表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第三章:呪いの文字「羌」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/16

第三節:炎の中の脱走

 都の肺が、不吉な脈動を打っていた。

 大邑商の夜を支配するのは、大地を叩き据えるような重苦しい太鼓の音だ。それはトグが故郷で聴いた生命の躍動ではなく、巨大な石臼が命を挽き潰しながら回る、死への行進曲だった。


「……行け、若いの。お前の目にはまだ、文字に喰い尽くされていない『山』が残っている」


 収容所の湿った暗がりで、老人がトグの背を押した。その手は冷たく、死人のようだった。老人は脱走の囮となるべく、密かに集めた乾いた藁に、自らの命を灯火として捧げる覚悟を決めていた。


「この鎖を……俺の代わりにお前が断て。あの文字の檻を、内側から食い破れ」


 老人が自らの結縄をトグの首に巻きつけた。それは「記憶」という名の、唯一の守り袋だった。


記録の焼却

 トグは影を縫い、王宮の裏手に位置する記録庫へと這い寄った。

 そこには、王が神から奪い取った「言葉」が、数千、数万の木札や骨となって、地層のように積み上がっていた。トグには、それらがすべて、死んで動かなくなった精霊たちの剥製に見えた。


 見張りはいた。だが、彼らは「羌」という家畜が、自らの支配の根源である「文字」を狙うなどとは微塵も思っていない。トグは、調理場から盗み出したわずかな種火を、油の染みた木札の山へと押し当てた。


 一瞬の沈黙。そして、爆ぜるような音がした。

 乾燥しきった木札が、飢えた獣のように炎を吸い込んでいく。カリカリと命を削り取っていたあの筆の音を、炎の咆哮が塗りつぶした。燃え上がる木札から、黒い煤が舞い上がる。それは、記号にされて閉じ込められていた人々の魂が、ようやく檻を壊して天へと昇っていく姿のようだった。


「火事だ! 記録庫が……王の言葉が燃えているぞ!」


 都の秩序が、初めて悲鳴を上げた。兵士たちが狼狽し、整然としていた足音が乱れる。文字という「糸」で縛られていた世界が、その糸を焼かれたことで、ただの混沌へと逆戻りし始めていた。


痛みの代償

 トグは混乱に乗じ、祭壇の裏に隠してあった青銅の重いつちを掴み取った。だが、首の鎖を断つのは容易ではなかった。

 近くの石柱に首を押し付け、自ら鎚を振り下ろす。


――ガギィィィン!


 凄まじい衝撃が脳を揺らした。首の皮が裂け、熱い血が鎖を伝って流れ落ちる。指の骨が悲鳴を上げ、視界が真っ赤に染まった。だが、トグは止まらなかった。二度、三度。


「俺は……文字じゃない!」


 咆哮とともに振り下ろした最後の一撃。高い金属音とともに、青銅の鎖が弾け飛んだ。激痛で意識が飛びそうになるが、トグはその痛みを、自分がまだ「生きた肉体」であることを確認するための狂おしい悦びとして受け入れた。


 背後で、囮となった老人が兵士たちの矛に貫かれる気配がした。トグは振り返りたい衝動を、血の混じった唾とともに飲み込んだ。今ここで立ち止まることは、老人の死を「無意味な骨」に変えることだ。


泥の手と沈黙の誓い

 城壁の端から、トグは夜の帳の中でうねる黄河へと身を躍らせた。

 冷たい水の衝撃が、焼けた皮膚を突き刺す。激流に揉まれ、何度も岩に叩きつけられ、肺に泥水が入り込む。文字が書けない水。誰にも支配できない、原初の混沌。


 どれほどの時間が経っただろうか。トグは、どこかも分からぬ岸辺へと這い上がった。

 全身を濡らす泥の匂い。遠くで、大邑商を焼く炎が空を赤く染めているのが見える。


 トグは、泥と血で汚れた自分の掌を見つめた。

 かつての美しい指は折れ、皮膚は焼け爛れている。だが、そこにはもう、あの呪わしい黒い墨は付いていない。


「……書かない」


 掠れた声が、闇に溶ける。


「俺は、文字なんて知らぬまま、山へ帰る。この痛みも、奪われた家族も、老人の最期も。墨で汚した木に刻む代わり、この肉と、この魂に、生涯消えぬ怒りとして刻んでやる」


 トグは立ち上がった。足元は覚束ない。だが、その瞳には、都で失ったはずの野生の光が、かつてないほど激しく宿っていた。


 文字を持つ者たちが世界を切り刻むなら、自分は文字を持たぬまま、その理の外側から牙を剥く「獣」になろう。


 彼は一度も振り返ることなく、黒い影となって聳える西の山々へと向かって、泥まみれの一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