余命一年だそうなので、婚約者は義妹に差し上げます!
「余命、一年?」
「はい。クララ、あなたの命は、もって、あと一年です」
苦しそうな医務官を前に、私は静かに座っていた。
余命、一年。
生まれたときから病弱だったから、覚悟はしていた。
そのときが、ついにやってくる――。
「クララ、落ち着いて聞いて下さい。実は……」
「落ち着いてはいられません」
「しかし」
私は立ち上がり、そっと胸に手を当てる。
「やることは山ほどあります。まずは、ロレンツォさまを、セリーナに差し上げないと」
「は……? あなたの婚約者を、義妹君の、セリーナさんに?」
医務官は眼鏡の奥できょとんとしている。
私は真剣にうなずいた。
「ロレンツォさまは随分前から、セリーナと愛し合っているのです」
◆
私、クララ・ローズクリスタルは、伯爵令嬢という身分だ。
伯爵家にも色々あるが、当家は山際に広い領地を有し、ブドウの栽培とワインの製造を行っている。ローズクリスタル印のワインは軽やかながらも味わい深く、国内のみならず、大陸中の食通に愛されている。
ところが、長女である私は生まれつき病弱。
『商才ある婿を取らねば!』と先走った父に選ばれた婚約者は、ロレンツォ・ファレリ。名だたる大商人の三代目だ。
「ロレンツォさま、お話が」
「…………」
「あの……」
聞こえなかったのかしら、と、私は書斎に座る彼の横に回り込む。
婚約者のロレンツォは、黒髪のくせっ毛に緑の瞳。
野性的な容貌で、大層モテる。
私なんかには、もったいない婚約者だ。
彼自身もそう思っているから、私の言うことは基本無視。
普段は仕方なく諦めたり、お手紙を書いたり、使用人に言づてを言いつけたりするのだけれど、今日からはそうはいかない。
何しろ私は、一年後には死んでしまうのだから。
できるかぎりロレンツォに誠実に向き合い、尽くさなくては。
私は彼の視界ぎりぎりにたたずみ、彼が反応してくれるのを待った。
(立ちくらみがするわ……でも、我慢)
私の顔色が死体寸前になったころ、ロレンツォは派手なため息を吐く。
「その話、価値ある話か?」
「価値、ですか」
私は少し考える。
ロレンツォにとっての価値とは、なんだろう。
ロレンツォは色好みで見栄っ張りだ。
彼は私の婚約者になった初日にこう言った。
『ひ弱な妻とは、ろくに夜も楽しめまい。だが、わたしはおまえを責めないよ。他で遊べばいいことだからな』
そうして実際遊び尽くしていたのを、私は知っている。
ロレンツォにとって、浮気相手と正式に結婚できるのは喜びのはず。
私の死は、価値ある話のはずだ。
「おい、いつまで考えている!」
「は、はいっ! 申し訳ございません」
急に怒鳴られ、私は深く頭を下げる。
そうしないと彼の怒りは収まらないのを知っているのだ。
彼は下がった私の頭に向かって、威圧的に怒鳴りまくった。
「おまえは全然わかっていない! 生まれつき頭が空っぽなのだから仕方がないが、少しは学習するふりくらいしたらどうだ!? おまえがそんなふうだから、わたしがこの家に尽くしているというのに……どうしてわたしの貴重な時間を、おまえの愚かな話で浪費しようとする? それがどれだけの損失を生むと思う? おい、答えろ、今、おまえは、どれだけの損失を出した!!」
「わかりません……」
「は!」
鋭く鼻で笑い、ロレンツォは急激に冷める。
手元の書類に視線を落とし、軽く手を振った。
「下がりなさい。無駄話は聞かない」
今までなら、絶対にここで引き下がった。
でも。
「ロレンツォさま、私、死ぬのです」
「あ?」
私の告白に、ロレンツォが片眉を上げる。
私は続ける。
「余命一年だそうなので、私との婚約は解消いたしましょう」
「また、何を頭の悪い嘘を……」
「ロレンツォさまには、是非、義妹のセリーナと一緒になっていただきたいのです」
「セリーナ? なぜセリーナだ」
「おふたりが、心も体も愛し合っておられるからです」
私は言った。
義妹のセリーナとロレンツォが密会しているのは、以前から知っていた。
セリーナ自身が散々自慢してきたからだ。
『ロレンツォさまって、会いたいときは秘密の手紙をくださるわよね?』
『あら、お義姉さまには送らないの』
『なら教えてあげる。その日一番美しい花が咲いた木の枝に、結びつけてくださるの』
なるほど、そんなことが……と思って、その日からなんとなく花を気にするようになった。病弱なせいで屋敷からあまり出られない私は、庭の木に詳しい。
観察していると、ロレンツォからセリーナ宛の手紙を見つけるのは簡単だった。
たまにセリーナが回収しそこなったものもあり、そういうものはほどいて保管している。捨てても誰かが見るかもしれないし、つけたままでは木の発育に悪いからだ。
「教会には、ロレンツォさまからセリーナへの手紙を渡してあります。真実の愛が認められれば、婚約破棄は今からでも可能のはず。ご検討くださいませ」
「……何を言っているんだ、おまえは。手紙? そんなものが、どこに……」
ロレンツォの顔色が少し悪くなる。
私はロレンツォを困らせているのだろうか?
