけを跡取りにしようと決めていたはず。それなのに天才を前にしてあっさりと決心を変えた。
どうやってあいつの才能を見抜いたのかは何度問うても教えてくれなかった。だが、親父があいつを利用して売り上げを増やそうとしたのは明白だった。
その目論み通り、ハーシェルは店の売り上げに貢献し、親父一人では成し得なかった財を築いた。ところがあいつは自分一人で金を稼げる自信と技術があると分かると、これまでの恩義を忘れてある日突然、店の金の大半を持って出て行ったのである。
ウォーデン城の仕立て職人として働き始めてからちょうど五年が経つ。奇しくもルイーゼ様が女王になられたのと同じ年、またハーシェルが店を出て行ったのも五年前。女王の在位五周年記念式典の催しは、僕にとってはよくも悪くも様々な記憶を呼び起こさせる。
ルイーゼ様が女王に即位されることになったのを契機に新しい仕立て職人の募集が掛けられた。親父には、僕を一人前の職人に育ててくれたと言う意味では感謝もしているが、それ故に自分の能力がどこまで通用するか、もっと広い世界で試してみたいと言う思いも持っていた。そこで親父に相談もしないで応募したところ、運良く採用されて今に至っている。更に運のいいことには、ルイーゼ様が僕のことをいたく気に入ってくれて、実の弟のように可愛がってくださることだ。大変畏れ多いが光栄なことだと自負している。
ただ、店を継がせたがっていた親父だけはこのことを好ましく思ってはくれなかった。黙って応募したことも要因の一つであろう。親父は話を聞くなり血相を変え、口も利いてくれなくなった。「父さんはまだまだ頑張れるから心配はいらない。お前もお前なりのやり方で仕事に励みなさい」と言われたのが最後だったように思う。その時は腹も立ったが、あとになってみれば当然の反応だったと思う。何しろ、十年も手塩に掛けて育てた跡取りのうち、一人は勝手に店を飛び出し、残ると思っていた僕も店を出て行く事になってしまったのだから。
親父には悪いと思う反面、やはり職人である以上名誉ある職に就きたいと思うし、就いたらそれを全うしたいと思うのは当然である。一世一代の大仕事を任されて断る理由などどこにもなく、僕は何の躊躇いもなく店を去ったのだった。
城内にあてがわれた一室が僕の帰る場所だ。本来仕立て職人と言う身分でプライベートの保証された部屋を使わせてもらえるなんて異例のこと。それもこれもルイーゼ様の特別の配慮あってのことだ。
普段であれば仕事を終えたあとはそこへ戻り身体を休めるのだが、今日は定例の社交界が夕刻より催されるので、部屋では着替えだけを済ませてそちらへ向かう。
会場に入ると、真っ先に妻のマリーネが僕の側へ近づいてきた。
「お疲れ様、ジーク。仕事は無事に終わった? ……どうしたの? せっかくの社交界だと言うのに、何だか浮かない顔ね。何かあったの?」
マリーネは僕の顔色を見てすぐにそう言った。僕はため息を一つ吐く。
「うん。今日は嫌なことを耳にしてしまってね。仕事も手つかずだったんだ」
「もしかして、新しい仕立て職人を雇うって話?」
「情報が早いね。まさにそれだよ」
「会場にいらしている何人もの方が噂していたのよ。嫌でも耳に入るわ」
マリーネは僕と同じ二十八歳。五年前に知り合って以後、徐々に親密な関係となり一年前に結婚した。
実を言うと彼女は王族だ。本来なら僕のような外部からやって来た人間が王族の女性と親密な関係になることは許されない。ところがマリーネは進んで僕に声を掛けてきて交際を申し出てくれたのだ。
はじめはとんでもないことだと断った。王女と僕とじゃ釣り合うはずがないし、仮に僕と結婚することになれば彼女は王位継承権を失ってしまう。彼女のことは出会った時から美しい女性だと気に掛けていたが、全くもって手の届かない人だったのだ。それでも彼女は僕にラブコールを送り続けた。
彼女は心から気を許せる友を求めていた。王宮での付き合いは表面的で、何もかもが嘘で塗り固められている。それが息苦しいのだと。そんな城での悩みや相談事を僕は熱心に聞いてあげた。また彼女の知らない街の様子なども話して聞かせた。彼女は僕との交流を深めるうちに、僕の優しさや誠実な人柄に惹かれていったのだという。
