表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第二部 第一章:龍の椅子の軋み

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/80

第二節:絹の檻に座る王

 王宮の深奥へ進むほど、空気から色彩が失われ、代わりに重層的な「意味」という名のよどみが溜まっていった。


 回廊の両側には、数歩ごとに武装した衛兵が立っている。だが、彼らの瞳にはかつて草原で共有した「個」としての熱量がない。彼らは左右の均整を保つために配置された、石の床に影を落とすだけの装飾品に過ぎなかった。


 ヤンを導く老文官の背中は、見えない数万巻の竹簡を背負わされているかのように深く折れ曲がっている。その歩みは音もなく滑らかだが、時折見せる卑屈な微笑の裏には、野蛮な征服者を「文字」の檻に閉じ込めた者特有の、暗い優越感が滲んでいた。


「――後秦こうしんの将軍、ヤン。御前へ」


 文官の乾いた声が大極殿の静寂を震わせた。

 視界が開け、ヤンの目に飛び込んできたのは、高く聳え立つ玉座――龍の椅子と、そこに鎮座する一個の「現象」だった。


去勢された五感

 ヤンの鼻腔を突いたのは、かつて部族の集会で嗅いだ、焚き火と獣脂が混じり合う「生の匂い」ではなかった。

 それは、いくつもの高価な香木を焚き染めた、沈香じんこうの重苦しい芳香だ。粘りつくようなその香りは、王の肌から立ち上がるはずの戦士の匂いを、暴力的なまでに塗りつぶしている。


 玉座に座る王、姚萇ようちょうの姿は、幾重にも重ねられた絹の礼服に埋もれていた。緻密な刺繍が施された絹は、鈍い紫の光を放ち、王の肉体の輪郭を奪っている。その重なりは、もはや衣ではない。王を一個の「天子」という記号へ固定するための、真綿の絞め縄だ。


 ヤンは目を凝らした。かつて長安を奪うために馬を並べた際、先頭で咆哮を上げていたあの英雄の眼光を求めて。だが、十二章の紋章を纏った王の瞳は、澱んだ沼のように静止していた。それは、魂が肉体を捨てて逃げ出した後の、ただの抜け殻のように見えた。


骨を砕く「龍の椅子」

 ヤンがひざまずくと、王の身体がわずかに動いた。

 その瞬間、静寂を切り裂いて、鋭く不吉な音が響いた。


 ――ギ、リ……。


 古い木材が、巨大な重圧に耐えかねて悲鳴を上げるような音。

 その響きはヤンの耳を通り抜け、奥歯の根元を鋭く疼かせた。それはかつて戦場で聞いた、獲物の骨が粉砕される音に酷似していた。龍の椅子とは、王を支えるための家具ではない。それは座る者の野生をへし折り、中華の「天子」という規格へ矯正するための、精巧な鋳型いがたなのだ。


 王が座り直すたびに響くその軋みは、ヤンの背骨を直接震わせた。王が吐く言葉は、傍らに控える文官たちによって事前に調律された「宣旨せんじ」となり、王が抱く感情は、天下という天秤を揺らさないための「記述」へと置換される。

 征服者は、略奪したはずの中華の「ことわり」によって、内側から食い荒らされていた。


「ヤンか……。久しいな」


 王の口から漏れた声は、掠れて、驚くほど生気がなかった。

 ヤンは顔を上げることができない。もし、今の王と視線を合わせてしまえば、そこに草原の面影が欠片も残っていないことを確信してしまうのが怖かった。


「陛下。兵たちは、次の命を待っております。北の砂漠へ戻り、再び馬を駆る日を……」


 王は答えなかった。代わりに、再び龍の椅子が「ギリ、ギリ……」と骨を削るような音を立てる。王がまとった絹の擦れる音が、ヤンの耳には、捕らえられた猛獣が檻を爪で引っ掻く音のように聞こえた。


「砂漠……。あそこには、風があったな」


 王の呟きは、記録官の筆が紙をなぞる微かな音にかき消された。

 王が抱いた刹那の郷愁さえも、この場所では「皇帝の思索」という無機質な記録へと分類され、管理されていく。ヤンは、王の首筋に見えるはずの部族の刺青が、厚い白粉おしろいと高い襟に隠されていることに気づき、胸の奥が焼け付くような痛みを感じた。


 玉座の軋みは、止まらない。

 それは、文字を持たない民が、文字という名の檻によって「飼い慣らされた怪物」へと作り替えられていく、最後の抵抗の叫びのようだった。


 ヤンは、自分が今、かつてのトグが逃げ出した「大邑商」の亡霊が彷徨う、さらに底知れぬ沼へ自ら沈もうとしていることを予感した。龍の椅子の軋みは、ヤンの脳裏で、いつまでも不協和音を奏で続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