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余命一年だそうなので、婚約者は義妹に差し上げます!

作者: 栗原ちひろ
掲載日:2026/09/11

「余命、一年?」

「はい。クララ、あなたの命は、もって、あと一年です」


 苦しそうな医務官を前に、私は静かに座っていた。

 余命、一年。

 生まれたときから病弱だったから、覚悟はしていた。

 そのときが、ついにやってくる――。


「クララ、落ち着いて聞いて下さい。実は……」

「落ち着いてはいられません」

「しかし」


 私は立ち上がり、そっと胸に手を当てる。


「やることは山ほどあります。まずは、ロレンツォさまを、セリーナに差し上げないと」

「は……? あなたの婚約者を、義妹君の、セリーナさんに?」


 医務官は眼鏡の奥できょとんとしている。

 私は真剣にうなずいた。


「ロレンツォさまは随分前から、セリーナと愛し合っているのです」



 私、クララ・ローズクリスタルは、伯爵令嬢という身分だ。

 伯爵家にも色々あるが、当家は山際に広い領地を有し、ブドウの栽培とワインの製造を行っている。ローズクリスタル印のワインは軽やかながらも味わい深く、国内のみならず、大陸中の食通に愛されている。


 ところが、長女である私は生まれつき病弱。

 

『商才ある婿を取らねば!』と先走った父に選ばれた婚約者は、ロレンツォ・ファレリ。名だたる大商人の三代目だ。


「ロレンツォさま、お話が」

「…………」

「あの……」


 聞こえなかったのかしら、と、私は書斎に座る彼の横に回り込む。

 婚約者のロレンツォは、黒髪のくせっ毛に緑の瞳。

 野性的な容貌で、大層モテる。

 私なんかには、もったいない婚約者だ。


 彼自身もそう思っているから、私の言うことは基本無視。

 

 普段は仕方なく諦めたり、お手紙を書いたり、使用人に言づてを言いつけたりするのだけれど、今日からはそうはいかない。


 何しろ私は、一年後には死んでしまうのだから。

 できるかぎりロレンツォに誠実に向き合い、尽くさなくては。


 私は彼の視界ぎりぎりにたたずみ、彼が反応してくれるのを待った。


(立ちくらみがするわ……でも、我慢)


 私の顔色が死体寸前になったころ、ロレンツォは派手なため息を吐く。


「その話、価値ある話か?」

「価値、ですか」


 私は少し考える。

 ロレンツォにとっての価値とは、なんだろう。


 ロレンツォは色好みで見栄っ張りだ。

 彼は私の婚約者になった初日にこう言った。


『ひ弱な妻とは、ろくに夜も楽しめまい。だが、わたしはおまえを責めないよ。他で遊べばいいことだからな』


 そうして実際遊び尽くしていたのを、私は知っている。

 ロレンツォにとって、浮気相手と正式に結婚できるのは喜びのはず。

 私の死は、価値ある話のはずだ。


「おい、いつまで考えている!」

「は、はいっ! 申し訳ございません」


 急に怒鳴られ、私は深く頭を下げる。

 そうしないと彼の怒りは収まらないのを知っているのだ。


 彼は下がった私の頭に向かって、威圧的に怒鳴りまくった。


「おまえは全然わかっていない! 生まれつき頭が空っぽなのだから仕方がないが、少しは学習するふりくらいしたらどうだ!? おまえがそんなふうだから、わたしがこの家に尽くしているというのに……どうしてわたしの貴重な時間を、おまえの愚かな話で浪費しようとする? それがどれだけの損失を生むと思う? おい、答えろ、今、おまえは、どれだけの損失を出した!!」

