第一章 1
ドロドロの愛憎物語です。
一部、性的描写があります。
苦手な方は注意して読んでいただくか、ご遠慮ください。
中央商店街の一角にある店。開店時間の午前十時を過ぎると間もなく、どこからともなく女性客がやってくる。年齢層は二十代後半から三十代半ばが多い。皆、夫が仕事で留守なのをいいことにこっそり店を訪れる。
「おはよう、クラウス」
「やぁ、エリザ。久しぶり。今日も綺麗だね」
エリザベートは我が店の常連客の一人である。
色白で端整な顔立ち。普段は長い黒髪を一つにまとめていて人当たりもいい上、夫によく尽くす高潔な印象の持ち主である。だが、ここを訪れる時は表向きの評判を脱ぎ去ってありのままの彼女でやってくる。
髪を下ろして胸の大きく開いた服を着て、家にいる時は絶対に身に付けない真珠の耳飾りを片方だけする。それが彼女の最大のおしゃれであり、彼女が最も輝いている時なのだ。
彼女は決して群を抜いて美しい訳ではない。だが、少しでも美しくあろうと努めることで、人はいくらでも魅力的になれる。
「お金が出来たの。だからまた新しい服を作ってもらいたくて」
身体をすり寄せながら、エリザは俺に数枚の紙幣を手渡す。靴職人である彼女の旦那の収入を考えれば、半月分の給料にあたる大金であった。
「こりゃまた随分と景気がいいことで。旦那が転職でもしたのかな? それとも……」
最後まで言う前に、エリザの人差し指が俺の唇に触れる。
「お金の出所なんてどうでもいいじゃないの」
「まぁ、俺は服の代金をきっちり払ってくれさえすれば、それがどんなに汚い金でも構わないさ」
この金はおそらく、裏通りの信用ならない金貸しから彼女自身が借りてきたものか、誰かの財布から抜き取ったものだろう。でなきゃ、こんな大金を手に入れられるはずがない。だが、そうまでしても彼女は俺のもとを訪れようとする。理由は簡単。俺がどんな男よりも魅力的だからだ。
「それより、作ってくれるの? 新しい服」
彼女が艶めかしい声で、じれったそうに言った。
「あぁ、もちろんだよ。今度はどんなのがいい?」
「そうねぇ。これから暑くなってくるし、軽くて涼しげなワンピースが欲しいわ」
「なら、綿と麻を組み合わせたものを作ろう。夏は薄着になるから、身体の線を出した方がいいね。メリハリのついている君の身体を最大限にアピール出来るよ」
背中に手を回し、身体の線をなぞるように体型を確かめる。彼女は大人しくそれに従う。
「全体的に少し痩せたねぇ。家の仕事が忙しいの?」
「子供が三人もいると、それだけでてんてこ舞いよ。今日は実家に預けてきたので何とか時間を作れたの」
「それは可哀相に」
「でもここへ来るといろいろな悩みや辛いことも忘れられる気がして」
「俺でよければ何でも聞いてあげるよ。夜だって、君の頼みとあればいつでも開けておく」
「じゃあ今夜。また来てもいい?」
「あぁ、もちろん。くれぐれも……」
「夫にバレないように。でしょ?」
「君も分かってきたね」
「ふふ、大丈夫。あの人、隣町まで出かけていて今夜は帰らないから」
見つめると、エリザは妖艶に微笑んだ。
三十を間近に控えた三人の子持ちであっても、ひとたび家を出れば、妻や母ではなく一人の女に立ち返る。そんな危ない橋を渡っている時、人はいつでも若い気持ちを取り戻すことが出来る。美しさと引き替えに身体を、果ては人生をも駄目にしてしまうとも知らずに。
その晩、エリザは約束通り訪れて、店の二階に誂え(あつら)た寝室で一夜を共にした。新しく作る服をイメージしながら、型紙を切り取るように身体を重ねて。
ウォーデン国の街フレイヘルトの仕立屋と言えば、まず一番に俺、クラウス・ハーシェルの名があがる。自分の店を持って五年経つが、二十三歳にしてその名を轟かせているのは、この国広しと言えど俺くらいなものだろう。
