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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第四章:落日の遺言

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第三節:獣たちの葬列、荒野への道

第三節:獣たちの葬列、荒野への道

 北の城門へと続く大路は、阿鼻叫喚の地獄図絵と化していた。

 だが、そこに勇壮な撤退戦の気配はない。あるのは、飼い主を失い、出口へ向かって折り重なり、互いの肉を踏みつけ合う「獣たちの葬列」であった。


燃える紙、震える手

 ヤンの行く手を阻むのは、敵軍の刃だけではない。逃げ惑う同胞たちの腕には、この極限状態においてさえ、重い木箱や、厳重に紐で縛られた書類の束が抱えられていた。


「――退け! 荷を捨てて馬に乗れ!」


 ヤンの怒号に、かつての部下であった男が、虚ろな目ですがり付いてきた。その手は、煤で汚れた一枚の紙を、まるで命の綱であるかのように握りしめている。


「将軍、これは皇帝陛下から賜った封土の安堵状なのです。これがなければ、明日から一族の土地は誰のものとも分からなくなる……!」


 男が必死に守ろうとしているのは、火の粉に曝され、いまにも茶色く焦げ落ちようとしている薄っぺらな紙片に過ぎなかった。

 この長安という石の檻が壊れた瞬間、そこに記された「権利」という名の幽霊は、ただの無意味な墨の跡に還る。にもかかわらず、男は自らの足で大地に立つ術を忘れ、他人が用意した「記述」の中でしか生きられない無力な部品へと去勢されていた。


 ヤンは男を突き放し、馬を跳ね上げた。

 背後で、その男が夏の騎兵に無残に蹂躙じゅうりんされる振動を感じたが、ヤンは振り返らなかった。他人の論理に魂を預け、それと共に死ぬことを選んだ者たちに、荒野の風はあまりに冷酷すぎる。


土の拍動、肉体の回帰

 北門を突破した瞬間、ヤンの全身に激しい衝撃が走った。

 数年間にわたって感覚を麻痺させていた、あの平坦で冷酷な石畳が途切れたのだ。馬の蹄が、湿り気を帯びた「生きた土」を、深く、力強く蹴り上げた。


 ドスン、と腹の底に響く鈍い衝撃。

 石の跳ね返りではない、大地の奥底からせり上がってくる、重く粘り強い拍動。ヤンの足裏が、あぶみを介してそのリズムを捉えたとき、彼の骨の髄で眠っていた何かが、稲妻に打たれたように目を覚ました。


 絹の官服の下で、贅肉を削ぎ落とすような熱い疼きが走り抜ける。文官としての平穏の中でふやけ、白く柔らかくなっていたヤンの肉体が、過酷な逃走の風にさらされ、急速に「戦士の形」へと引き締まっていく。肺の奥まで吸い込んだ北の風は、煤と血の匂いを孕んでいたが、それは長安の沈香よりも遥かに清冽せいれつな、命の味がした。


「……走れ。振り返るな!」


 ヤンの声は、もはや尚書省で議論を戦わせていた時の、あの滑らかな漢語ではない。それは、喉の奥から絞り出される、地を這うような野蛮な咆哮ほうこうだった。


石の都の解体

 城壁が遠ざかるにつれ、夜空を焦がす紅蓮ぐれんの炎が、巨大な石の檻を焼き尽くしていくのが見えた。

 あの都では、すべてが「記述」されていた。誰に跪き、どの順序で飯を食うか。文字によって秩序を保つことで、羌族きょうぞくは「文明人」という名の装いを手に入れたが、その実、自分たちの足で大地を踏み締める感覚を、他人の論理に売り払っていたのだ。


 ヤンは、懐にある経典の重みを確かめた。この紙に書かれた文字が、救済を説きながらも、自分たちの牙を抜くための毒として機能していたことを、ヤンは呪わしいほどに理解していた。

 荒野に法典はない。そこにあるのは、飢えと、寒さと、自らの肉体だけで世界と対峙するという、剥き出しの真実だけだ。


 ヤンは、自らの指に食い込む手綱の感触を、烈しい悦びと共に噛み締めていた。


銀世界の入り口

 長安の熱気が途絶え、空気が不自然なほどに透き通ってきた。北のオルドスから吹き下ろす冷気は、ヤンの首筋の刺青しせいを、氷の刃で撫でるように冷やす。視界の先には、月の光に照らされた灰色の砂漠が広がっていた。


 草木も眠るその荒野は、長安の極彩色とは対極にある、無機質な銀世界だ。そこには、人の手による装飾も、文字による定義も存在しない。ただ、命を繋ぐための微かな動悸と、凍てつく大気の静寂があるだけだった。


 ヤンは馬を止め、大きく息を吐いた。吐息が白く、結晶となって闇に消える。

 腕や脚には、激しい戦闘と逃走によって刻まれた無数の傷があった。そこから流れる血は、長安の庭園で見た池の水よりも鮮やかで、温かかった。皮膚を刺す寒さが、ヤンの神経を極限まで研ぎ澄ます。ふやけていた足裏は、いまや砂礫されきの鋭い一粒一粒の感触さえも捉えている。


「……俺たちは、まだ生きている」


 振り返れば、炎に包まれた都は、闇の中に浮かぶ巨大な傷口のように赤くただれていた。ヤンは、懐の経典を握り締めたまま、荒野の奥底を見据えた。


 記述されない土地、記述されない命。その「無」に近い場所でこそ、彼らは自分たちの言葉を、もう一度形作らなければならない。

 獣たちは再び、文字を持たぬ孤独な荒野へと還っていく。だが、ヤンの胸に宿る冷徹な決意だけは、消えることのない残り火のように、北の冷たい風の中で静かに、だが烈しく燃え続けていた。

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