「わかりません……」

「は!」


 鋭く鼻で笑い、ロレンツォは急激に冷める。

 手元の書類に視線を落とし、軽く手を振った。


「下がりなさい。無駄話は聞かない」


 今までなら、絶対にここで引き下がった。

 でも。


「ロレンツォさま、私、死ぬのです」

「あ?」


 私の告白に、ロレンツォが片眉を上げる。

 私は続ける。


「余命一年だそうなので、私との婚約は解消いたしましょう」

「また、何を頭の悪い嘘を……」

「ロレンツォさまには、是非、義妹のセリーナと一緒になっていただきたいのです」

「セリーナ? なぜセリーナだ」

「おふたりが、心も体も愛し合っておられるからです」


 私は言った。

 義妹のセリーナとロレンツォが密会しているのは、以前から知っていた。

 セリーナ自身が散々自慢してきたからだ。


『ロレンツォさまって、会いたいときは秘密の手紙をくださるわよね?』

『あら、お義姉さまには送らないの』

『なら教えてあげる。その日一番美しい花が咲いた木の枝に、結びつけてくださるの』


 なるほど、そんなことが……と思って、その日からなんとなく花を気にするようになった。病弱なせいで屋敷からあまり出られない私は、庭の木に詳しい。

 観察していると、ロレンツォからセリーナ宛の手紙を見つけるのは簡単だった。

 たまにセリーナが回収しそこなったものもあり、そういうものはほどいて保管している。捨てても誰かが見るかもしれないし、つけたままでは木の発育に悪いからだ。


「教会には、ロレンツォさまからセリーナへの手紙を渡してあります。真実の愛が認められれば、婚約破棄は今からでも可能のはず。ご検討くださいませ」

「……何を言っているんだ、おまえは。手紙? そんなものが、どこに……」


 ロレンツォの顔色が少し悪くなる。

 私はロレンツォを困らせているのだろうか?

 彼を困らせたいとは思っていない。


 私はただ、心配なのだ。

 私が死んだあとの、この家が。

 私は続ける。


「ただ、セリーナは計算ができません。新しい事業からは外したほうが安全です」

「計算ができないだと? 誹謗中傷はやめろ! 彼女のあげてくる書類は正確無比だ!」

「改ざんしている者がいるからです。セリーナの恋人でしょう。あなた以外の」

「セリーナの、恋、人……?」


 ロレンツォはつぶやき、固まってしまった。

 少し心配だったが、私は深くお辞儀をして書斎から出る。

 何せ余命一年。

 まだまだやることが目白押しなのだ。



「あら、義姉さま! 今日は出歩けるんですの?」


 屋敷から少し離れた、感じのいい農家。

 そこを改造して作られた執務室に入って行くと、セリーナは目を丸くした。

 金髪巻き毛を肩に垂らし、色っぽくふくらんだ体をぎちぎちのドレスに押し込めた姿は、いかにも扇情的だ。


「今日は体調がいいのです。おそらく、あなたが寄越したメイドのモリーに暇を出したからだと思います」

「はぁ? どういうことですの? なんでモリーに、あなたが暇を!?」


 きゅうっと眉毛をつり上げ、セリーナが立ち上がる。

 彼女は少し追い詰められると、すぐに爆発してしまう。

 私にはさんざんものを投げつけたあげくに、大泣きしてロレンツォや義母にすがりつくのがいつものやり口だ。


 私の病弱な体は、彼女の爆発を受け止めるだけで疲れ果てる。

 だから普段は口を閉ざしてきた。

 が、今は逃げてはいられない。


 私は軽く深呼吸して、一気に言った。


「モリーが私の薬を隠していたからです」

「薬を、隠す? どこにそんな証拠が……」

「モリーが私のお手伝いに来る日は、決まって体調が悪くなりました。いただいている粉薬の味も少し違ったので、彼女の行動を観察していたのです」

「粉薬の味なんて、そんなものがわかりますの!?」

「毎日飲んでおりますので。モリーはいつも大きなポケットのあるエプロンをつけ、私に背を向けて薬の用意をし、部屋の隅、暖炉の前に立っていました。彼女が帰ったあとに暖炉の灰をかき分けますと、粉薬の袋がいくつも見つかりました」