やがて彼女の行動力はルイーゼ様をも動かし、王位継承権はそのままに晴れて結婚するに至ったのだった。
ルイーゼ様とマリーネは十離れていて、既に嫁いだ第二王女と合わせて三人姉妹だ。それぞれに腹違いだが姉妹の仲は比較的よい。またルイーゼ様は僕らの結婚に関しても寛容で、妹の頼みならと特別に許してくださった。仕立て職人である僕が、マリーネと二人きりの部屋を与えられているのもそう言った経緯からだった。
「姉上様もおっしゃっていたわ。ジークには悪いけど、彼の腕がどれほどなのかを見てみたいって。姉上様らしいよね。でも大丈夫。式典の衣装だけを任せるからあなたが仕事を失うことはまずないって、そう約束してくれたわ」
どうやらマリーネは女王陛下からそんな話を聞いて、いらぬ約束まで取り付けてくれたみたいだ。
「わざわざそんなことを言わなくても、僕はちっとも心配してないよ」
「嘘。じゃあいったい何をそんなに気にしてるの? 仕事を取られるのが怖いんじゃないの?」
嘘を吐いてもすぐに見破られてしまう。諦め(あきら)て正直に打ち明ける。
「君には敵わないな。実を言うと、新しく来る仕立て職人ってのは僕の弟弟子なんだ」
「……仲が、悪かったのね?」
「そう言う次元じゃないんだ。相性が悪かったし、僕とあいつとではあまりにも出来が違った。同じに始めたのにまるで違う。天才と言う他ない。ほら、あのひときわ目立つレースのドレスを着た女性、それからその奥のワインレッドのドレスを着ている婦人も、弟弟子の作ったドレスを着ている。間違いない」
「それで引け目を感じてるって訳ね。仕事も取られちゃうって、心配してる」
「……情けない話だけど、そう言うこと」
「この仕事、譲る気なの? 違うでしょ?」
彼女は僕の手を取った。透き通った細くて長い指。その先に延びる白い腕と整った顔。町娘とは対照的な容姿は本当に美しく、僕には勿体ないといつも思う。
「私の目を見て、答えて」
俯い(うつむ)ていた僕に彼女は再び声を掛けた。彼女の瞳に醜い僕の顔が映っている。そう思うだけで恥ずかしい。でも彼女はそんな僕の顔に触れた。
「自信を持ってちょうだい、ジーク。今の仕事を、姉上様に認めてもらえたことを誇りに思ってるんでしょ? だったら私の目を見てはっきりとそう言って。あなたは顔の痣を気にして隠したがるけど、全然変じゃないよ。仕事の腕が劣ってることを痣のせいにしては駄目」
生まれ付き顔の左側に大きな痣がある。それをずっと気にして生きてきた僕は臆病者で、マリーネと出会うまでは女性に声を掛けることさえ出来なかった。
彼女はこんな僕でも好きだと言ってくれたし、将来二人の子供をたくさん作ろうと夢まで語ってくれる。僕にとってマリーネは人生の宝物、かけがえのない人だ。
僕が自信をなくすと、いつも決まって励ましてくれる。彼女の言葉がなければきっと今ごろ城を去って親父の跡を継ぎ、細々と売れない服を作っていたに違いない。
僕はようやく真っすぐ彼女の目を見つめることが出来た。
「いつもありがとう。少し元気が出てきたよ」
「少し、なの?」
「いや、すっかり元気が出た」
「嘘。やっぱり少しね」
「あー……。ごめん」
「ううん。謝ることはないのよ。ただやっぱり嘘が下手なんだなって、そう思っただけ」
「どうして分かっちゃうんだろう?」
「顔に出てる」
「どんな風に?」
「それは教えない。だってそうしたら直そうとするでしょ? 私は今のままのジークが好きなの。だから何も変わらないで欲しいのよ。これからもずっと」
「ありがとう」
本当に僕は幸せ者だ。何もハーシェルのような派手な人生でなくて構わない。そう思うのだった。
「ねぇ。新しく来る人、なんて言う人なの? ジークに天才と言わしめるほどの人物なんて私、想像もつかないわ」
僕が落ち着いたと分かると、マリーネはハーシェルのことを聞きたがった。好奇心が旺盛な彼女のこと、きっとそうすると思っていた。