彼を困らせたいとは思っていない。
私はただ、心配なのだ。
私が死んだあとの、この家が。
私は続ける。
「ただ、セリーナは計算ができません。新しい事業からは外したほうが安全です」
「計算ができないだと? 誹謗中傷はやめろ! 彼女のあげてくる書類は正確無比だ!」
「改ざんしている者がいるからです。セリーナの恋人でしょう。あなた以外の」
「セリーナの、恋、人……?」
ロレンツォはつぶやき、固まってしまった。
少し心配だったが、私は深くお辞儀をして書斎から出る。
何せ余命一年。
まだまだやることが目白押しなのだ。
◆
「あら、義姉さま! 今日は出歩けるんですの?」
屋敷から少し離れた、感じのいい農家。
そこを改造して作られた執務室に入って行くと、セリーナは目を丸くした。
金髪巻き毛を肩に垂らし、色っぽくふくらんだ体をぎちぎちのドレスに押し込めた姿は、いかにも扇情的だ。
「今日は体調がいいのです。おそらく、あなたが寄越したメイドのモリーに暇を出したからだと思います」
「はぁ? どういうことですの? なんでモリーに、あなたが暇を!?」
きゅうっと眉毛をつり上げ、セリーナが立ち上がる。
彼女は少し追い詰められると、すぐに爆発してしまう。
私にはさんざんものを投げつけたあげくに、大泣きしてロレンツォや義母にすがりつくのがいつものやり口だ。
私の病弱な体は、彼女の爆発を受け止めるだけで疲れ果てる。
だから普段は口を閉ざしてきた。
が、今は逃げてはいられない。
私は軽く深呼吸して、一気に言った。
「モリーが私の薬を隠していたからです」
「薬を、隠す? どこにそんな証拠が……」
「モリーが私のお手伝いに来る日は、決まって体調が悪くなりました。いただいている粉薬の味も少し違ったので、彼女の行動を観察していたのです」
「粉薬の味なんて、そんなものがわかりますの!?」
「毎日飲んでおりますので。モリーはいつも大きなポケットのあるエプロンをつけ、私に背を向けて薬の用意をし、部屋の隅、暖炉の前に立っていました。彼女が帰ったあとに暖炉の灰をかき分けますと、粉薬の袋がいくつも見つかりました」
「まさか、それを飲んだわけじゃないですわよね!?」
「飲みました、命に関わるので」
私が言うと、セリーナは少し青い顔をして私を見ていた。
きっと呆れているのだろう。
私だって、瀕死で床を這い回り、灰まみれになって粉薬を探している自分を見たら、ぞっとするし呆れる。
余命一年でなかったら、こんなこと、言いはしなかった。
私は目を伏せて続ける。
「他に問題がないようでしたら黙っていようとも思ったのですが、私、余命一年なので」
「余命一年……えっ、本当に!?」
「はい。私の死後にモリーが他で悪さをしたら大変です。市警に委ねておきました」
「市警!? 外のひとに言ったってこと!?」
「そうなりますね」
私の返事に、セリーナは今度こそ真っ青になった。
「そんな……なんでそんなに勝手なことをしたの!?」
「許可が必要でしたよね。ごめんなさい……つい、気が急いてしまって」
「っ、い、今からでもっ、市警に私が話をしてきます!」
セリーナはやけに慌てて荷物をまとめ始める。
こんなに動揺されるとは思わなかったので、私は少し恐縮して言った。
「それが、もう、モリーの部屋と実家の捜査まで終わってしまっていて」
「はあ!?」