「まさか、それを飲んだわけじゃないですわよね!?」

「飲みました、命に関わるので」


 私が言うと、セリーナは少し青い顔をして私を見ていた。

 きっと呆れているのだろう。

 私だって、瀕死で床を這い回り、灰まみれになって粉薬を探している自分を見たら、ぞっとするし呆れる。


 余命一年でなかったら、こんなこと、言いはしなかった。

 私は目を伏せて続ける。


「他に問題がないようでしたら黙っていようとも思ったのですが、私、余命一年なので」

「余命一年……えっ、本当に!?」

「はい。私の死後にモリーが他で悪さをしたら大変です。市警に委ねておきました」

「市警!? 外のひとに言ったってこと!?」

「そうなりますね」


 私の返事に、セリーナは今度こそ真っ青になった。


「そんな……なんでそんなに勝手なことをしたの!?」

「許可が必要でしたよね。ごめんなさい……つい、気が急いてしまって」

「っ、い、今からでもっ、市警に私が話をしてきます!」


 セリーナはやけに慌てて荷物をまとめ始める。

 こんなに動揺されるとは思わなかったので、私は少し恐縮して言った。


「それが、もう、モリーの部屋と実家の捜査まで終わってしまっていて」

「はあ!?」

「彼女、私やあなたの宝石もいくつか持ち出していたようです」

「わ、私の宝石までっ!?」

「根っからの盗癖があるようでした。あとは、市警に委ねましょう」


 私が言うと、セリーナは呆然として動かなくなった。

 これ以上は話さないほうがいいかもしれないが、何せ私は余命一年だ。

 ためらっている暇はない。

 私は勇気を振り絞り、おそるおそる切り出す。


「それと、本題なのですけれど」

「……まだあるの?」

「はい。ロレンツォさまとあなたが進めている、別館建設計画です」


 私は抱えてきた分厚い書類を、セリーナの執務机に置く。


「ロレンツォさまは、お金を取ってたくさんのお客さまを泊める別館を作り、それで伯爵家を盛り上げようとなさっています。が、おふたりの計画は予算が膨らみ続けており、このままでは百年経っても資金が回収できません。それ以前に破産です」

「お義姉さま……常々思っていたのだけれど……」

「はい?」

「頭が、悪いわよね」


 セリーナはきっぱり言い切り、すっくと立ち上がった。

 目の前の資料はぺらぺらやっただけで、元気に喋り始める。


「この計画はね、そういう細々した数字の話じゃないのよ! 私たちは夢を持っていて、夢を売るの。楽しそうにしているところにお金は集まる。みすぼらしいただの貴族の館に、ひとが集まるかしら?」