あまり気が進まなかったけど、話してやることにする。
「悔しいほど仕立ての腕がいいんだ。親父に、『神の手を持つ職人』あるいは『緻密な針使い』って呼ばせるほどさ」
「まぁ。でもジークだって『黄金のはさみ使い』って呼ばれてるじゃない。立派な称号よ」
「うん。ただあいつは根っからの遊び人で、見習い時代から昼だろうが夜だろうが年中女のところに通っていたよ。顔を売るにはそのくらいの事をしなくちゃ、ってのがあいつの口癖だった」
「まさか……。さっきその、ハーシェルって人に服を仕立ててもらったと言うご婦人と話したけれど、そんな話少しも出てこなかったわ」
「客受けだけはいいからね。同業の間ではその悪名を知らない者はいない。取り引きをしたがらない商店も多いと聞いているよ」
だが、たとえそれが悪名であっても、あいつの名前は街中に知れ渡っている。城に仕えていても僕の名前なんかちっとも売れていないと言うのに。
僕がため息を吐くと、同時にマリーネもそうした。
「どうして君がため息を吐くんだよ?」
「あまりに素晴らしい服だったから、作り手もどんなに素晴らしい人なのかと想像を巡らせていたのに、何だか残念だわ。そう、その人が」
「うん」
「でも大丈夫よ。姉上様がそのことを知らずに城へ呼んだとは思えないもの。きっと何かお考えあってのことに違いないわ」
「そうだといいけど」
「何なら私が様子を見てくるわ。いくら何でも既婚者に手を出したりはしないでしょ」
「いや、既婚者にこそ手を出すのがあいつのやり方なんだ。ハーシェルの口説きは半端ない。出来れば近づかないで欲しいな」
「ジークがそう言うなら、止めておくわ」
まだ腑に落ちない様子ではあったが、マリーネは僕の忠告を聞き入れてくれたようだ。
夕食の支度が出来たことを知らせるベルが鳴り響く。僕らは臨席者の集まる輪の中へと向かった。
パーティーが進行している最中もハーシェルのことが気になって仕方がなかった。何となく城内が慌ただしい雰囲気になると、ハーシェルが参上したのではないかと思い、食事もろくに喉を通らない。
「ジーク殿、身体の具合が悪いのかしら? さっきからお皿の食事がちっとも減っていないわ。このお肉なんかとってもおいしくてよ? さすがはウィルツェンベルク産の高級羊ね。料理長が今日のために腕によりを掛けて作ったのですって。柔らかくて味がしみていて、口の中でとろけてしまうわ」
近くに居合わせたリートヴィッヒ大臣が気づいて声を掛けてきた。彼女はルイーゼ様に最も近い側近である。
「いえ、お気遣いなく。仕事の疲れがちょっと」
「ジーク殿は責任感がお強いから、少し無理をなさっているんじゃなくて? 何しろ、あたくしたち家臣の衣装の半分近くをお一人で手がけられるんですものね。ただご承知の通り、式典の衣装は別の方に依頼することが決まっていますから、少しは負担も減ると思いますよ。この機会に骨休めをしなさいな」
「えぇ。そうですね」
言ってはみたものの、声が震えていたような気がする。自分自身が情けない。
そもそもマリーネの夫になったからとはいえ、僕のような下層の人間が貴族たちと一緒に食事を囲むなんて場違いもいいところ。数々のパーティーに参加するようになって一年が経つが、未だに慣れることはない。マリーネがいなかったら逃げ出しているところだ。
「ジーク。無理しなくてもいいのよ? 食欲がないのなら食事に手をつけなくたって構わないのだから」
「あぁ、ありがとう。でも大丈夫」
彼女の気遣いは何よりも嬉しいが、こういう場ではあまり役に立たない。周りの目を気にして強がってしまうのだ。妙なところで見栄を張ってしまうから余計に疲れが溜まる。僕が自然体になれるのは、服と向き合っている時だけ。マリーネには悪いけど、彼女と一緒にいる時でも僕は、未だにありのままの自分をさらけ出すことが出来ないでいる。