オーダーメードで仕上がりもよく、どんな要望にも応えてくれる。それでいて良心的な価格と来れば評判が高いのは当然のことだ。寝る間も惜しんで作業をしなければ間に合わないほどの忙しさであることは言うまでもないが、生地の裁断から仕立てまでを一人で行うことで、より完成度の高い服を作ることが出来ると信じているため、このスタイルを変えるつもりはない。
街の女性たちがおしゃれな服を買い求めるようになったのはごく最近のことだ。王が変わったことで、時代は貴族社会から階級社会へと移り変わり、上流社会へ憧れを抱いてきた人たちが彼らの真似をして着飾ることが出来るようになったのである。
都市部に住むいわゆる、中流階級の人たちがそれに当たる。彼らの多くは主に知識を生かした仕事に従事していて、生活には比較的余裕がある。女性はまだまだ少数だが、商人たちにとって彼らは格好のお客なのだ。
俺の商売相手もまた彼らが中心だが、殊に美しくあろうとする女であれば身分や階級は問わない主義だ。
女は美しくなければ存在価値がない。容姿の優れている者なら粗末な服でも見られるが、そうでない女ならせめて綺麗な服を着て見るに堪える姿でいるべきだ。
美しい女を増やすための手伝いをするのが俺の役目だ。それは俺自身のためであると同時に、彼女たちのためにもなると言う訳だ。
おしゃれに気を遣う女性は女としての魅力が内面からにじみ出ている。そう言う女は、仕事に疲れてろくに相手もしてくれない夫との関係にうんざりし、俺のようないい男の誘いに簡単に応じてくれる。そうなればもう思うつぼだ。
ただ面倒なのは、この関係が女の夫に知れた時だ。その瞬間、俺たちの付き合いは終わる。だが恐れることはない。これまで不貞を働いたことが何度か明るみに出たけれど、そのたびに首尾よく乗り越えてきたのだ。
難局を乗り切るのに最良の方法は、金で相手を買うことだ。金さえ渡せば大抵の人間は大人しく身を引く。そして俺には相手を黙らせるだけの金がある。馴染みの客を失うのは心苦しいが、すぐに新しい客がつくのでいつまでも気に病むことはない。また、時には上流貴族の連中が腕の立つのを聞きつけて大口の注文をしてくれるから、高額の手切れ金を渡したところで痛くもかゆくもないのである。
しかし中にはそれでも怒りを静めてくれない男もいて、子供が出来たらどう責任を取るつもりだったんだ、と語気を荒げるやつもいる。アンと言う女の夫がそうだった。大声で詰め寄る男に、俺はこう言ってやった。
「僕からアンさんを誘ったことは一度もありません。全ては彼女の意志。万が一の時は彼女が全ての責任を持つと、はっきりこの耳で聞いていますので」
事実をありのままに言った。すると男は憤怒して、手切れ金も彼女のために作った服も俺に投げつけて帰っていった。
それ以来アンが店に来ることはなく、夫との仲も修正が利かなくなって別れたと風の噂に聞いた。
そんな事ばかりをしているせいで、同業の連中からはかなり煙たがられている。いつかは恨みを買って命を取られると心配してくれる者もいたがそれも昔の話。大抵のやつが早くくたばれと思っている。いや、面と向かってそう言ってくるやつだっている。とにかくやり方が意地汚い、と言うのが理由らしい。
けれども女性客が俺の店に足を運んでくれる限り生活は保障される。また、この街にいられなくなった場合は、他の街にでも移って新しい店を開けば問題はない。そればかりか、俺と俺の服の魅力を知った者が増えればそれだけ、美しい女性が増える。いいこと尽くめと言う訳だ。
信じられるものは金と自分の職人技術だけである。
男どもの言うこと為すことには何一つ価値がなく、まして信じる気持ちを抱くだけ損をする。一方で女性は俺の人生に花を添えてくれる存在だが、全てを信用すると痛い目に遭うので扱い方には注意が必要だ。とはいえ、そのことが分かっているなら臆病や消極的になる必要なんかない。何事も自分の信じる通りにやるだけだ。
