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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第三章:去勢された咆哮

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第一節:蜜の味、泥の記憶

 長安の王宮を支配する空気は、甘ったるい麻薬に似ていた。

 広間の隅々で焚き上げられる沈香じんこうは、肺の奥にねっとりと絡みつき、かつて草原で吸い込んだ「雨を含んだ土の匂い」を不純物として徹底的に濾過ろかしていく。それは呼吸を楽にするための芳香ではない。命の荒々しい拍動を絹の膜で包み、窒息させるための、管理されたシステムの香りであった。


絹に侵食される肉体

 ヤンは回廊の柱に身を寄せ、目の前の光景を凝視していた。そこには、かつて泥にまみれ、背中を預け合って死線を潜り抜けてきた羌族きょうぞくの同胞たちがいた。しかし、その輪郭に、かつての研ぎ澄まされた刃のような鋭さはない。


「ヤン、どうした。その不景気な顔は。こっちへ来て飲め。この南方の酒は、草原の乳酒とは比べものにならんほど、喉を優しく撫でてくれるぞ」


 笑いかけたのは、かつて「草原のはやぶさ」と恐れられた猛将・ダラであった。だが、今の彼の首筋には不自然な脂がのり、黄金の刺繍が施された官服の襟が、太った肉を無慈悲に締め付けている。

 ヤンがその手を取ると、かつて強弓を絞り上げるためにはがねのように硬かった指先は、温い水に浸かりすぎた果実のように柔らかく、ふやけていた。


 ダラの瞳から、獲物を狙う際の「飢えた光」が消えている。代わりに、酒と安逸に濁った、平穏という名の膜が張っていた。男たちが笑うたび、高価な香料がその体臭を塗りつぶしていく。彼らはもはや大地を駆ける獣ではなく、王という名の飼育主に供される「黄金の家畜」へと変貌を遂げつつあった。


記述システムという名の解体新書

 ヤンは、自身の腰に下げた剣の重みに言いようのない不快感を覚えた。かつてそれは、自分の腕の延長として命を繋ぐための相棒であった。しかし今、豪華な飾りが施されたこの剣は、ただの「官位を示す装飾品」に成り下がっている。


 宴席の配置を見渡すと、さらなる冷気がヤンを包んだ。ここには、部族の「情」が介在する余地はない。すべては中華から引き継がれた「礼制」という、冷徹な計算式によって支配されていた。

 かつて焚き火を囲んでいたとき、座る場所は信頼の証であった。しかし今、彼らが座る位置は、皇帝から賜った「官位」という数字によって一寸の狂いもなく指定されている。かつての「族長」と「戦士」という血の絆は、記述された「一品」「二品」という階級へと規格化され、人間関係は帳簿上の序列化ヒエラルキーへと解体されていた。


「……聞いたか、ヤン。今度の論功行賞で、俺の領地に隣接する村の徴税権が認められた。あそこの土地登記システムを少し弄れば、来年の上がりは倍になる。筆一つで、戦わずして富が転がり込むのだ」


 ダラの口から出るのは、もはや武勇伝ではない。漢字で書かれた「権利」という名の記号をいかに操るかという、乾いた事務の打算であった。

 他者の論理で己を記述することは、精神的な自死に等しい。その記述が一行書き換えられれば、彼らの存在そのものが歴史から抹消されるという不条理に、彼らはまだ気づいていなかった。


反逆の余熱、血の誓い

 ヤンは差し出された黄金の杯を無視し、無言で広間を後にした。背後からは雅楽の音色と、去勢されたような男たちの甲高い笑い声が追いかけてくる。

 廊下に出ると、冷たい夜風がヤンの頬を撫でた。しかし、その風ですら石壁に幾度も跳ね返り、生気を失ってよどんでいる。ヤンは自分の手を見つめた。指先のタコは消えかけ、滑らかな「文官の肌」が自分を侵食し始めている。首筋の刺青が、焼火箸を当てられたように熱くうずいた。


 ヤンは懐から「白い石」を取り出した。墨の海のような長安の中で、その石だけが月の光を撥ね返して無垢な白さを保っている。

 彼はふと、周囲に誰もいないことを確認すると、回廊の隅に置かれた「土地の記録」が記された木簡を手に取った。


 ヤンは石の角を使い、その木簡を深く、鋭く切り裂いた。


 漢字の枠にも、システムの韻律にも収まらない、鋭利な「傷」。

 それは他者の文字に対する、静かな、しかし決定的な拒絶の痕跡であった。墨(同化)で汚すのではなく、傷(非同化)を刻む。その物理的な破壊だけが、いま、彼がまだ記号になりきっていないことを証明していた。


「……食わせるものか。俺の言葉も、俺の魂も」


 石の角が、滑らかになりすぎた掌に鋭く食い込み、微かな血が滲む。その痛みだけが、いま、彼がまだ「個」であることを繋ぎ止める唯一の錨であった。


 城壁の向こうで響く鐘の音は、新しい秩序の勝利を宣言するように重々しく響き続けていた。だが、ヤンの耳には、その沈黙を切り裂こうとする「自らの内なる咆哮」が、確かに届いていた。

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