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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第二章:死への行進と「分類」の恐怖

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第三節:大邑商(だいゆうしょう)の威容

 その場所は、もはや「人が住む場所」ではなかった。

 それは巨大な、意志を持った「怪物」が、大地の真ん中で獲物を待ち構えているかのような威容であった。


 地平線の向こうから現れたのは、天を裂く黒い柱だ。無数の焚き火の煙か、あるいは神に捧げる香の煙か。その黒い筋が、中原の青い空を汚れのように塗りつぶしている。やがてトグの目に入ってきたのは、垂直に切り立った巨大な「土の山」――版築はんちくによって幾重にも突き固められた城壁だった。


「……あれは、山じゃない。死んだ土を積み上げた、巨大な墓標だ」


 トグは喉の奥で呻いた。岩場のような自然の荒々しさはどこにもない。それは、おぞましいほど真っ直ぐに、空を拒絶するように聳え立っている。


 門をくぐった瞬間、トグの鼓膜を震わせたのは、これまで聴いたこともない「文明の唸り」だった。

 何万もの足音。戦車の車輪が石を削る硬質な音。青銅を打つ鍛冶屋の鎚の音。山では、音は風に乗って流れていくものだった。だが、この大邑商では、音さえも壁の内側に閉じ込められ、淀み、腐っている。


 通りは定規で引いたように交差し、建物は等間隔に配置されている。だが、その整然とした景観は、トグには「呪術的な檻」に見えた。鮮やかに彩色された神殿の柱には、巨大な目を見開いた怪物の模様――饕餮とうてつが刻まれ、その一つ一つがトグを逃さぬよう睨みつけている。建物の隅々には、白く乾いた「骨」が埋め込まれ、あるいは無造作に転がっていた。それらは飾りのためではなく、大地を鎮め、神を繋ぎ止めるための「杭」なのだ。


 沿道の人々は、鎖に繋がれたトグたちを、市場に並ぶ「質の良い薪」を見るような、無関心でいて残酷な目で見つめていた。

「見ろよ、今回の『羌』は身が詰まっている」

「雨を呼ぶには十分な血を流しそうだ」


 彼らの言葉は、命のやり取りを語っているとは思えないほど「日常的」だった。この都に住む者たちにとって、トグたちの死は、自分たちの明日を買い取るための「硬貨」に過ぎないのだ。


 そして、トグの全身が本能的な拒絶で震えた。

 都の中心に聳える巨大な台座から、あの匂いが漂ってきたからだ。単に物を焼く匂いではない。羊を屠る際の血の匂い。野火が草を焼き払う匂い。そして、何よりも――かつて村で、兵士たちが火を放ったあとに残った、あの「人の肉」が焼ける、甘ったるく、吐き気を催す腐臭。


「あそこが……胃袋か」


 祭壇の上では、巨大な青銅の器が炎に照らされてギラギラと光っている。その器は、まるで生きているかのように熱を帯び、犠牲の魂を啜り込んでいる。文字によって管理された命が、文字によって宣告された瞬間に、あの青銅の口の中へと消えていく。


(……壊せないわけがない)


 トグは、泥にまみれた自分の手を見つめた。

 都の威容に圧倒されながらも、トグの野生の目は、ある「綻び」を捉えていた。神殿の壮麗な柱も、雨に打たれれば土が剥げ落ちる。絶対的な文字を刻んだ木札も、踏みつければ割れる。あのおぞましい青銅の器とて、火で熱されすぎれば、その輝きの中に亀裂を孕むはずだ。


 一団は、都の北側にある広大な奴隷収容所――「あな」へと追い込まれていった。

 そこは地を深く掘り下げただけの、日の光も届かぬ泥の檻だった。すでに何百という、トグと同じような「羌」たちが、死を待つ家畜のようにうずくまっていた。


 トグは乱暴に放り込まれ、冷たい泥の中に膝をついた。

 その時、暗闇の奥から、乾いた「音」が聞こえてきた。


 カリ……カリ……。


 それは書記官が木札を刻む音に似ていたが、どこか違っていた。もっと執拗で、低く、力強い音。


 視線を向けると、壁際の影に、一人の老人が座っていた。その体は骨が浮き出るほど痩せ細り、首には他の誰よりも太い鎖が巻かれている。老人は、手にした尖った石の破片で、収容所の土壁に何かを刻みつけていた。


 それは商の文字ではない。もっと曲がりくねり、羊の角や風のうねりを思わせる、見たこともない「しるし」だった。


「新入りか……」


 老人が顔を上げた。その瞳だけが、この死の都の中で唯一、山の上に輝く星のような光を宿していた。


「お前も、あの文字に魂を食われたか」


 老人の手元には、泥に隠すようにして、古びた、しかし丁寧になめされた一本の結縄けつじょうが握られていた。


 トグは、自分の拳の中にある「赤い紐」を強く握りしめた。

 絶望に塗りつぶされていた視界に、初めて、文字という檻を打ち破るための「反逆の種」が飛び込んできた。

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