「彼女、私やあなたの宝石もいくつか持ち出していたようです」
「わ、私の宝石までっ!?」
「根っからの盗癖があるようでした。あとは、市警に委ねましょう」
私が言うと、セリーナは呆然として動かなくなった。
これ以上は話さないほうがいいかもしれないが、何せ私は余命一年だ。
ためらっている暇はない。
私は勇気を振り絞り、おそるおそる切り出す。
「それと、本題なのですけれど」
「……まだあるの?」
「はい。ロレンツォさまとあなたが進めている、別館建設計画です」
私は抱えてきた分厚い書類を、セリーナの執務机に置く。
「ロレンツォさまは、お金を取ってたくさんのお客さまを泊める別館を作り、それで伯爵家を盛り上げようとなさっています。が、おふたりの計画は予算が膨らみ続けており、このままでは百年経っても資金が回収できません。それ以前に破産です」
「お義姉さま……常々思っていたのだけれど……」
「はい?」
「頭が、悪いわよね」
セリーナはきっぱり言い切り、すっくと立ち上がった。
目の前の資料はぺらぺらやっただけで、元気に喋り始める。
「この計画はね、そういう細々した数字の話じゃないのよ! 私たちは夢を持っていて、夢を売るの。楽しそうにしているところにお金は集まる。みすぼらしいただの貴族の館に、ひとが集まるかしら?」
「そうですね……やりようだと思います」
「馬鹿馬鹿しいっ! 駄目よ! 駄目駄目駄目! 立派な別館を建てて、家具も、寝具も、使用人も、最高のものを揃えるの! ロレンツォさまはわかっていらっしゃるわ!」
「ですが数字が」
私がおずおずと食い下がると、セリーナが部屋の隅に声をかけた。
「ジュリアン!!」
「はい、セリーナさま」
「このゴミの駄目なところを教えて」
セリーナは、私の資料を、顎までの金髪の気弱そうな美男子に投げつけた。
ジュリアンと呼ばれた彼は、私の資料を何枚かめくってから言う。
「こちらは、今回の別館建設計画の、正確な試算です」
「正確な?」
「え、あ、はぁ……その……ひ、悲観的な試算ですかね」
「ふん。根暗の寝言ね」
セリーナは鼻を鳴らす。
私はぐっと唇を噛みしめ、一歩前へ踏み出した。
「ジュリアンに、その先も見てもらってください。そこには、事業規模を実現可能なところまで小さくした試算も載せました。これなら現実味があります」
「どうして? どうしてあなたにそんな指図をされなきゃならないの!?」
「指図ではありません。ただ、私は余命一年ですから。あなたとロレンツォさまに一緒になっていただいて、この伯爵家を盛り上げてほしいんです」
「――……正気?」
セリーナが、愕然とした顔で私を見る。
私はもちろん、正気だ。
「はい。とはいえ、ロレンツォさまもあなたも、数字は読めていません」
「は!? 何をいきなり……」
「実務として数字を処理してきたのは、そこのジュリアンですね」
「あなたに、ジュリアンの何がわかるの!? ジュリアンはね!!」
「セリーナ、あなたの愛人その二ですよね」
「なっ……!!」
セリーナは目を白黒させ、急にギリっとジュリアンを睨みあげた。
「あんた、こいつに何か言ったの!?」
「っ………………申し訳ございません!!」
ジュリアンは、その場にがばっと土下座をした。
「セリーナさまの要求と、現実の数字が、どうしても折り合わず……! 眠れなくなって医務官のところを訪れ、クララさまと出会い……」
