表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第九章:鹿台(ろくだい)に燃える記号

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/80

第二節:鹿台の対峙

 鹿台ろくだいの頂上は、天に最も近い場所ではなかった。そこは、この世のあらゆる富と、それ以上に膨大な「意味」が堆積した、巨大な墓標であった。


 石段を登り切ったトグを待っていたのは、むせ返るような熱気と、奇妙なまでの静寂だった。眼下の大邑商だいゆうしょうでは、文明が崩壊する断末魔の叫びが渦巻いているというのに、この高楼だけは、時間の流れが凍りついたかのような錯覚を覚えさせる。


 その中心に、一人の男がいた。

 殷の王、帝辛ていしん


 彼は燃え盛る火炉を背に、宝石を散りばめた贅を尽くした衣を纏っていた。だが、その姿は王者の威厳というより、獲物を守る飢えた獣に近かった。周囲には、数え切れないほどの亀甲、獣骨、そして紐解かれた木簡が、まるで防壁のように積み上げられている。


 帝辛は、手元にある一枚の獣骨を血走った眼で凝視し、震える指先でそこに刻まれた溝をなぞっていた。トグの足音さえ、彼の耳には届いていないようだった。


「お前か……。神が刻んだこの『並び』を乱しにきた、数えられぬ野良犬は」


 王の声は、低く、湿った狂気を孕んでいた。彼は顔を上げることなく、獣骨を強く抱きしめる。


「余を殺しに来たか。だが、貴様のような血肉だけの獣に、何ができる。肉体が滅びようとも、余はここに記されている。この骨に刻まれた言葉こそが神であり、この世のすべてだ! 記されぬものは存在せず、記された余は、千年の後までこの大地を縛り続ける不滅のことわりなのだ!」


 トグは、血と泥に汚れた短剣を強く握り直した。

 目の前の男が吐き出す言葉は、トグには理解できぬ呪文のように聞こえた。だが、その抽象的な妄信が、トグの喉を焼く渇きや、仲間の失われた命の重みを、あまりにも軽々と、無価値な「ノイズ」として切り捨てていることに、激しい怒りがこみ上げた。


「……あんたは、ずっとそこから世界を見ていたんだな」


 トグの一歩は、重く、確かな土の匂いを伴っていた。


「その木の欠片、その骨の傷跡が、あんたの正体か? それが、俺たちの流した血よりも、仲間の温かい皮膚よりも重いというのか! あんたが見ているのは『書き付け』であって、人間じゃない。俺たちはあんたの並べた数に従う石ころじゃなかった。腹を空かせ、喉を鳴らし、名前を呼び合って生きていた……『命』だったんだ!」


 トグの叫びは、鹿台の豪華な天蓋を震わせた。王は初めて顔を上げ、トグを凝視した。その瞳には、かつて見たような知性はなく、自分を支える柱が揺らいだことへの、剥き出しの恐怖が浮かんでいた。


 トグは王の首を狙うことはしなかった。代わりに、王の足元に広がる、あの整然と並んだ記述の山へと歩み寄った。


「あんたは、死ぬのが怖いんじゃない。自分の名前が、この世から掻き消されるのが怖いんだな」


 トグは、無造作に一束の木簡を掴み取った。そこには、かつてトグの同胞たちが、どのような順序で神への生贄として殺されるべきかが、美しい文字で執拗に記されていた。


「トグ、何をする! それに触れるな、神の言葉を汚すな!」


 王が絶叫し、己の輪郭を確かめるように虚空を掻いた。


「殺さないさ。あんたを『王』にしているこの呪縛を、ただの灰に戻してやるだけだ」


 トグは、その木簡を背後の劫火ごうかへと投げ込んだ。

 木簡が炎に舐め取られた瞬間、王は自分の手足がもがれたかのように身悶えし、喉を掻きむしった。かつて絶対的な命令として世界を縛っていた文字が、熱に歪み、一瞬の光を放って消え去る。


 次々と、トグは「記録」を炎に投じた。

 亀甲が熱で弾け、パチンと虚しい音を立てる。王が縋っていた「不滅の証」が、ただの煙へと還元されていく。木簡が焼かれるたびに、帝辛という存在を支えていた理の柱が一本ずつ折れ、王は土を這う虫のように震え上がった。


 最後の一枚――トグの部族が滅ぼされた際の記録を、トグは手にした。そこには「羌、数十」という素っ気ない計数があるだけだ。


「……これでおしまいだ」


 トグがそれを炎に落とした瞬間、王は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。宝石の輝きも、王族の威厳も、文字という根拠を失った瞬間に、ただの老いた男の抜け殻へと変貌した。彼は燃え盛る宝物庫の中で、もはや存在しない「文字」を探すように、虚空を必死に掴んでいた。


 トグは背を向けた。

 熱風の中、彼の鼻腔を突いたのは、焦げた木の匂いと、都の湿った土の匂いだった。

 

「さらばだ、文字の中にしか生きられなかった男よ」


 トグは、崩れゆく鹿台の階段を駆け下りた。

 彼の背後で、殷という巨大な「意味の塔」が、轟音と共に崩落していく。そこから立ち上る火柱は、天に記されたどんな星座よりも赤く、激しく、この地に住まう命の熱量を物語っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