いつか死ぬのは分かっているのに、妙な決まりや制度に縛られて生きるなんて馬鹿げている。だったらやりたいことを好きなだけやればいいんだ。そうすりゃ俺みたいに、欲しいものを全て手に入れることが出来る。周りのやつらはそんな俺に嫉妬しているだけなんだ。
エリザと大人の時間を過ごした翌朝。すがすがしい気分で目覚めた俺は、少し多めの金を持って街へ繰り出した。
店を出るとすぐ、活気溢れる商店街に出る。
「ちょっと、クラウス! 今日もいい食材が入ってるよ。寄っていかないかい?」
歩き始めてすぐ、恰幅のいい八百屋の女主人が親しげに話しかけてきた。よく世話になっている店の一つである。ちょっと贔屓にしているだけで、例外なくジャガイモをおまけしてくれる。だが、今は食材を買いに来た訳ではない。
「悪いけど、後にさせてもらうよ。これから生地の買い付けなんだ」
「そうかい。じゃあ、待ってるからね」
おばさんに別れを告げ、急いでその場をあとにする。気さくに話しかけてくるのはいいが、こちらから区切りをつけないと、いつまででもしゃべっているから気をつけないといけない。例えばあと二十若かったしても、あのおしゃべり女に手をつけようとは思わないほどだ。
しかしここ最近、食材の値段が高騰しているような気がする。おばさんの目を盗んで商品の値段を見てみたが、先月まで十個で三十ウォーデンだったジャガイモが三倍に跳ね上がっていた。そう言えば、ジャガイモの産地が天候不順に悩まされているという話を耳にしたことがある。まぁ、ジャガイモ嫌いの俺にとっちゃ、あまり関係のないことだけど。
フレイヘルトはウォーデン城の抱える中心都市となっていて、様々な物品が集まる場所だ。時期や天候によっては手に入りにくいものもあるが、野菜や果物、肉や鮮魚はもちろん、良質の絹や綿布など、俺が必要としているものはいつでも買うことが出来る。
俺はこの街で育ったが、商売をしていく上で不自由を感じたことがない。同業の者の多くはよりよい賃金を得るために各国を転々としながら暮らしていると言うが、豊富な材料が手に入るこの街で、好きな服を好きな女のために作る事の出来る俺はこの生活が気に入っている。わざわざ行商をするなんて労力の無駄遣いだと思っている。
金もうけにはそこまで興味がない。ただ、自分の信念のままに仕事をしていれば自ずと金は貯まる。その金で好きな女に宝石やアクセサリーを買ってやれば、互いに満足感を得られて一石二鳥にもなると言う訳だ。
「よぉ、クラウス。仕事の方はどうだい? 相変わらず、うまくやってるのかい? え?」
「……っと。これはこれは。シュナイダーの旦那。見回り、お疲れ様です」
恭しく挨拶をしながらも、顔は正直引きつっていた。灰色の制服に身を包んだ彼は、この街の警察官だ。一度ならず、彼には何度も世話になっている。まぁ商売上、顔が売れれば良くも悪くも噂は立つもの。その噂を真に受けた騎士出身のこの男が、そのたびに俺を警察署へ連行してきた。迷惑この上ないが、妙なことにそれが縁で立ち話程度はする仲になってしまっている。
「仕事はすこぶる順調ですよ。今もちょうど、生地を買い付けに行くところです」
疚しいところが多過ぎるので、本当はすぐにでもこの場を去りたいところだが、少しだけ旦那に付き合うことにする。でないと、あとが面倒だ。旦那はいつになく上機嫌で話し始める。
「いつも思うが、商売の才能があるやつは羨ましいねぇ。ま、念のため確認しておくが、税金はちゃんと納めてるだろうな? 儲けた以上はしかるべき税金を納める。それがこの国のルールだ」