「嘘っ、そこで浮気したってこと!?」
セリーナの叫びに、私は突っ込む。
「いえ、その体力は、私にはないので……。ジュリアンの数字を見てあげただけです」
「何それ……何それ何それ何それ! それじゃあ、あなたは、私には数字が読めないって言うつもり!?」
「先ほどそう言いました」
「侮辱よ!!」
「事実です」
私が言うと、セリーナは顔を真っ赤にして立ち尽くした。
もうやめたいな、と思ったが、ここは私の頑張りどころだ。
未来のために、もう少しだけ。
「ジュリアンは数字がわかります。私の計画書をもとに、ジュリアンに実務を任せてやり直してください。そうすればきっと、どうにか――」
「言いつけてやる!」
「はい……?」
「お母さまに、あなたの所業、すべて言いつけますから!! 首を洗って待っていらっしゃい!!」
セリーナは怒鳴り散らし、そのままずかずかと執務室を出て行った。
残された私とジュリアンは、ふたりして遠い目になる。
やがて、ジュリアンが私を見て言う。
「……なんだか、すみません」
「いえ、こちらこそ、すみません」
謝罪しあう私たち。
セリーナはこれから、どうするのだろう。
義母にあらいざらいを言いつけたとして、何か好転するだろうか。
私はただ、セリーナにしあわせになってほしいのだ。
◆
「それで? あなたはまた、セリーナのことを虐めたの?」
「また、そういうことになっているのですか……」
そうだと思いました、と、私は達観した顔をしてつぶやく。
ここは屋敷のサンルーム。
いるのは、義母のマーガレットと私だけ。
義母のマーガレットはいかにも優しそうな中年の美女だ。
若作りすぎるドレスだけが玉に瑕だが、本人に言うと雷が落ちるので、誰もが口をつぐんでいる。早くに亡くなった私の母のあとに、健康さと野心を武器に後妻となったひとだった。
私はひたすらに頭を低くして言った。
「私としては、伯爵家に栄えてほしいだけなのです。実は余命があと一年でして」
「あら、そうなの。それは不幸ね。でも、人間いつかは死ぬものですから」
ほほ、と笑って見せるマーガレットは、さすがの貫禄だ。
生家不明ながらも、親切な老伯爵の養子になって伯爵令嬢となり、我が家にやってきたえだけある。
マーガレットは言う。
「これまでは、私たちもあなたを立ててきました。伯爵もそれを望んでおられましたしね。ですが――そう、あなたには、色々と欠点もありましたね。まずは、朝寝坊だし」
それは、そうだ。
薬が効かない朝は、起きていてもベッドから這い出せない。
「好き嫌いも多いし」
胃が弱っていると、脂っこいものは食べられない。
野菜スープばかり飲んでいたのを好き嫌いというなら、その通り。
「ロレンツォさまのお相手も、ろくにできない」
出会ったその日に、毎日交わりたいと言われた。
それに付き合ったら即死します、とお伝えしたのは、本当に申し訳なかった。
「私とセリーナは、あなたの欠点を補おうと、ここまで心配りをしてまいりました。でも、それがあと一年で終わるのね。やっと」
深いため息を吐いてみせるマーガレット。
私は、深く頷いた。
「そのとおりです。この一年で、すべてをセリーナに任せたいのです」
「ならばどうして、セリーナを虐めるの?」
「虐めてはおりません」
「嘘おっしゃい」
にこ、と、マーガレットは笑う。
その笑顔の迫力たるや!
