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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第二章:死への行進と「分類」の恐怖

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第一節:黄河を下る苦難

 世界から「曲がり」が消えていく。トグにはそれが何より恐ろしかった。


 かつての山の道は、精霊の足跡をなぞるようにうねり、一歩ごとに土の匂いも草の揺れも変わる「生きた道」だった。しかし、黄河の流れに従って東へと下るこの道は、ただひたすらに平たく、空が不自然に広い。

 それは道というより、大地に無理やり引かれた巨大な「傷跡」のようだった。


 *


 連行が始まってから、いくつの太陽が死んだだろうか。

 トグの足裏はすでに裂け、乾いた血と泥が混じり合って、歩くたびに焼けるような熱さを放っている。だが、立ち止まることは許されない。首に繋がれた鎖が、前を行く者の動きを無情に伝え、一瞬の遅れは喉を締め上げる「鋭い叫び」となって返ってくるからだ。


「……水を。水を、ひと啜りだけでいい」


 列のどこかで、部族の仲間が掠れた声を上げた。だが、返ってきたのは、慈悲でも怒りでもなく、風を切る鞭の音と、あの耳鳴りのような青銅の鳴動だった。


「黙れ。貴様らはすでに『数』として計上されている。損じさせては、俺たちの取り分が減る」


 兵士の言葉は、まるで冷たい石を投げつけるように無機質だった。彼らにとって、捕虜の渇きは「哀れみ」の対象ではなく、荷物の「品質低下」に過ぎない。トグは朦朧とする意識の中で、自分たちが、あの兵士の腰にぶら下がる「干し肉」と同じ目で見られていることを悟った。


 黄河の支流にある補給基地で、その「儀式」は行われた。


「並べ。一列にだ。計算が合わん」


 広場には、一台の机を前にした、異質な空気を纏う男が座っていた。彼は青銅の武器も、光る鎧も持っていない。ただ、片手に獣の毛を束ねたような棒を持ち、もう片方の手で黒い濁った液体――墨――を静かに湛えている。


 トグは、その「黒」に本能的な戦慄を覚えた。それは深い森の闇とも、嵐の夜とも違う。生きた色をすべて吸い込み、殺して閉じ込めるための「腐った血」のように見えた。


「次」


 書記官が顔も上げずに言った。トグの前にいた男――部族で一番の力自慢だったドルジが、兵士に引き立てられる。書記官は、ドルジの腕の太さを測り、歯を剥かせて健康状態を確認した。その手つきは、トグが羊を売る際に行っていた検分と全く同じ、命を無視した指使いだった。


「壮丁。筋力は十分だが、左脚に古傷。……『中』と刻め」


 書記官が、手元の木札に筆を走らせる。


 カリ、カリ、カリ……。


 乾いた木を、鋭い爪で引っ掻くような音が響く。トグは身震いした。あの男が木に奇妙な跡をつけるたびに、ドルジの体から大切な何かが吸い取られ、あの小さな板の中に閉じ込められていくような気がしたのだ。書き終えられた瞬間、力強かったドルジの瞳から光が消えた。彼はもう、一族の誇り高い戦士ドルジではない。あの木札に宿る「黒い汚れ」の一部に成り下がったのだ。


 トグの番が来た。冷たい指が顎を掴み、乱暴に口の中を覗き込まれる。トグは必死に書記官を睨みつけたが、男はトグを見ていなかった。ただ、トグという肉の塊にどれだけの「使い道」があるかだけを、舐めるように測っていた。


「若く、皮膚の状態も良い。反抗的だが、生命力は上。……『上』に分類しろ。祭祀用だ」


 カリ、カリ、カリ……。

 筆が動き、木札に不気味な骨のような模様が刻まれる。


 トグは、隠し持った自分の「赤い紐」を拳の中で握りしめた。かつて自分たちが結んでいた紐には、風の温度や、あの羊の温もりが宿っていた。紐に触れれば、その時の光景が鮮やかに蘇った。

 だが、この男が書いているものは何だ。この角張った、トゲのような模様のどこに、トグという人間がいるというのか。


「……俺は、トグだ」


 掠れた声で、トグは言った。


「俺の名前は、トグだ。山を駆ける風の……」


「黙れ、家畜が。貴様に名は必要ない」


 兵士の拳がトグの腹にめり込んだ。空気が奪われ、泥の中にうずくまるトグの頭上で、書記官が隣の兵士に事務的に告げた。


「この『上』は貴重な供物だ。傷をつけるな。この木札に記された形こそが、こいつの新しい魂なのだからな。これ(文字)が『死ね』という形になれば、こいつは即座に野の肥やしになる。……それだけの話だ」


 トグは、泥を噛みながら理解した。

 この者たちは、あの黒い猛毒で、生きた人間の命を「動かぬ物」へと塗りつぶそうとしているのだ。


 行進が再開される直前、トグは見た。

 書記官が、書き損じたのか、あるいは手が滑ったのか、墨のついた指で木札の一部を汚した。男は一瞬、ひどく狼狽した顔を見せ、慌てて別の木札に書き直した。汚れた木札は、無造作に焚き火の中に投げ込まれ、あっけなく灰になった。


(……あいつらも、怯えている)


 トグは、激痛の走る腹を押さえながら、その光景を脳裏に焼き付けた。

 命を司る絶対の呪文だと言ったが、あれもただの木の板であり、火にくべれば消える脆いものだ。あの黒い汚れが消えれば、閉じ込められた「魂」は、再び自由になれるのではないか。


 トグは、握りしめた赤い紐に、新たな結び目を一つ作った。爪が食い込み、血が滲む。

 これは「悲しみ」ではない。いつか、あの書記官の喉をこの鎖で締め上げ、あの黒い毒を飲み干させてやるという、どろりとした執着の結び目だ。

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