「そうですね……やりようだと思います」

「馬鹿馬鹿しいっ! 駄目よ! 駄目駄目駄目! 立派な別館を建てて、家具も、寝具も、使用人も、最高のものを揃えるの! ロレンツォさまはわかっていらっしゃるわ!」

「ですが数字が」


 私がおずおずと食い下がると、セリーナが部屋の隅に声をかけた。


「ジュリアン!!」

「はい、セリーナさま」

「このゴミの駄目なところを教えて」


 セリーナは、私の資料を、顎までの金髪の気弱そうな美男子に投げつけた。

 ジュリアンと呼ばれた彼は、私の資料を何枚かめくってから言う。


「こちらは、今回の別館建設計画の、正確な試算です」

「正確な?」

「え、あ、はぁ……その……ひ、悲観的な試算ですかね」

「ふん。根暗の寝言ね」


 セリーナは鼻を鳴らす。

 私はぐっと唇を噛みしめ、一歩前へ踏み出した。


「ジュリアンに、その先も見てもらってください。そこには、事業規模を実現可能なところまで小さくした試算も載せました。これなら現実味があります」

「どうして? どうしてあなたにそんな指図をされなきゃならないの!?」

「指図ではありません。ただ、私は余命一年ですから。あなたとロレンツォさまに一緒になっていただいて、この伯爵家を盛り上げてほしいんです」

「――……正気?」


 セリーナが、愕然とした顔で私を見る。

 私はもちろん、正気だ。


「はい。とはいえ、ロレンツォさまもあなたも、数字は読めていません」

「は!? 何をいきなり……」

「実務として数字を処理してきたのは、そこのジュリアンですね」

「あなたに、ジュリアンの何がわかるの!? ジュリアンはね!!」

「セリーナ、あなたの愛人その二ですよね」

「なっ……!!」


 セリーナは目を白黒させ、急にギリっとジュリアンを睨みあげた。


「あんた、こいつに何か言ったの!?」

「っ………………申し訳ございません!!」


 ジュリアンは、その場にがばっと土下座をした。


「セリーナさまの要求と、現実の数字が、どうしても折り合わず……! 眠れなくなって医務官のところを訪れ、クララさまと出会い……」

「嘘っ、そこで浮気したってこと!?」


 セリーナの叫びに、私は突っ込む。


「いえ、その体力は、私にはないので……。ジュリアンの数字を見てあげただけです」

「何それ……何それ何それ何それ! それじゃあ、あなたは、私には数字が読めないって言うつもり!?」

「先ほどそう言いました」

「侮辱よ!!」

「事実です」


 私が言うと、セリーナは顔を真っ赤にして立ち尽くした。

 もうやめたいな、と思ったが、ここは私の頑張りどころだ。

 未来のために、もう少しだけ。


「ジュリアンは数字がわかります。私の計画書をもとに、ジュリアンに実務を任せてやり直してください。そうすればきっと、どうにか――」

「言いつけてやる!」

「はい……?」

「お母さまに、あなたの所業、すべて言いつけますから!! 首を洗って待っていらっしゃい!!」


 セリーナは怒鳴り散らし、そのままずかずかと執務室を出て行った。

 残された私とジュリアンは、ふたりして遠い目になる。

 やがて、ジュリアンが私を見て言う。


「……なんだか、すみません」

「いえ、こちらこそ、すみません」


 謝罪しあう私たち。

 セリーナはこれから、どうするのだろう。

 義母にあらいざらいを言いつけたとして、何か好転するだろうか。


 私はただ、セリーナにしあわせになってほしいのだ。



「それで? あなたはまた、セリーナのことを虐めたの?」

「また、そういうことになっているのですか……」


 そうだと思いました、と、私は達観した顔をしてつぶやく。

 ここは屋敷のサンルーム。

 いるのは、義母のマーガレットと私だけ。


 義母のマーガレットはいかにも優しそうな中年の美女だ。

 若作りすぎるドレスだけが玉に瑕だが、本人に言うと雷が落ちるので、誰もが口をつぐんでいる。早くに亡くなった私の母のあとに、健康さと野心を武器に後妻となったひとだった。


 私はひたすらに頭を低くして言った。


「私としては、伯爵家に栄えてほしいだけなのです。実は余命があと一年でして」

「あら、そうなの。それは不幸ね。でも、人間いつかは死ぬものですから」


 ほほ、と笑って見せるマーガレットは、さすがの貫禄だ。

 生家不明ながらも、親切な老伯爵の養子になって伯爵令嬢となり、我が家にやってきたえだけある。

 マーガレットは言う。


「これまでは、私たちもあなたを立ててきました。伯爵もそれを望んでおられましたしね。ですが――そう、あなたには、色々と欠点もありましたね。まずは、朝寝坊だし」


 それは、そうだ。

 薬が効かない朝は、起きていてもベッドから這い出せない。


「好き嫌いも多いし」


 胃が弱っていると、脂っこいものは食べられない。

 野菜スープばかり飲んでいたのを好き嫌いというなら、その通り。


「ロレンツォさまのお相手も、ろくにできない」


 出会ったその日に、毎日交わりたいと言われた。

 それに付き合ったら即死します、とお伝えしたのは、本当に申し訳なかった。


「私とセリーナは、あなたの欠点を補おうと、ここまで心配りをしてまいりました。でも、それがあと一年で終わるのね。やっと」


 深いため息を吐いてみせるマーガレット。

 私は、深く頷いた。


「そのとおりです。この一年で、すべてをセリーナに任せたいのです」

「ならばどうして、セリーナを虐めるの?」

「虐めてはおりません」

「嘘おっしゃい」


 にこ、と、マーガレットは笑う。

 その笑顔の迫力たるや!