「もちろん。その点は、シュナイダー警部に何度も調べられています。一ウォーデンも申告漏れはないですよ。しかし、なぜ急にそんな話を?」
「ついさっき、脱税の罪で一人、処刑されたって話を聞いてな。それを教えておいてやろうという訳だ。今年だけでもう三人目になる」
「おっかない時代になりましたね」
「そうかと思えば、窃盗罪で捕まる人間もいる。そいつも死刑になったらしいがな。金のあるところとないところの差が激しいのが今の世の中さ。オレたちもいつ食いっぱぐれるか分からん。だからクラウスも、殺されたくなかったら全うに生きることだ。いくらオレがかばったところで、この国の法律には逆らえないんだからな」
そう言って旦那は俺の肩を何度か叩いた。腐れ縁が功を奏しているのか、旦那は時々こんな忠告をしてくれる。それが役に立ったことは今のところないが、ホットな情報を入手できるので話を聞いて悪いことはない。
今の女王になってから、死刑に処される人間が三倍にも膨れ上がったという。窃盗や脱税などの罪でも死刑を言い渡されるケースが増えているからだ。罪深い人間は、生きるに値しないのかもしれない。だが、そんな強引なやり方で果たしていいのだろうか。これが、この国に抱いている唯一の不満である。
途中何度か足止めを食ったが、ようやく行きつけの呉服屋にたどり着いた。俺が町中へ繰り出したのは、エリザの服を作る材料を買うためである。
「おじさん、買いに来たよ」
互いによく知る間柄なので、声を掛ければすぐに応対してくれる。この店を贔屓にしている理由の一つだ。
「あぁ、お前か。今日はどれを買ってくれるんだい?」
「インディゴブルーの綿モスリンと、麻布があればそれを」
頭の中で描いた服をイメージしながら注文する。おじさんは微笑んだ。
「まいど。あるだけ包むかい? 安くしとくよ」
「そうだな。そうしてくれる?」
「はは、いつもながら景気のいいことだ。助かるよ。支払いは現金だよな?」
「もちろん。俺は現金しか信用してない。おじさんだってそうだろう?」
「おうよ。ったりめぇじゃねえか。信用貸しじゃ、腹一杯にゃならねぇからな」
「でもその前に質を確かめさせて欲しいんだ。疑ってる訳じゃないけど、そう言う性分なんでね」
「分かってるよ」
グラーブ呉服屋の店主は表面上は実ににこやかな笑顔を浮かべ、言われた通りの品を棚から下ろしてきた。それを受け取り、手触り、色合い、色むらがないかなどを丹念にチェックする。特に染色は、色によっては天候の影響を受けやすいため、その都度確認する必要がある。
ただし、仮に問題があっても値引きの条件にすればいい。その手で何度も安く買い付けることに成功している。
「手触りは問題なしだね。色合いもいい。ただ均等に染まっていないのが残念だな」
「知っての通り、ここ最近、好天に恵まれなかったせいだ。十分に日光に当てて乾燥させなければ、色を重ねた時にくすんでしまうし、室内のランプ明かりだけじゃ多少のムラがあっても見落とす恐れがある。だがその分、買値も売値も安くなっているよ」
「それはよく分かってるよ。でも、おじさんがこういう低品質のものを店に並べておくなんて、いったいどうしちゃったのさ? らしくもない」
「そう思うなら買わんでもいい。オレはオレの選んだ生地を、欲しいと思う人にだけ売ることにしてるんでな」
言うなりおじさんは俺の手から生地を奪い取ると、元の棚に戻してしまった。
「……いったいどうしたんだよ?」
いつもなら、こんなつまらないことで言い合いになることはない。大抵俺の指摘は正しいし、相手もそれを認めて上等な品を新たに出してくるか、値引き交渉に転じてくるはず。おじさんだって、いつもそうやって駆け引きに応じていた。
おじさんは大きなため息を吐いて言う。
「お前は、染め物師の立場になって生地を買いに来たことがあるか?」
「えっ、ないけど」
