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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第八章:大夏の産声

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第三節:沈黙の咆哮

 興州こうしゅうの夜は、凍てつくような静寂と、それを引き裂く野性的な熱狂が奇妙に混ざり合っていた。宮城の外、広大な荒野に焚かれた無数の篝火かがりびの周りでは、戦勝と即位を祝うタングートの兵士たちが、輪になって踊り、歌っていた。それは、中華の洗練された雅楽ががくとは対極にある、剥き出しの生命の律動であった。


砂利を噛む歌声、肉体の共鳴

 兵士たちの喉から溢れ出す歌声は、低く、太く、まるで地底を流れる濁流のように地を這った。その響きには、乾燥した砂漠の砂利を噛むような掠れがあり、冬の風が岩肌を削り取るような鋭さがあった。


 彼らの言葉――タングート語は、単なる情報の伝達手段ではない。それは、乾いた喉を震わせ、肺の奥に溜まった砂の塵を吐き出し、自分たちがこの過酷な大地に根を下ろしていることを確認するための、肉体的な「叫び」そのものだった。


「オォ、ウラハイ……アグ・タ・ズン……!」


 拍子リズムは不揃いで、だが力強い。踊る男たちの禿髪とくはつが篝火を跳ね返し、踏み鳴らす足音が大地を太鼓のように鳴らす。元昊げんこう高楼こうろうからその光景を眺めていた。彼の皮膚もまた、兵士たちの咆哮が引き起こす空気の震えに共鳴し、微かに泡立っている。この震え、この匂い、この熱量こそが、彼らタングートの真実であった。


言葉の剥製、漢字という名の「断頭台」

 だが、元昊の視線が楼閣の片隅で記録に勤しむ文官たちへ向けられたとき、その熱は急速に冷え切った。篝火の明かりの下、そうから招かれた文官たちが、墨をり、筆を走らせている。彼らが記しているのは、いま眼下で繰り広げられている狂熱の記録だ。


 しかし、彼らの筆先から生まれるのは、整然と並んだ、四角く、冷たい「漢字」の列であった。元昊は一人の文官の背後に立ち、その手元を覗き込んだ。


『蛮族、火を囲みて大いにわめき、奇声を上げてとなう』


 その一行を見た瞬間、元昊の胸にどす黒い不快感がこみ上げた。

 兵士たちのあの複雑な感情――先祖への敬慕、戦友を失った悲しみ、そして新たな国を打ち立てた誇り。それらすべてが、漢字という「中華の器」に流し込まれた途端、ただの「奇声」という記号に集約され、切り捨てられていく。


 これは記録ではない。魂の殺戮だ。

 漢字ということわりは、中華の土地を記述するために極限まで磨き上げられた完成度の高い「おり」である。その檻の中に、タングートという制御不能な野性を閉じ込めようとすれば、溢れ出した本質はすべて「余計な雑音」として削ぎ落とされる。文官たちが記しているのはタングートの真実ではなく、中華という曇った鏡で濾過された、無害で空虚な「標本」に過ぎなかった。


消えゆく魂の震え

 兵士たちの歌は続く。ある者は、好水川で命を落とした弟の名を、タングート特有の、鼻に抜ける哀切な響きで呼び上げた。その音には、共に泥水を啜った記憶や、故郷の母の温もりが、幾重にも重なる「重厚な響き」となって込められている。


 だが、文官の筆は動かない。彼が知る漢字の語彙の中に、その音に込められた「湿り気」を写し取る文字はないからだ。文官にとって、それは記述に値しない「無意味な音」でしかなかった。


 元昊は、自らの喉に手を当てた。自分の内側にも、決して漢字では書き表せない咆哮が渦巻いている。この渇き、この焦燥、この「自分たちが自分たちであること」の証明――。夜風に乗って消えていく兵士たちの歌声は、まるで記録されることのないまま砂漠に吸い込まれていく、一族の魂の叫びのように聞こえた。


記述の簒奪、存在の透明化

「……どれほど大きくえても、我らは沈黙しているのと同じだな、仁栄じんえい


 影のように寄り添っていた野利仁栄が、重々しく頷いた。

「書かれぬ歴史は、存在せぬ歴史。他者の言葉で綴られた記憶は、他者の所有物となります。陛下、我らが漢字を使い続ける限り、我が民が流したこの血は、単なる『辺境の小競り合い』として、中華の正史の隅にちりのように埋もれるでしょう」


 恐るべきは武力による支配ではない。記述による「存在の定義」の簒奪さんだつである。独自の文字を持たぬ民族は、自分たちの歴史を語る権利を他者に委ねている。それは、自らの思考の枠組みを敵の論理に差し出すということであり、精神的な去勢に他ならない。


 元昊は、卓の上に置かれた墨汁を指で掬い、白い紙の上に叩きつけた。漆黒の染みが、無機質な漢字の列を塗り潰していく。


「あいつらの文字には、我らの土地の匂いがしない。我らの馬のいななきが、骨の軋みが、風の刃が含まれていない。……あいつらの文字は、我らを定義するためのものではなく、我らを管理するための家畜の札だ」


沈黙を破るための決意

 下界の凱歌は、最高潮に達していた。だが、それもいずれは消える。夜明けが来れば、焚き火は灰となり、声は静寂に呑み込まれる。あとに残るのは、あの文官たちが書き留めた、無味乾燥な「漢字の死骸」だけだ。


「仁栄。我らは、この沈黙の咆哮を、永遠に留め置くための石を刻まねばならぬ」


 元昊は、楼閣の欄干を強く掴んだ。漢字に似て、だが漢字のいかなることわりにも従わぬ、複雑怪奇で、傲慢なほどに緻密な「壁」。中華の論理を反射し、跳ね返し、侵入を許さぬ、精神の城塞。


「文字を作るぞ、仁栄。我らの肌の熱を、砂の重みを、そしてこの咆哮の振動をそのまま閉じ込める、我らだけの檻を」


 それは、一つの帝国を築くよりも遥かに困難で、狂気に満ちた企てであった。だが、元昊の心は、かつてないほどに澄み渡っていた。

 夜風が元昊の頭皮を吹き抜ける。彼の中に渦巻く沈黙の咆哮が、いま、新しい言葉の胎動となって、砂漠の闇を震わせ始めていた。

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