 私はびくっと震えて固まった。

 そんな私に向かって、マーガレットは棘のある言葉を並べる。


「あの子のメイドを辞めさせたでしょう?」

「やむを得なく――泥棒でしたので」

「泥棒のどこがいけませんの?」

「え」


 びっくりして見ると、マーガレットの目は冷たく光っている。


「メイドになるような貧乏女、隙を見せれば悪事を働くのは当然。それを上手く使うのが、主たる者でしょう?」

「なるほど……」

「それと、セリーナとジュリアンが付き合っているのもバラしたそうね」

「バラしたというか、偶然知ってしまいまして」

「婚前のお付き合いなど、経験豊富なほうがよいのです。処女のほうが馬鹿をやる」

「それもまあ、そうかもしれません」

「さらに、セリーナとロレンツォの情事を教会に通報したとか」

「あれは通報ではなく、再度の婚約が上手く行くように手配しただけでして……」


 私の言い分に、マーガレットの目は再び光る。


「あなた。私が思ったより、なかなかに性格が悪いようね」

「そ、そうでしょうか。すみません」


 私は深く頭を下げたのち、顔を上げてせっせと続ける。


「あの。思ったより性格が悪かったのは申し訳ないのですが、あと少しだけ我慢してもらえませんか? 別館建設計画の見直しを、セリーナにも勧めてほしいのです!」

「いけません。あの子の夢の計画ですよ?」

「でも、破綻しますよ?」

「今はしていないのでしょう? ロレンツォさまがどうにかします」

「でも、すでに、お義母さまのお持ちだった、街中の小さな家も売られていまして」

「………………なんですって?」


 さっ、と、マーガレットの顔色が青くなる。

 あれ、と思い、私はおそるおそる聞いた。


「あの、昔貧民街だった場所の小屋です。今は周りが段々綺麗になっていて、高く売れたので……別館建設計画の資金にされているんです」

「な、な、なななな……!!」

「ひょっとして……思い出の場所だったり、しましたか?」


 なんとなく、そんな予感はしたのだ。

 あそこだけは、手をつけないほうがいいような……。

 でも、セリーナもロレンツォも、他人の気持ちを気にするほうではない。


 マーガレットは真っ青になって震えていたが、やがて猛然と部屋を出て行こうとした。


「セリーナ! セリーナはどこ!? 計算のできないあばずれ!! また男と遊んでいるの? 出ていらっしゃい!! よくもあたしの大事な家を! 殺してやる!!」

「ま、待ってください、殺すのは駄目です、殺すのは!」


 さすがにそれはまずい。

 私はそんなことを望んではいないのだ。

 重い体にむち打って、私はマーガレットにかじりついた。

 そんな私を、マーガレットは振りほどこうとする。


「寄るな、ガリガリ女!! そうやっていつもお高くとまって、あたしたちのことをずっと馬鹿にしてきたんだろう!?」

「痛っ、そんなことは、欠片もっ」


 あっけなく振り払われ、私は床に這った。

 倒れてしまうと、もう二度と起き上がれないような気がする。

 息は乱れ、頭はふらつき、体の芯には熱がこもっている。


 でも、それでも、今は寝ていては駄目。

 私は、一年後に死ぬのだ。

 生きている今は、一秒も無駄にはできない。


 私はマーガレットの足にかじりつく。


「お義母さま……!」

「気色悪い! 放しな!! あたしには全部わかってるんだからね……余命一年、よかったじゃあないか! とっとと死んで退場しな!!」

「します、退場しますから、どうか……どうか、この家を、お父さまを、大事な領民を……」

「知るか! みんな、あたしたちの養分になりゃあいいんだよ!!」


 振り回されていると、目の前がぐるぐる回り始めた。

 もうだめだ、という気持ちと、まだだめだ、という気持ちが入り交じる。


 幼いころから、私はこの家が好きだった。

 古いけれども、とっても眺めがいいのだ。


 丘の上の古い館。

 初夏になれば、ブドウの花の爽やかな香りが漂う。

 昔からの使用人はいいひとばかりで、ワイナリーのひとたちも、いいひとだ。

 もぎたてのブドウのみずみずしさ。

 ワインになる前の、ブドウジュースの美味しさ。


 近くの町に引っ越してきた有名な学者一家も、うちのワイナリーの常連だった。

 その一家の息子は大人しくて、でも、とても頭がよくて。

 私たちはよく、涼しい日陰で話をした。

 最近読んで面白かった本とか、今年のブドウジュースの味とかについて。


 それだけ賢いなら、王都に行くんでしょう? と、私は聞いた。

 少年は、少しだけ、と、言った。


 実際彼は少しだけ王都へ行って、医務官になって、また、近くの町に戻ってきた――。


「私がいなくなっても! 医務官のフェリックスさまに、ワインを……うちの、変わらない味の、ワインを届けてほしいんです!!」

「はあ? 誰だい、そいつは」


 私の必死の叫びを、マーガレットは一蹴する。


 そのとき。


「フェリックスは、ここにいるぞ」


 静かに、低い声がした。


