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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第三章:呪いの文字「羌」

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第二節:文字の発見

 貞人ていじんたちが去った後の卜所ぼくしょは、まるで巨大な獣のわたの中にいるような、生暖かい沈黙に包まれていた。

 換気のための高窓から薄紫色の黄昏光が差し込み、宙を舞う無数のすすの粒子を照らし出している。その一粒一粒が、誰かの命を焼いた残滓ざんしのように思えて、トグは吐き気を堪えながら、床に散らばった骨の破片を拾い集めていた。


 用を成した後の「燃え殻」は、もはや聖なるものではない。無造作に廃棄される。トグの指先が、妙に角張った牛の肩甲骨の一部に触れた。


鏡としての文字

 トグは、その破片を掌に載せた。火によって白く変色し、蜘蛛の巣のようなひび割れが走る表面に、鋭利な刃物で刻みつけられた「模様」があった。


(……きれいだ)


 不覚にも、トグはそう思ってしまった。その角張った線、迷いのない溝の深さ。山を駆ける稲妻のような、あるいは冬の朝に張る氷の亀裂のような、人知を超えた完成された美しさがそこにはあった。

 だが次の瞬間、トグは自分の掌を噛み切りたいほどの激しい自己嫌悪に襲われた。この「きれいな傷跡」こそが、同胞を殺し、自分を檻に閉じ込めた呪いの正体ではないか。


 トグは、その模様を凝視した。目が焼かれるような痛みを感じながら、野生の直感がその図形をバラバラに解体していく。


「……羊だ」


 模様の上部には、二つの湾曲した線があった。それは、トグが幼い頃から愛してきたもの。冬の霧の中から現れる羊たちの頭上で、誇り高く反び返っていた「角」そのものだ。故郷の誇り、豊かさの象徴。

 しかし、その角の下に連なっているのは、羊の体ではなかった。それは、二本の足で大地に立つ「人」の形をしていた。


 羊の角を頭に戴き、首を垂れて立ち尽くす、歪な人の姿。


「……俺たちは、羊なのか」


 掠れた声が、自分の口から出たとは思えなかった。

 彼らは、自分たちの顔を見ていない。あの男たちがこの骨に刻んだのは、トグという人間ではなく、頭に角を生やして屠られるのを待つ「家畜」という定義だ。

 この文字――「きょう」が刻まれた瞬間、彼らの中では「人間を殺す」という罪は消え、ただ「家畜を処理する」という事務作業へと置き換わる。文字とは、命を名もなき肉へと変えるための、もっとも冷酷な刃なのだ。


闇の中の先客

 トグが絶望の淵で骨を握りしめていると、暗がりの奥から、乾いた「音」が聞こえてきた。


 カリ……カリ……。


 それは神官が刻む音とは違う、もっと執拗で、血を吐くような重い音。

 視線を向けると、石柱の影に一人の老人が座っていた。体は骨が浮き出るほど痩せ、首には誰よりも重い鎖が食い込んでいる。老人は、尖った石の破片で、収容所の壁に何かを刻みつけていた。


「見つめるな……。その模様に魅入られれば、魂は二度と山へは帰れん」


 老人の声は、枯れ葉が擦れ合うような響きだった。その手には、泥に隠すようにして「一本の結縄けつじょう」が握られていた。


「あいつらは木や骨に頼らねば、言葉を留めておけぬ弱き者よ。……見ろ。俺は、文字など持たぬが、この結び目の中に、一族が最後に流した涙の数も、あの日の風の匂いも、すべて持っている」


 老人は震える指で、結縄の古びた結び目をなぞった。


「文字は命を殺して『形』にする。だが、我らの記憶は肉に、指に、生きながら宿る。トグよ。奴らが『羌』と書こうが、お前が自分の指で『トグ』という結び目を忘れぬ限り、あの文字の檻は完成せん」


 トグは自分の掌にある「赤い紐」を、爪が食い込むほど強く握りしめた。文字という檻の正体を知り、それに対抗するための「肉体の記憶」を呼び覚ます。


 トグは老人から石の破片を受け取った。そして、自分の足元にある、あの「美しい」骨の破片を、渾身の力で突き立て、その「羌」という文字を真っ二つに引き裂いた。


 手に走る鋭い衝撃。破片が指に刺さり、血が溢れる。だが、トグはその痛みさえも「自分という人間が生きている証明」として、激しい歓喜とともに受け入れた。

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