「そうだろうとも。近年ファッションにうるさくなったせいで、人々が一年中、ありとあらゆる色の服を求めるようになった。だが、染め付け作業は全てが容易に出来る訳ではない。原糸を精錬し、染色液を作り、何度も染まり具合を確認したのち丹念に洗わなければならない。
オレは染め物師ではないが、彼らの苦労は分かっているつもりだ。だから彼らが丹念に染めた生地は責任を持って売ろうと心がけている。それにも関わらず、お前はいつも己の目線だけで品物を見ては、ことある毎に欠点を指摘して文句ばかりを言う。
それだけじゃない。お前は客を同じ血の通った人とも思っていない。その考え自体が気に入らないし、そんなお前と付き合っているだけで同じ目で見られるんだよ。
これまで生活のため、家族のためと思って我慢してきたがもう限界だ。人情も職人のプライドの欠片もないお前に売る生地などもはや一反もない。分かったらさっさと出て行け! 金輪際、オレの前に顔を見せるな!」
「ちょっと待ってくれよ。俺だってプライドはある。だからこそいい生地を買おうとして隅々までチェックをするんじゃないか。それに適わない生地を駄目出しすることのどこが悪いんだよ?」
「真の職人なら、どんな生地でも色でも、それを利用して服を仕立てるんじゃないのか? それこそが、職人のプライド、腕の見せ所ってやつだろうが」
何かがおかしい。いつものおじさんらしくない。少しだけ苛立つ。
「それは、俺の腕が悪いって言ってるの?」
「違う。お前は間違いなくいい腕を持っている。そのあくどい性格がなけりゃどれだけ……」
おじさんの言う意味が分からなかった。いい腕を持っていると認めながら、なぜ俺に生地を売ろうとしないのか。いい服を作って売るのに、人がいいとか悪いとか、そんなのが関係あると言うのか。などと考えたが、すぐに無駄な行為だと悟った。
「おじさんがそこまで言うならもうここには来ないよ。これまで随分世話になったけど、それも今日までって訳だ。元気でね、おじさん」
「先に忠告しておくが、他の店を当たろうとしても無駄だぞ」
立ち去ろうとした俺の背をおじさんの言葉が突き刺した。思わず振り返る。
「それはどういう……」
「言うまでもない。ちょっと考えれば分かることだ」
言われて考えを巡らせる。
店を始めた頃はあちこちの呉服屋に出入りしていた。皆気持ちよく接してくれたし、上質の生地を売ってもくれた。だが、店が軌道に乗るにつれ、また俺の評判が広まるにつれて入店を断られることが多くなった。中には明らかに俺を避けていると分かる態度を見せる店主も現れ、最終的に付き合いを続けてくれたのはここ、グラーブ呉服店だけとなっていた。
「そっか。おじさんだけだったな。俺に生地を売ってくれてたのは」
「そう言うことだ。この街ではもはや生地を買うことは出来ない。生地を買えなければ服も作れない。仕立屋を続けたければ……」
「街を出て行くしかない」
「物わかりがよくて助かる。それが皆の、呉服屋組合の出した答えだ」
「なるほど。まぁ、贔屓にしてくれてる女性たちには申し訳ないけど、それがこの街のやり方なら仕方がない。潔く出て行くよ」
「フン。減らず口が。お前が出て行けば、彼女たちだって目が覚めるだろうよ」
「そうかな? また今まで通り、家事や家庭に縛られる日々にうんざりするだけだと思うな」
まだ何か言いたげなおじさんに背を向けると、左手を挙げて形だけのさよならをして店を出た。扉の閉まる音が、いつもよりも重く感じた。
店に戻り、「本日の営業は終了しました」と書かれたプレートを表にかける。このプレートが「営業中」になることは、当分の間ないだろう。
「やれやれ、どうしたものかなぁ」