ルイーゼ様は同席していなかった。もしこの場にいたらハーシェルのことをもう一度聞こうと思っていたのだが、職務が忙しいのだろうか。このところはこういったパーティーにも遅れてきたり、あるいは欠席したりすることさえある。事情は誰しも理解しているが、参加している者たちもそれが何度も続くとなるといい顔をしなくなる。もっとも、そんな噂がルイーゼ様の耳に届こうものなら、噂の種を蒔いた人物は二度と日の目を見ることが出来なくなるのだが。
「あの、ルイーゼ様はご臨席されないのでしょうか? 姿が見えないようですが」
気分と話題を変えようと、僕は会話の糸口を作った。満足げにラム肉を平らげた大臣は、十五年ものの葡萄酒を飲み下したのちに話し始める。
「予定では公務を終えたあとでお見えになるはずだけれど。本当にお忙しい日々を過ごしていらっしゃるものね。ただ、仕事熱心なのは結構だけれど、こういう場で各方面の方々と話すことも立派な公務だと、あたくしなんかはそう思うわ。そうは言っても、ご公務のスケジュールは女王陛下ご自身がお決めになること。あたくしたち家臣でも、一切口出し出来ませんからね。 あたくしたちに出来るのは、陛下が留守の間、この城をしっかりと守り、まとめること。それを完遂して、陛下のなさろうとしている事のお役に立つのが勤めなのよ。
亡くなられたアレクサンダー陛下以前に敷かれていた古い体制を変えようとなさっている事が、国内に留まらず、国外にも次第に広まっているの。そりゃあ、そこに至るまでには保守派の人々の犠牲なくしては語れないけれど、女王陛下の信念を現実のものとするには、これまで甘い汁を吸ってきた彼らを処刑するしかなかったんですものね。
陛下はこの国を、もっともっと豊かで活気ある国に成長させようと計画なさっているわ。そのために今力を入れているのが隣国・フリッカ王国との交渉。今後十年の間に、首都と首都とを結ぶ鉄道を敷設する方向で話が進んでいるらしいの。それが現実のものとなれば、更なる経済発展が見込めると言う訳。我が国の工業化を推し進めるだけでなく、就業率もきっと上がるはずよ。お金を得ることが出来れば、長年贅沢禁止令のもとで贅沢できなかった層の人々もどんどん購買意欲を誘われて経済発展に貢献してくれる。まさにいいこと尽くめと言う訳よね。
一定の税金を納めていればどんな人でも医療を受けられるよう社会福祉も充実させているし、数年前と比べればどれだけ暮らしやすくなったことか。街での陛下の評判は高まるばかり。秋の記念式典で、陛下の美しいお姿と素晴らしい声明が披露されれば、そのお立場が揺るぎないものになるのは間違いないわね」
大臣は話したがりで、僕が聞いてもいないことを次から次へと話してくれる。おかげで政治に疎い僕でも国の情勢に詳しくならざるを得ない状況であった。
その後もしばらく話し続けていた大臣から解放されたのは、皿に取り分けた川魚の(ブラツシェ)香草焼きがすっかり冷たくなった頃だった。
結局ルイーゼ様が会場に現れる前に会は終了し、皆散会した。僕は取り分けた料理を残してしまったことに罪悪感を覚えつつも会場をあとにし部屋へ戻る。
「何だかいつも以上に変ね。クラウス・ハーシェルって人のことを気にしているんでしょうけれど、そんなに思い詰めていたら身体に障るわ」
廊下を歩いている時、マリーネが心配してそう言ってくれた。彼女は僕の考えていることをズバリ言い当てたのだった。
「うん。僕だって考えたくはないんだけど、気がつくと……」
その時だった。前方から独特の、威圧的な気配を感じたのは。
「どうしたの?」
「やつだ。ハーシェルだ」
「まぁ、あの人が」
きっとルイーゼ様に会ってきたに違いない。やつの堂々とした態度を見れば一目で分かると言うものだ。
その姿を見た途端、さっきまであんなに臆病風に(おくびようかぜ)吹かれていたのが嘘のようにすっと気持ちが落ち着きを取り戻した。おどおどした姿を見せればやつは大いに喜ぶだろう。マリーネの前ではせめて、男らしく振る舞いたかった。
ハーシェルとの距離が次第に縮まる。向こうもこちらの存在に気づいて目が合い、そして立ち止まった。
「ハーシェル。久しぶりだな」
「……はて。どこかでお会いしましたか?」
