第三節:人狩りの惨劇
泥の匂いと、焦げた毛の臭いが立ち込めていた。ついさっきまで世界を彩っていた羊たちの牧歌的な鳴き声は、いまや喉を切り裂かれた絶叫と、それを断ち切る重苦しい金属の音にかき消されていた。
*
首にかけられたのは、冷たく、あまりに重い「死の枷」だった。
青銅で作られた鎖がトグの首を締め上げ、皮膚を無慈悲に擦る。その鎖が揺れるたびに、あの澄んだ、しかし心臓を直接掴むような高い音が鳴り響く。
「……おい、こいつの『数』は?」
「昨日の分と合わせて、これで五十だ。あと二十は集めねば、今回の徴発ノルマに届かん。隊長が不機嫌になるぞ」
頭上で交わされる兵士たちの会話は、秋の収穫の過不足を論じる農夫のように淡々としていた。彼らにとって、トグたちが流しているのは「悲しみの涙」ではなく、ただの「歩留まりの悪い液滴」に過ぎない。言葉とは想いを編む歌ではなく、対象を縛り、管理し、切り捨てるための「道具」だった。
トグの視線の先では、部族の男たちが数人ずつ一塊にされ、長い鎖で数珠繋ぎにされていた。
その光景は、市場へ連れて行かれる羊の群れと何ら変わりない。トグが慈しみをもって指先でなぞっていた「命」が、いまや血も涙もないやり方で「在庫」へと書き換えられていく。
「トグ! トグ!」
悲鳴が聞こえた。妹のウナだ。彼女は女たちの列に引き立てられ、兵士に乱暴に髪を掴まれていた。母がそれを必死に遮ろうとして、兵士の足にしがみつく。
「やめろ……放せ……っ!」
トグは叫び、地面を蹴ろうとした。だがその瞬間、首の鎖が激しく引き絞られた。肺から空気が強制的に押し出され、視覚が真っ赤に染まる。
あの時、羊を追わずにすぐに村へ戻っていれば。母さんの手を引いて、もっと早く裏の断崖へ逃げていれば。
トグの胸を焼くのは、兵士への憎悪以上に、己の指先が選んでしまった「一匹の羊」という小さな執着への後悔だった。
そこへ、部族の長老、老いたバルが震える足で立ち上がった。彼は一族に何百という物語を語り聞かせ、星の瞬きから冬の長さを読み解いた賢者だった。バルは地に落ちた精霊の石を拾い上げ、兵士を毅然と見据えた。
「我らは、山の神の愛子なり。汝ら、大地の法を侵すことなかれ……」
バルの声は、高く、澄んでいた。それは一族が何世代も受け継いできた「祈りの歌」だった。だが、兵士はその歌が終わるのを待たなかった。
「うるさいな。この老体はもう『品』にならん。時間の無駄だ」
無造作に突き出された青銅の矛が、バルの胸を易々と貫いた。
肉が裂ける音すらしない。ただ、青銅の刃が骨を砕く、あの「チィィィン」という美しくも忌まわしい金属音だけが、夕暮れの空気に吸い込まれていった。
バルは折れた枯れ木のように地面に崩れ落ちた。彼の口から溢れたのは、神話の続きではなく、ただの赤い肉の塊だった。
「……無価値。処分。一」
書記官と呼ばれた男が、木札に何かを素早く書きつけた。
トグはそれを見ていた。男の手元で、筆が踊る。それは、バルの命が消えたという事実を、たった一筋の「記号」へと削ぎ落としていく作業だった。
名前もなく、物語もなく、ただ「無価値な一」が消し去られたという、冷徹な帳簿上の処理。
トグの心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
それは死への恐怖ではなかった。自分が、そして愛する家族が、これほどまでに容易く「物」へと変えられてしまうことへの、底知れない屈辱。命が、温かな息遣いを持つものではなく、墨で書かれただけの「在庫」として扱われることへの、根源的な拒絶。
(……忘れない。この音も、この泥の味も)
トグは、血の滲む拳を握りしめた。
その中には、さっき奪われそうになった結縄の生き残り――あの怪我をした羊のために結んだ、真っ赤に染まった一本の紐が隠されていた。
本来なら「昨夜、一匹が脚を挫いた」という哀れみの記憶を留めるはずだったその結び目は、いまやトグの手の中で、別の意味を帯びていた。
これは、復讐の誓いか。それとも、失われた世界への最後の未練か。
「歩け。大邑商へ。王がお待ちだ」
兵士の鞭がトグの背中を打ち据え、鎖が再び強く引かれた。
振り返ることは許されない。首の鎖が鳴るたびに、トグの記憶から故郷の歌が一つずつ剥がれ落ちていく。
東の空には、もう星が瞬いていた。かつては精霊の瞳だと信じていたその輝きも、今はただ、冷たい青銅の反射にしか見えなかった。
トグの足元に広がる大地は、もう自分たちの住処ではない。それは見知らぬ「文字」によって管理され、踏みにじられるための、広大な帳簿の海へと変わっていた。
一歩、また一歩と、トグは「文明」という名の奈落へと引きずられていく。
掌に残った紐の結び目だけが、彼が「物」ではなく「人」であった最後の証拠として、皮膚に痛いほど食い込んでいた。