暗く浮かび上がる店内で、服たちは黙ったままハンガーに掛けられていた。明かりをつけずに、店と扉一枚で繋がった自宅はリビングへと向かう。昼下がりでも窓を閉め切った店内は薄暗い。扉を開けると相変わらずの酷い臭いが鼻を突いた。
店の中は隅々まで綺麗にしているが、一歩自宅圏内に入ると景色は一変する。
掃除されていない床に洗われずに放置された食器。カビの生えたパンや変色しかかったリンゴがテーブルの隅に追いやられている。季節も夏に移り変わろうとしている。そろそろ野良の犬猫か鳥の餌にした方がよさそうだ。
「もっと高貴な身分の生まれだったらなぁ」
そんなぼやきを聞いてくれる友さえいない。「可哀相に」と同情してくれる近所のおばちゃんすらも。
大抵のことには有り余るほどの自信を持っている俺も苦手としていることがある。それが家事だ。料理はもちろんのこと、掃除や片付けはめっぽう苦手。洗濯だけは、いつも身綺麗にしておかなければとの思いから何とかやっているが、本来ならば専門外の仕事。洗濯に時間を割くくらいなら自分の服を作る事を選ぶ。そっちの方がよっぽど楽しい。
ここを訪れる女性たちがこれを目撃したら……。考えただけでもぞっとする。そんなことはプライドが許さない。俺は全てが完璧でなければならないのだ。だから二階の寝室へ行く階段も店の外に備えつけられている。生活臭むんむんのこの場所を知られないように。
変な作りの家だと誰もが言うが、それ以上のことには干渉してこない。なぜなら俺も彼女たちのプライベートに干渉しないからだ。
彼女たちだって家事に追われる日常から離れるために俺のもとを訪れている。非日常を求めるもの同士が共に過ごす場所に生活感のある部屋は必要ない。それがマンネリから解放されるために必要な要素である。
仕立屋であることには何の不満も問題もない。ただ身の回りの世話をしてくれる人がいれば。この汚い部屋にいると嫌でもそう思うのだった。
「でもその前に引っ越しを考えないと!」
突きつけられた現実。それはすぐに解決できそうにみえて結構重い。
今回のことでも分かった通り、職人業は完全分業制のため、ある職人が仕事の依頼を断ると、それだけで自分の商売が成り立たなくなる場合が生じてくる。そしてそれは横の繋がりを大事とする。他の街へ行っても同じことを繰り返せば、端から仲間には入れてもらえず、仕事はすぐになくなってしまうだろう。
「まぁいいさ。何とかなるなる」
深く考えたって仕方がない。考えるよりまず行動が先だ。
そう思い直してまず真っ先にカビの生えたパンを窓の外に放り投げた。
店を構えて五年。引っ越しをするのは初めてだった。中央商店街の中でも好立地であるこの場所を去るのは心苦しいけれど、商売が続けられないんじゃいる意味もない。
引っ越し、とは言っても持ち出すものは限られている。商品とそれを作る材料と道具、最悪金さえあればよかった。
家財道具の類は全て処分していくつもりだ。ここで生活していた痕跡を残したくはなかったし、次の場所に持って行く気もなかった。
ただし持って行く商品の量が想像以上に多いことに気づいたのは、片付け始めた直後だった。
五年間のうちに作った服はもはや数え切れない。売れ残った服も型が古くないものは大事に保存してあるから、それを全て持って行くとなると荷台がいっぱいになってしまう。街を去る時は出来るだけクールに、と考えているだけに、服の山を前にして頭を悩ませるのだった。
「クラウス・ハーシェル殿は在宅しているか?」
引っ越しの準備に大忙しの最中、服の山の向こうからそんな男の声が聞こえた。堂々と俺の名を呼ぶものはそう多くない。珍しいこともあるもんだと、返事をして何とか店の出口に向かう。
「どちら様で?」
「某は王宮より使わされたものである。貴殿がクラウス・ハーシェルその人で間違いないかな?」
「そうですけど。あ、社交界でお召しになる衣装のご注文でしたら、しばらく受け付けを取りやめておりますが」