 私とマーガレットは、はっとして声のほうを見る。


 そこにいたのは、漆黒のマントと重厚な貴族服を着こなした、私の父だった。

 その傍らには、医務官のフェリックスも付き添っている。


 私は呆然としたのち、希望に顔を輝かせる。


「お父さま! 治療院を、退院なさったのですね」

「ああ。このフェリックスのおかげでな」


 父の重たい視線を受けて、フェリックスは深く頭を下げる。

 父は、仕事で訪れた僻地で病気にかかり、長く自宅療養していた。

 けれど少しもよくならないということで、フェリックスの治療院へ転院していたのだ。

 マーガレットは青ざめていたが、すぐに気を取り直して優しく笑う。


「お帰りなさいませ、伯爵さま。お待ちしておりましたわ!」

「信じられんな」

「はい……?」


 曖昧に微笑む彼女に、父は告げる。


「さっきの発言は聞かせてもらった。教会からも、市警からも、様々な報告を受けている。それと、この医務官からもな」

「医務官からの報告? あら、どんなものでしょう?」


 聞き返しながら、マーガレットの視線は辺りをうろついている。

 父はそれを真っ向から見つめて、断ち切るように告げた。


「わたしの体内から、毒が検出された」

「は………………」


 マーガレットの目が、まん丸くなっていく。

 私は、きゅっと胸の真ん中が縮むような気がした。

 凍り付いた空気の中で、父は言う。


「おまえからは、のちほど王立裁判所で、正式に話を聞こうではないか」

 



 ――さて。

 それから一年が過ぎた。


 私がどうなったかというと――まだ、生きてローズクリスタル家にいる。


 季節は秋。

 実りの季節。

 ブドウ畑はすっかり紅葉し、屋敷から見える景色は黄金色に変わった。


 私は、屋敷の横の小さな旧館の、中庭にいる。

 いくつか並んだ円卓には、それぞれお客がいて、楽しそうに食事をしている。

 私の前にも、透き通った黄金色のスープがあった。


「うん、美味しい」


 スープを一口飲むと、深みのある野菜と肉の出汁がじゅわりと体に染みこんでいく。丁寧に処理された野菜たちの甘さと香ばしさが鼻孔をくすぐり、喉もお腹も喜んでいる気がした。

 嬉しくなって前を見ると、眼鏡の大人しそうな青年が歓声を上げている。


「これは美味しい……! 美しく澄んでいるのに、栄養満点の味がしますね。美味しすぎる薬みたいなスープです」


 彼は、医務官のフェリックスだ。

 私の父の恩人で、私の恩人でもある。

 フェリックスは私を見ると、少しばかり頬を赤らめた。


「すみません。なんでも薬に喩えるの、医務官の悪い癖だな」

「いいえ、そういうところが、フェリックスさまのいいところかと」

「そうだといいんですが」


 フェリックスは案外長いまつげを伏せて、小さく笑う。


 父が帰ってきてからは、怒濤の日々だった。

 マーガレットは毒殺の罪で断罪され、セリーナは横領で、モリーは窃盗で裁かれた。

 ロレンツォは浮気によって教会から破門されてしまい、広く噂が流れた。

 過去の恋愛関係も掘り返されて、今はあちこちから命を狙われているらしい。

 当然ながら、別館建築計画は頓挫。

 彼ら、彼女らは、みんな城から姿を消した。


 私の病気は、フェリックスがずっと研究していたという新薬が奇跡的に効いた。

 今は、一生のうちで一番健康だ。

 おかげで、新事業もはかどっている。


「それにしても、夢みたいですね」

 

 私は辺りを見渡す。

 ロレンツォの別館建設計画の代わりに実現した、私の事業。

 小さな小さな旧館改築計画。

 ほとんど使われていなかった旧館を最低限直して、毎日数組だけのお客を迎える、料理自慢の宿泊施設は、びっくりするほど上手くいっている。


 フェリックスはにこにこと言う。


「王都でも評判ですよ。最高のワイナリーで、最高のワインと食事を楽しめる宿だ、と」

「お土産にワインも売れるし、ワイナリーの評判もますます上がって、びっくりです」

「クララさんのお手柄です」

「まさか。私は何も……」


 私は何もできない、と言おうとして、私は少しためらう。

 余命一年だと聞くまでは、そうやって引っ込んで生きてきた。

 でも――そのせいで、色々な不幸を生んでしまったのかもしれない。


 私は改めて、フェリックスを見つめる。


「私ひとりでは、何もできませんでした。今は、違います」


 フェリックスは少し目を瞠ったのち、蕩けるように笑った。

 同時に、私の心も、蕩けるように甘くなる。


 もうすぐ、ワインの新酒ができる。

 まだ若いワインだけれど、いずれは美味しく熟成することだろう。

 私の……私たちの人生も、多分、同じだ。



END

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― 新着の感想 ―
お父様、かっこよく登場したけどあの毒婦達を家に引き込んだの貴方ですよね。
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