私はびくっと震えて固まった。
そんな私に向かって、マーガレットは棘のある言葉を並べる。
「あの子のメイドを辞めさせたでしょう?」
「やむを得なく――泥棒でしたので」
「泥棒のどこがいけませんの?」
「え」
びっくりして見ると、マーガレットの目は冷たく光っている。
「メイドになるような貧乏女、隙を見せれば悪事を働くのは当然。それを上手く使うのが、主たる者でしょう?」
「なるほど……」
「それと、セリーナとジュリアンが付き合っているのもバラしたそうね」
「バラしたというか、偶然知ってしまいまして」
「婚前のお付き合いなど、経験豊富なほうがよいのです。処女のほうが馬鹿をやる」
「それもまあ、そうかもしれません」
「さらに、セリーナとロレンツォの情事を教会に通報したとか」
「あれは通報ではなく、再度の婚約が上手く行くように手配しただけでして……」
私の言い分に、マーガレットの目は再び光る。
「あなた。私が思ったより、なかなかに性格が悪いようね」
「そ、そうでしょうか。すみません」
私は深く頭を下げたのち、顔を上げてせっせと続ける。
「あの。思ったより性格が悪かったのは申し訳ないのですが、あと少しだけ我慢してもらえませんか? 別館建設計画の見直しを、セリーナにも勧めてほしいのです!」
「いけません。あの子の夢の計画ですよ?」
「でも、破綻しますよ?」
「今はしていないのでしょう? ロレンツォさまがどうにかします」
「でも、すでに、お義母さまのお持ちだった、街中の小さな家も売られていまして」
「………………なんですって?」
さっ、と、マーガレットの顔色が青くなる。
あれ、と思い、私はおそるおそる聞いた。
「あの、昔貧民街だった場所の小屋です。今は周りが段々綺麗になっていて、高く売れたので……別館建設計画の資金にされているんです」
「な、な、なななな……!!」
「ひょっとして……思い出の場所だったり、しましたか?」
なんとなく、そんな予感はしたのだ。
あそこだけは、手をつけないほうがいいような……。
でも、セリーナもロレンツォも、他人の気持ちを気にするほうではない。
マーガレットは真っ青になって震えていたが、やがて猛然と部屋を出て行こうとした。
「セリーナ! セリーナはどこ!? 計算のできないあばずれ!! また男と遊んでいるの? 出ていらっしゃい!! よくもあたしの大事な家を! 殺してやる!!」
「ま、待ってください、殺すのは駄目です、殺すのは!」
さすがにそれはまずい。
私はそんなことを望んではいないのだ。
重い体にむち打って、私はマーガレットにかじりついた。
そんな私を、マーガレットは振りほどこうとする。
「寄るな、ガリガリ女!! そうやっていつもお高くとまって、あたしたちのことをずっと馬鹿にしてきたんだろう!?」
「痛っ、そんなことは、欠片もっ」
あっけなく振り払われ、私は床に這った。
倒れてしまうと、もう二度と起き上がれないような気がする。
息は乱れ、頭はふらつき、体の芯には熱がこもっている。
でも、それでも、今は寝ていては駄目。
私は、一年後に死ぬのだ。
生きている今は、一秒も無駄にはできない。
私はマーガレットの足にかじりつく。
「お義母さま……!」
「気色悪い! 放しな!! あたしには全部わかってるんだからね……余命一年、よかったじゃあないか! とっとと死んで退場しな!!」
「します、退場しますから、どうか……どうか、この家を、お父さまを、大事な領民を……」
「知るか! みんな、あたしたちの養分になりゃあいいんだよ!!」
振り回されていると、目の前がぐるぐる回り始めた。
もうだめだ、という気持ちと、まだだめだ、という気持ちが入り交じる。
幼いころから、私はこの家が好きだった。
古いけれども、とっても眺めがいいのだ。
丘の上の古い館。
初夏になれば、ブドウの花の爽やかな香りが漂う。
昔からの使用人はいいひとばかりで、ワイナリーのひとたちも、いいひとだ。
もぎたてのブドウのみずみずしさ。
ワインになる前の、ブドウジュースの美味しさ。
近くの町に引っ越してきた有名な学者一家も、うちのワイナリーの常連だった。
その一家の息子は大人しくて、でも、とても頭がよくて。
私たちはよく、涼しい日陰で話をした。
最近読んで面白かった本とか、今年のブドウジュースの味とかについて。
それだけ賢いなら、王都に行くんでしょう? と、私は聞いた。
少年は、少しだけ、と、言った。
実際彼は少しだけ王都へ行って、医務官になって、また、近くの町に戻ってきた――。
「私がいなくなっても! 医務官のフェリックスさまに、ワインを……うちの、変わらない味の、ワインを届けてほしいんです!!」
