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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十二章:雲の上の咆哮

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第二節:首筋の傷

 肺が焼けるように熱い。

 吸い込む空気は剃刀かみそりのように鋭く、鼻腔の奥で凍りつくような錯覚を覚える。標高を上げるごとに、大気は余分な湿り気や淀みを削ぎ落とし、ただ純粋な冷気へと変貌していった。


 トグは垂直に近い岩場を這い上がり、ついに稜線の頂へと辿り着いた。そこは、雲が下界の大地を厚く覆い隠す、静謐せいひつな世界の果てだった。


肉体の記憶、記号の死

 トグは膝をつき、激しく上下する肩を落ち着かせようとした。視界の端では、ハルが岩陰に腰を下ろし、慣れた手つきで水袋を解いている。彼女の呼吸もまた、この薄い空気に抗うように深く、重い。


 不意に、トグは自分の右の首筋に手をやった。指先が触れたのは、硬く盛り上がった、不整形な皮膚の感触だった。


 そこには、青銅の鎖の傷痕がある。


 それはいんという巨大なはたが、彼を「神に捧げるための供物」として仕分けるために刻まれた印だった。文字を刻まれた瞬間、トグという生命は、山を駆ける一頭の獣であることを許されず、誰かの持ち物、あるいは数え上げられるための「品物」へと作り替えられたのだ。


 だが、今の指先には、あの卑屈な文字のかどはもう感じられない。


 逃亡の果ての野営、牧野ぼくやの決戦での裂傷、そして過酷な山岳の風雪。幾重にも重なり合った傷跡と、剥がれ落ちては再生する皮膚の記憶が、支配者が刻んだはずの「意味」を無残に食い破っていた。


 文字は、誰かに読み取られることで初めてその力を発揮する。だが、判読不能になった文字は、もはや意味を失った「ただのあざ」に過ぎない。記述を失った存在は、あの都の帳簿の中では「死」を意味するが、それは同時に、あらゆる檻から抜け出したことの証でもあった。トグは指先に力を込め、その死んだ傷痕をなぞった。もはやそれは彼を縛る鎖ではなく、生き抜いてきた時間の凸凹に過ぎなかった。


肺を満たす「生」の味

 ハルが黙って水袋を差し出した。トグはそれを受け取り、一気に喉を鳴らして流し込む。水は氷のように冷たく、喉を通り抜ける感触が、自分が今、この過酷な場所で「生きている」ことを強烈に自覚させた。


 トグは目を閉じ、耳を澄ませた。


 遠くで風が鳴っている。それは岩を削り、雲を裂く、地球の呼吸そのものだ。鼻腔を抜けるのは、墨の匂いでも、洗練された香料の匂いでもない。冷えた花崗岩の匂いと、微かな雪の気配。そして、自分の肌から立ち上がる、必死で脈打つ血の匂いだ。


 しゅうの都で感じた、あの「窒息しそうな正しさ」はここにはない。


 自分の名は、文字で書かれた戸籍という名の棚の上にはない。自分の名は、この激しく打つ鼓動の中にあり、地面を掴む指先にあり、ハルの瞳に映る自分の姿の中にだけあった。肉体こそが唯一の真実であり、そこに刻まれた傷こそが、誰にも書き換えられない自分自身の歴史なのだ。


何者でもない存在

「……トグ」


 ハルが静かに声をかけた。彼女の指が、トグの首筋の痣に触れる。


「もう、消えてるね。あの、嫌な文字」


「ああ。ただの傷跡になった」


 トグは小さく笑った。それは、この長い旅の中で彼が見せた、最も安らかな微笑だった。


 雲海の下には、今もなお、新しい「正しさ」を帳簿に記し続ける周の民たちがいるだろう。呂尚りょしょうは木簡を削り、チキは絹の衣を纏って、自分を一族の盾という「役割」の中に閉じ込め続けているはずだ。彼らはこれからも、文字を使って世界を測り、管理していく。


 だが、トグはもう、その計りの中には存在しない。


 周が用意した「良き民」という札も、殷が刻んだ「生贄」という呪いも、すべては雲の下の、重苦しい湿気の中に置いてきた。


「俺は……」


 トグは立ち上がり、雲の切れ間から覗く西の果てを見つめた。


「俺は、ただのトグだ。この風を吸って、この大地を踏んで、いつかこの山の一部になる、ただの生き物だ」


 その言葉は、誰に聞かせるためでもない宣言だった。記述されることで永遠を得るのではなく、記述されないことで「今」という一瞬の自由を勝ち取った者の、静かな咆哮だった。


 首筋の痣が、微かにうずいた。それはかつての痛みの記憶ではなく、新しい皮膚が盛り上がろうとする、力強い生の疼きだった。


 トグは一歩、また一歩と、雲の上の稜線を歩き出した。その足取りは軽く、かつてないほどに自由だった。

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