やつの言葉に、血の気がすっと引いていくのが分かった。それが演技なのかそうでないのか、僕には見分けがつかなかった。
確かに最後に会ったのは五年前だが、この痣のある顔を見忘れる程こいつの目は節穴だろうか? それほどまでに女にしか興味がないのか? いずれにせよ、向こうが知らないと言い張るのなら話を合わせる他はない。
「これは失礼。君の名があまりにも知れているので、つい旧友に会ったような気になってしまったようだ。挨拶が遅れたが、僕はジーク・アスカー。ここでの仕立てを任されている者だ。以後、よろしく」
宿敵との再会に逃れられない運命を感じた僕は自然と握手を求める。だが右手を出そうとしてふと思い直し、左手を差し出した。今は違うが、幼い頃やつが左利きだったことを思い出したのである。
ハーシェルはすぐには応じなかった。数秒の間があった。それで僕は、さっきの開口一番の挨拶が嘘であることを悟った。
「こちらこそ、どうか仲良くしていただきたいものです。街での暮らしが長いので失礼なことをしたり言ったりするかも知れませんが、その時はご勘弁を」
握り返された手は力強かった。右手が添えられ、更なる力が込められたせいもあるだろう。しかし絶対的な自信がみなぎっていて、それだけで僕は圧倒されそうになる。
ただ口先だけの男ならば、また何の努力もなしにそれをこなせる天才ならば、こんなに臆したりはしないだろうし、天がそれを許したのならと、諦める気持ちも湧くだろう。だがやつが添えた右手には裁ちばさみによって出来る胼胝がしっかりとついていた。僕と同じ職人の手だった。腰にはその手を作り上げた鋼の裁ちはさみが専用の革袋に収められている。手入れが行き届いているようで、一点の曇りもなく光っていた。
こいつは与えられた才能に甘んじることなく努力も惜しまない男。天才に磨きをかけ続けることの出来る男だ。こいつが目の前に再び現れた今、僕はこれまで以上の努力をしなければ、マリーネに言ったことが現実となってしまう。そして僕はそれを恐れている。
醜男の僕が誇りに出来る数少ないものの一つが仕立て職人であることだ。それを失ったら何の取り柄もなくなってしまう。そうなればマリーネと毎日どんな顔をして会えばいいかさえ、分からなかった。
「失礼ながら、そちらの美しい方は?」
端から僕に興味を持っていないであろうハーシェルは、握手を終えるとすぐにマリーネに気づいた。いつものように上から下まで品定めをするように嫌らしい目付きで見ている。マリーネには大人しくしていて欲しかったが、彼女がすっと前へ出たので、僕はなるべく自然に見えるように彼女の腰に手を添えた。
「妻のマリーネだ。マリーネ、挨拶を」
「初めまして。ジーク・アスカーの妻、マリーネです。お目に掛かれて光栄ですわ、ハーシェルさん。お噂はかねがね」
「あなたのような美しい方のお耳にも小生の名が届いているとは、こちらこそ光栄に存じます。機会がありましたらぜひ、お食事などご一緒させていただきたいものです」
「私など、道ばたに咲くのスミレようなものですわ。夫もね」
「そのように謙遜される必要はありませんよ」
「いいえ、謙遜ではありません。スミレは薔薇のような大きな花弁でもなければ、花壇に植えるほどの花でもない。決して美しくはないけれど、小さな花の芳しい香りに人は惹き付けられます」
「なるほど。奥が深い。教養のある方は言うことが違いますね」
「お食事をする機会がある時は、ぜひ絵画や文学のお話が出来るとよいのだけれど。では、私たちはこれで」
会話の主導権の全てを握ったマリーネは、とても論破できない持論を展開してあのハーシェルを黙らせ、華麗に彼の脇をすり抜けていくのだった。僕も彼女の目配せを受けて同様にその場をあとにした。
彼女の引けを取らない態度に僕はすっかり感心してしまった。と同時に、自分の弱さや情けなさを再び知ることとなった。
僕もいつか、隣を堂々と歩く彼女のようになりたい。いや、彼女を守れるだけの強さや自信が欲しい。そう思うだけで何も出来ない自分を殴ってやりたかった。