使い者と称した男の言葉を聞いて、いつもの調子でそう答える。そして内心、注文の依頼であれば最悪のタイミングだと意気消沈する。貴族からもらい受けるこうした話は、大抵の場合相当の金をもらえる上、服の評価が社交界によってたちまち広まるから一石二鳥なのだ。
ところが男は真顔で首を横に振る。
「いや、社交界ではない。かのお方が、もっと大事な場でお召しになる衣装の依頼をしに参ったのだ。今から読み上げるものをよくお聞きなさい」
そう言うと、手に持っていた巻物を広げて読み始める。
「クラウス・ハーシェル殿。右の者に、我がウォーデン城主、ルイーゼ女王陛下の衣装を仕立てる任を命じ、臨時に登用することを認める」
「……俺が? 女王専属の仕立て職人?!」
突然の話に頭が混乱するが、一つだけ思い当たる節があって口にする。
「もしかして、在位五年のお祝いでお召しになる衣装の仕立てを任される、なんて事は……」
「ご明察の通りだ。知っての通り、陛下は身分を問わず実力のある者は誰でも側にお置きになるお人。貴殿においてはその名声が、勿体なくも女王陛下のお耳に入り、登用と相成ったのである」
「なんてこった。天はまだまだ俺を見放していないぜっ!」
あんまりにも夢のようですぐには信じられなかったが、気づいた時には躍り出していた。
女王の衣装を手がけられる。職人としてこれ以上の名誉はなかった。それだけじゃない。うまくいけば、身分を気にしない女王のこと、俺も王族の仲間入りになれるかもしれない。女王は三十八ではあるが独身を貫いている。この際丸ごと手に入れてしまおうじゃないか。
「ふむ。何やら店内の片付けをしているようだが、事前に今日のことを知っていたのではあるまいな?」
使いの男は怪訝な表情でそう言った。舞い上がっていた俺はいったん冷静になって男の問いに答える。
「分かっていたなんてとんでもない! 知らせを受けるまでは別の街に移るために引っ越し準備をしていたんです!」
「引っ越し? はて、フレイヘルトの街一番の仕立屋と聞き及んでいたが、借金でも抱えて街から逃げ出すつもりだったのか?」
「いえいえ、どうやらこの街は、まだ女王様の力の及ばないところが多いようです。古い体勢や仲間意識が強く残っていて、新しい発想や考えについていけない。俺のような者ははみ出し者扱いにされてしまいます」
「結局街にいられなくなったと言う意味では同じことではないか」
「ですが、女王様付きの仕立屋になった以上、街に縛られることもない。迎えに来てくれたんでしょう? 作業に専念できるような場所へ移るために」
「もちろん。支度が出来次第移ってもらうつもりだ。ただし、衣装が出来上がるまでの期間限定……」
「よっしゃあ。最高の衣装を作るぞ!」
ついに俺の時代が来た。そんな気がした。しかも俺の評判は表向きのいい面しか伝わっていないらしい。何とも好都合なことだった。
半分ほど終えていた引っ越しは別の街へ移るためではなく、城への引っ越しに変わった。日を改めてもう一度訪れると言った使いの男を待たせ、本当に必要最低限の品だけを鞄に詰める。この時の俺はもう、手がけた衣装への未練など欠片も感じていなかった。
持っている服の中でも最上級のものをクローゼットの奥から引っ張り出して身に纏う。いつかこんな日が来ることを夢見て作ったもの。それが現実のものとなるなんて。鏡に映る俺の顔は、驚くほどの笑みを浮かべていた。
「お待たせしました。では、参りましょうか」
古ぼけたやや大きめの鞄と煌びやかな服装があまりにも不釣り合いだったが、周りの目などは全く気にならなかった。
俺は国を代表する仕立屋。国が、女王がそれを認めたのだ。それだけで自信が満ち溢れ、むしろ視線を集めることに快感すら覚えるのだった。