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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第七章:三極の均衡、砂の外交

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第四節:勝利の残滓(ざんし)、沈黙する筆

 好水川こうすいがわの戦場に、ようやく静寂が戻っていた。

 かつてそうの兵士たちが誇らしげに掲げていた銀の鎧や、極彩色の軍旗は、いまや砂漠の砂に半ば埋もれ、無残な鉄のつぶてへと成り果てている。風が吹くたび、砂がそれらを叩き、乾いた音を立てる。それは、広大な墓標が立てる嘆きのような、あるいは物理的な法則が文明を侵食していく乾いた響きであった。


 元昊げんこうの幕舎の前には、略奪された宋の財宝が、いびつな山をなしていた。白銀の塊、繊細な刺繍が施された絹、そして香りの高い茶。それらは宋という巨大な「システム」が、その洗練を誇示するために蓄積してきた豊穣の証であった。だが、略奪されたそれらは、ただの物質マテリアルとして、無造作に冷たい大地に投げ出されていた。


条約という名の「非対称な檻」

 幕舎の内側では、さらに過酷な「戦」が繰り広げられていた。

 元昊の目の前には、血の気の失せた宋の使者が、震える手で一枚の巻物を広げている。それは、この戦の終わりを告げる「講和条約」の草案であった。


 宋は負けた。物理的には、完膚なきまでに。

 その代償として、彼らは毎年、銀七万両、絹十五万匹、茶三万斤という莫大な「歳幣さいへい」を差し出すことを約束した。それは、文明が野性に支払う屈辱の通行料であった。


 だが、元昊はその条約文を眺め、冷徹な不快感を募らせていた。

 記述されている言葉は、すべて「漢字」であった。そこには、元昊を「大夏たいか」の皇帝として認める文言はない。代わりに並んでいるのは、彼を宋の「臣」として位置づけ、その地位を改めて授けるという、高圧的な慈悲の記述であった。


「……王よ、これが天朝が許しうる、最後の譲歩でございます」

 使者は震えながらも、その瞳の奥には、文明の側に立つ者特有の「冷たい呪い」を宿していた。

「金品は望みのままに。しかし、この文書の『形式フォーマット』だけは、中華のことわりを崩すわけには参りませぬ。王よ、貴公は一時の勝利と引き換えに、歴史という名の記録の中で、永遠に『人でなしの蛮族』として標本にされる道を選ぶのですか」


 元昊は鼻で笑った。宋という巨大な器は、物理的な敗北を喫してもなお、記述しるしの世界では自らが上位であることを止めようとしない。どれほど金を毟り取ろうとも、その契約が「敵の言葉」で書かれている限り、元昊は中華という巨大な概念の中の一部品(パーツ)として回収され続けてしまうのだ。


夜風に消える凱歌、肉体の空腹

 幕舎の外からは、タングートの戦士たちの地響きのような凱歌が聴こえていた。焚き火が爆ぜる音。馬のいななき。

「オオォォォ、アグ・タ・ズン(偉大なる我らの地)……!」


 その歌声は、彼らの肺腑から絞り出された、熱い血の通った叫びであった。だが、元昊は知っていた。彼らの言葉は、砂漠の風に乗って遠くへ運ばれ、そしてそのまま夜の静寂の中に溶けていく。どんなに激しく歌おうとも、それはその場限りの「大気の震え」でしかない。翌朝になれば、風は砂を均し、彼らの歌声も、馬の蹄の跡も、すべてを等しくへと還してしまう。


 彼らの勝利を、彼らの魂を、この大地に繋ぎ止める「いかり」がない。


 振り返れば、幕舎の中では、宋の文官が静かに筆を走らせている。すすにかわで作られた墨が、白い紙の上に吸い込まれ、タングートの戦士たちが流した血を、一滴の無駄もなく「蛮族の反乱」という冷たい記録へと変換していく。

 言葉が、死んでいく。記述されるたびに、彼らの生々しい躍動が、中華の論理という標本箱の中に閉じ込められていく。


折られた筆、軟弱な文明への嫌悪

 元昊は、使者の机の上に置かれた一本の筆を手に取った。最高級の兎の毛を選りすぐり、竹の軸に仕立てた芸術品。指先でその毛に触れる。驚くほどに柔らかく、しなやかだ。

 だが、その柔らかさに触れた瞬間、元昊の心に猛烈な拒絶反応が走った。


「この筆は、砂漠を駆ける馬の硬い毛を知らない。皮膚が裂けるような寒さを知らない。我らの牙の痛烈さを写し取ることなど、到底できはしない」


 この軟弱な筆先が描く「美」こそが、自分たちの荒々しい魂を去勢し、飼い慣らそうとする中華の呪縛そのものであった。


「……このような細い毛で、我が国の重みを支えられると思うな」


 元昊は、赤銅色の指先に力を込めた。

 ――パキッ。

 乾いた音を立てて、竹の軸が真っ二つに折れた。筆先に残っていた墨が、元昊の指を黒く汚す。使者が悲鳴のような息を呑んだ。元昊は折れた筆を、足元の砂の上へ無造作に投げ捨てた。


新しい「くさび」への決意

「金はいらぬと言ったら、貴様たちは驚くか?」

 元昊は、床にくずおれた使者を見下ろし、冷酷な宣告を下した。

「銀も絹も、ただの延命の道具に過ぎん。貴様たちが本当に恐れているのは、私がこの漢字という檻を破壊し、我ら独自の『理』を打ち立てることだ。……仁栄じんえい


 影の中から、軍師・野利仁栄やりじんえいが音もなく現れた。

「は。ここに」


「この条約文には、一旦の署名を許す。だが、これは最後の中華風の儀礼だ。次に宋と文書を交わすとき、それは貴様たちの言葉ではない、我ら独自の『刃の言葉』で記されることになるだろう」


 元昊の瞳には、勝利の余韻など微塵もなかった。中華の文字(漢字)をそのまま使うことは、彼らの思考の枠組みを共有することを意味する。精神の基盤であるアーキテクチャそのものを、根底から作り変えなければならない。


「漢字に似て、漢字にあらず。中華を飲み込み、そして吐き出すための、我らだけの刻印を作れ。仁栄、それは我らの骨から削り出した、最も硬く、最も恐ろしい『くさび』でなければならぬ」


 野利仁栄は、深く、静かに頭を垂れた。

「御意。……その文字が完成したとき、大夏は真に、中華の影であることを止めるでしょう」


 幕舎の外では、風がいっそう激しさを増していた。折られた筆は砂に呑まれ、やがて見えなくなった。元昊は自らの国を記述するための「新しい武器」を求めて、漆黒の闇の中へと歩を進めた。

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