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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十一章:黄金の翻訳、仏(ほとけ)のタングート

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第一節:龍の贈り物、知の侵食

 興州こうしゅうの城門を揺らしたのは、地平の彼方から這い寄る重々しい地鳴りだった。

 砂塵を巻き上げ、陽炎を切り裂いて現れたのは、大宋国の皇帝から遣わされた巨大な荷馬車の列だった。百頭を超える駱駝と馬が、軋む車輪を引き、タングートの乾いた大地に異質なわだちを刻んでいった。


 街道の熱風にさらされながら、迎えに出た僧侶たちの鼻腔を突いたのは、砂漠の死臭でも馬の汗の臭いでもなかった。それは、あまりにも場違いな、洗練された「都会の湿り気」の残り香だった。


 荷台に積まれた長持ながもちを解くと、中から現れたのは、幾重にも重なる目も眩むような黄色い絹である。その絹の表面には、長い旅の間に吸い込んだ砂塵が微かなざらつきとして残っていたが、包みを解けば、中からは汴京べんけいの庭園に咲く沈丁花じんちょうげを思わせる、甘く、どこか重苦しい香りが立ち上った。


 収められていたのは、大蔵経だいぞうきょう――五千巻を超える、漢字の経典である。


 僧侶の一人が、日に焼けてひび割れた武骨な手で、その巻物の一つに触れた。指先が触れたのは、タングートの荒い羊皮紙とは似ても似つかぬ、吸い付くように滑らかな高級紙だ。その白さは、雪解けの水のごとく冷ややかで、同時に、触れた者の体温をじわりと奪い去るような、不気味な生々しさを湛えていた。


聖なる罠、見えざる呪いの網

 李元昊りげんこうは、牙城の広間に運び込まれた「龍の贈り物」を、冷徹なまでの静寂をもって見下ろしていた。

 傍らに立つ野利仁栄やりじんえいは、元昊の瞳の奥に、冬の月光のような鋭い光が宿るのを見た。それは、聖なる教えを歓迎する者の眼差しではなく、敵の心臓部に仕掛けられた「罠」の絡繰からくりを暴こうとする、冷徹な解体者のそれであった。


「……見てみよ、仁栄。これが大宋という名の怪物が吐き出す、最も強力な毒だ」


 元昊は、黄金の軸で飾られた巻物を、まるで汚れた布でも扱うように無造作に広げた。そこに並んでいるのは、完璧な調和で配置された、流麗なる漢字の列である。


 元昊にとって、それは宗教的な真理などではなかった。それは、中華文明が周辺の国々を飼い慣らすために研ぎ澄ませてきた、大いなる「ことわりの罠」に他ならない。

 仏教という、救済の甘い皮を被せた教え。それを漢字という厳密な文字の鎖で縛り、周辺諸国に「無償」で分け与える。それを受け入れた国は、自らの思考の筋道を漢字の理へと明け渡し、気づかぬうちに宋の皇帝を頂点とする秩序の網目のなかへと組み込まれていくのだ。


「奴らは、文字を授けることで、我らの骨を抜き、牙を折ろうとしているのだ。仏の慈悲を語りながら、その実、我らの魂に中華の首輪を嵌めようとしている」


 文字とは、ただ言葉を書き留めるための道具ではない。人の思考そのものを囲い込む檻だ。漢字で仏を語る限り、タングートの民は永遠に中華の影から逃れることはできない。漢字一文字一文字が、民の脳内に張り巡らされた見えざる呪いの糸となり、宋の権威を崇め奉らせ続ける「知の支配網」として機能するのだ。


略奪の法悦、言葉の屠殺場

 元昊は、広げられた経典の上に、自らの戦塵に汚れた指を重ねた。白い紙の上で、彼の武骨な指は、まるで戦場に転がる焼け焦げた木片のように際立って見えた。


 彼の脳裏に、砂漠を駆ける戦士たちの野太い叫びが響く。喉を震わせ、腹の底から絞り出す、砂を噛むようなタングートの言葉。それらは、この優雅で、あまりにも計算され尽くした漢字の列の中には、どこにも居場所を持たなかった。

 漢字の「仏」という文字は、あまりにも静かで、あまりにも清潔すぎて、風と血の匂いにまみれた自分たちの神を語るには、絶望的なまでに型が合わないのだ。


 そのとき、元昊の喉の奥から、低く、押し殺したような笑いが漏れた。それは、これから始まる「略奪」を予感した、略奪者の愉悦であった。


「仁栄。この五千巻の毒を、すべて我らの『牙』へと変えよ」


 元昊の声が、冷たい広間に響き渡った。

「奴らの仏教を、我らの文字で書き直す。漢字の皮を剥ぎ取り、その内側にある真理だけを、我が国が創り上げた『鏡像の迷宮』の中へと引きずり込むのだ」


 それは、知の絶対的な強奪の宣告であった。

 翻訳とは、単なる言葉の置き換えではない。それは概念の「領有」であり、魂の「染め直し」である。


 仏がタングートの音で語り始めたとき、宋の皇帝が独占してきた「天命」という名の拠り所は、根底から崩壊する。中華の神を、中華の及ばぬ独自の暗号で再定義し、自らのものとするのだ。


 元昊は、仁栄の手に一本の経典を押し付けた。

「ゆけ。この翻訳院を、大宋の精神を解体し、再構築する屠殺場とさつじょうとせよ。我らは、仏から漢字を奪い、タングートの魂を注ぎ込むのだ」


 仁栄は、その経典の重みを感じた。それは、一国の魂を塗り替えるという、眩暈めまいのするような重圧であった。


 窓の外では、砂嵐が荒れ狂い、興州の城壁を叩いていた。だが、その咆哮すらも、いまや仁栄の耳には、これから生まれるべき「黒き聖書」の一画を成す、激しい筆致のように聞こえていた。


 西夏の文字という「檻」に、仏を閉じ込める。

 その狂気にも似た挑戦が、いま、静かに幕を開けた。

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