第二節:異文明との接触
それは、音から始まった。
トグたちが「世界」と呼んでいた、風が草を撫で、羊が鳴き、黄河が悠久の唸りを上げる平穏は、耳底を震わせる異質な振動によって亀裂を入れられた。
最初は、遠雷だと思った。
だが、その音は空からではなく、地の下から這い上がってきた。自然界の雷が持つ不規則な爆ぜ方ではない。もっと執拗で、規則正しく、抗いようのない質量の塊が大地を噛み砕きながら突き進んでくるような、重苦しい轟き。
「……山が、吠えているのか?」
トグは、怪我をした羊を抱えたまま、岩陰に身を潜めた。
村へ戻らなければならない。だが、足元の羊が震え、弱々しく鳴くたびに、トグの足はすくんだ。この羊を見捨てて走れば、もっと早く村の異変を知らせられたかもしれない。その「一瞬の迷い」が、トグの心に毒のように回り始めていた。
やがて、峠の向こう側から黄金色の砂塵が湧き上がった。
夕陽を背負い、その「怪物」たちは現れた。
それは、トグの想像力を絶した物体だった。
二頭の馬が、見たこともないほど複雑な木製の「箱」を牽いている。その箱の両脇には、歪みのない完璧な円を描く「車輪」。それが回転するたび、大地は深く、残酷なまでに真っ直ぐな線で抉り取られていく。
トグたちの世界にあるのは、風が削った歪な岩場や、羊が踏み固めた曲がりくねった小径だけだ。そこに、定規で引いたような「直線」を暴力的に持ち込む存在。
戦車だ。
一台、また一台と、その怪物が稜線を越えて姿を現す。上に立つ人間たちは、トグと同じ皮膚の色をしていながら、纏っているものが決定的に違っていた。
彼らの胸や頭には、鈍い緑がかった光を放つ硬い「鱗」のようなものが張り付いている。太陽の光を跳ね返すその輝きは、焚き火の温かみとも、星の煌めきとも違う。それは冷たく、命を拒絶するような、研ぎ澄まされた人工の光。
「――逃げろッ!」
村の広場の方から、誰かの叫びが聞こえた。だが、その声は瞬時に、空を切り裂く「音」にかき消された。
ヒュンッ、という短い風切り音。
次の瞬間、逃げ惑う男の背に、一本の棒が突き刺さっていた。先端に、あの緑色の光を湛えた鋭利な「爪」を持つ、死の枝。
突き刺さる瞬間、トグの耳に届いたのは、肉を裂く鈍い音ではなかった。
――チィィィィィン。
耳鳴りのような、澄んでいて、それでいて神経を逆撫でするような高い金属音。
それが、青銅という「文明」が初めてトグの魂に刻んだ声だった。
「ア、アァ……」
トグの喉から、声にならない呻きが漏れる。村の広場は一瞬にして、蹂躙の場と化した。
だが、それはトグが想像した「戦い」ではなかった。
戦車の上に立つ兵士たちの顔には、怒りも憎しみもなかった。彼らはただ、熟れた果実を摘み取る農夫のような手つきで、あるいは家畜の毛を刈る職人のような手つきで、淡々と矛を振るっている。
「――左翼、三名確保。残りは間引け。時間の無駄だ」
風に乗って届いた兵士の声は、ひどく事務的だった。彼らにとって、この襲撃は神聖な戦いなどではなく、決められた「数」を揃えるための、退屈な作業に過ぎないのだ。
トグは耐えきれず、抱えていた羊を放り出し、村へと駆け出した。
「母さん! ウナ!」
だが、その視界に飛び込んできたのは、地面に転がり、戦車の車輪に無惨に踏みつぶされた自分の「結縄」だった。
一族の歴史を、昨日までの平穏を、誰が誰を愛したかを結び目に込めていたはずの、あの色とりどりの紐が、ただの汚れたゴミとなって泥に埋もれていく。
トグが足を止めたその背後に、巨大な影が差した。
振り返ると、血に汚れた戦車が止まっていた。兵士が、トグを見下ろしている。その手には、黒い墨のようなもので何かが書かれた木札と、鋭い筆があった。
兵士は、必死に自分の結縄を拾おうとするトグの姿を、市場の牛を見るような目で見つめた。
「……まだ若いな。これは『上』に回せる。刻んでおけ」
隣の書記官が、カリカリと音を立てて、木札に何かを刻む。
その「音」は、青銅の鳴動よりもずっと小さかったが、トグにはそれが、自分の魂を檻の中に閉じ込める、もっとも逃れがたい呪文のように聞こえた。
自分が大切にしていた「結び目」は泥に沈み、代わりに、自分を「物」として数えるための「記号」が木に刻まれる。
トグは地面に組み伏せられた。首に冷たい鎖が巻かれる。
その鎖からも、あのチィィィンという、高い音がした。
「おい、その手にある汚ねえ紐は捨てろ。邪魔だ」
兵士がトグの指から結縄を奪い取ろうとした。トグは、初めて野生の獣のような声を上げ、兵士の手を強く噛んだ。
「――っ! この、家畜が……!」
激昂した兵士が鞭を振り上げる。だが、書記官がそれを冷淡に制した。
「よせ。傷をつければ『品』が下がる。そいつは都(大邑商)まで生かして運ぶのが我々の仕事だ」
兵士は忌々しげに舌打ちをし、トグの首の鎖を強く引いた。
トグは泥を舐めながら、手の中に残った一本の、真っ赤に染まった短い紐だけを、血の滲む拳の中に握りしめた。