「はあ? 誰だい、そいつは」
私の必死の叫びを、マーガレットは一蹴する。
そのとき。
「フェリックスは、ここにいるぞ」
静かに、低い声がした。
私とマーガレットは、はっとして声のほうを見る。
そこにいたのは、漆黒のマントと重厚な貴族服を着こなした、私の父だった。
その傍らには、医務官のフェリックスも付き添っている。
私は呆然としたのち、希望に顔を輝かせる。
「お父さま! 治療院を、退院なさったのですね」
「ああ。このフェリックスのおかげでな」
父の重たい視線を受けて、フェリックスは深く頭を下げる。
父は、仕事で訪れた僻地で病気にかかり、長く自宅療養していた。
けれど少しもよくならないということで、フェリックスの治療院へ転院していたのだ。
マーガレットは青ざめていたが、すぐに気を取り直して優しく笑う。
「お帰りなさいませ、伯爵さま。お待ちしておりましたわ!」
「信じられんな」
「はい……?」
曖昧に微笑む彼女に、父は告げる。
「さっきの発言は聞かせてもらった。教会からも、市警からも、様々な報告を受けている。それと、この医務官からもな」
「医務官からの報告? あら、どんなものでしょう?」
聞き返しながら、マーガレットの視線は辺りをうろついている。
父はそれを真っ向から見つめて、断ち切るように告げた。
「わたしの体内から、毒が検出された」
「は………………」
マーガレットの目が、まん丸くなっていく。
私は、きゅっと胸の真ん中が縮むような気がした。
凍り付いた空気の中で、父は言う。
「おまえからは、のちほど王立裁判所で、正式に話を聞こうではないか」
◆
――さて。
それから一年が過ぎた。
私がどうなったかというと――まだ、生きてローズクリスタル家にいる。
季節は秋。
実りの季節。
ブドウ畑はすっかり紅葉し、屋敷から見える景色は黄金色に変わった。
私は、屋敷の横の小さな旧館の、中庭にいる。
いくつか並んだ円卓には、それぞれお客がいて、楽しそうに食事をしている。
私の前にも、透き通った黄金色のスープがあった。
「うん、美味しい」
スープを一口飲むと、深みのある野菜と肉の出汁がじゅわりと体に染みこんでいく。丁寧に処理された野菜たちの甘さと香ばしさが鼻孔をくすぐり、喉もお腹も喜んでいる気がした。
嬉しくなって前を見ると、眼鏡の大人しそうな青年が歓声を上げている。
「これは美味しい……! 美しく澄んでいるのに、栄養満点の味がしますね。美味しすぎる薬みたいなスープです」
彼は、医務官のフェリックスだ。
私の父の恩人で、私の恩人でもある。
フェリックスは私を見ると、少しばかり頬を赤らめた。
「すみません。なんでも薬に喩えるの、医務官の悪い癖だな」
「いいえ、そういうところが、フェリックスさまのいいところかと」
「そうだといいんですが」
フェリックスは案外長いまつげを伏せて、小さく笑う。
父が帰ってきてからは、怒濤の日々だった。
マーガレットは毒殺の罪で断罪され、セリーナは横領で、モリーは窃盗で裁かれた。
ロレンツォは浮気によって教会から破門されてしまい、広く噂が流れた。
過去の恋愛関係も掘り返されて、今はあちこちから命を狙われているらしい。
当然ながら、別館建築計画は頓挫。
彼ら、彼女らは、みんな城から姿を消した。
私の病気は、フェリックスがずっと研究していたという新薬が奇跡的に効いた。
今は、一生のうちで一番健康だ。
おかげで、新事業もはかどっている。
「それにしても、夢みたいですね」
私は辺りを見渡す。
ロレンツォの別館建設計画の代わりに実現した、私の事業。
小さな小さな旧館改築計画。
ほとんど使われていなかった旧館を最低限直して、毎日数組だけのお客を迎える、料理自慢の宿泊施設は、びっくりするほど上手くいっている。
フェリックスはにこにこと言う。
「王都でも評判ですよ。最高のワイナリーで、最高のワインと食事を楽しめる宿だ、と」
「お土産にワインも売れるし、ワイナリーの評判もますます上がって、びっくりです」
「クララさんのお手柄です」
「まさか。私は何も……」
私は何もできない、と言おうとして、私は少しためらう。
余命一年だと聞くまでは、そうやって引っ込んで生きてきた。
でも――そのせいで、色々な不幸を生んでしまったのかもしれない。
私は改めて、フェリックスを見つめる。
「私ひとりでは、何もできませんでした。今は、違います」
フェリックスは少し目を瞠ったのち、蕩けるように笑った。
同時に、私の心も、蕩けるように甘くなる。
もうすぐ、ワインの新酒ができる。
まだ若いワインだけれど、いずれは美味しく熟成することだろう。
私の……私たちの人生も、多分、同じだ。
END




