第四節:脳内の書庫、暗号化される不滅の記憶
煙の立ち上る広場から吹き下ろす冷たい山風が、ラサの火傷を負った掌を容赦なく打ち据えていた。
水膨れの潰れた皮膚に泥と灰が混ざり合い、脈打つたびに鋭い痛みが手首から肘へと駆け抜ける。だが、その激痛がもたらす覚醒のなかで、ラサの思考は凍りつくほどに澄み渡っていた。
彼は崩れた主塔の影に身を深く沈め、静かに目を閉じた。
視覚を遮断した暗闇のなかで、ラサは自らの頭蓋の内側そのものを、平地の朝廷がどれほど網を広げようとも決して立ち入ることのできない、不可侵の防衛領域として定め直していた。
有形の書面はすべて燃えた。ならば、自らの脳組織を、滅ぼされた大夏の記憶と太古の神話、そして文字なき民の血脈を保管する「生きた書庫」とすればよい。
国家という巨大な思想の仕組みがどれほど精緻な検閲の網を張り巡らせ、全土の帳簿を一律の記号で塗り替えようとも、人間の頭蓋の内に格納された非文字の領域を暴き立てるすべを、彼らは持たない。彼らの統治は、目に見える文字、押収できる紙、解体できる石碑といった「有形の媒体」を監視することでのみ成立している。生身の人間が脳の奥底に秘匿した音律の配列を検閲する帳簿など、平地の制度のどこを探しても存在し得ないのだ。
暗黒の書庫のなかで、ラサは祖父の掠れた歌声を一つずつ手繰り寄せていった。それは、冬の夜に囲炉裏の爆ぜる音を聴きながら、その煙に喉を燻らせて教わった、重く湿ったあの節回しである。
記憶の底から引き出された文字なき民の叙事詩は、単なる言葉の羅列ではなかった。それは、特定の高低、独自の休止、復調の規則、そして喉の震わせ方によってのみ再現される、肉体化された音律の強靭な構造であった。
その流動する音律の隙間へ、かつて羊皮紙に刻まれていたあの複雑怪奇な「西夏文字」の配列が、静かに滑り込んでいく。
文字の幾何学的な骨組みが、チャン語の持つ野生の旋律と結びつき、一文字一文字の異形なかたちが、喉の震わせ方や息の継ぎ方といった肉体の躍動と同化していく。文字を唄の節回しによって隠蔽し、唄を文字の堅牢な骨組みによって護る。視覚と聴覚、図像と身体性が頭脳の中で分かち難く結合したとき、それは国家のいかなる文字論理をもってしても解読不能な、独自の不滅の記憶として完成をみた。
外部から見れば、ラサはただの、打ちひしがれて沈黙する無力な辺境の若者に過ぎない。
腕に紅い腕章を巻いた若者たちがどれほど獰猛な足取りで目の前を通り過ぎようとも、ラサの貌には一切の動揺も、敵意の表出もなかった。ただ、荒く浅い呼吸を静かに調えるたびに、傷口からにじむ血と、煤煙の苦い匂いが現実を繋ぎ止めている。彼の内側で静かに駆動を始めた巨大な記憶の書庫は、あまりにも深く、あまりにも乾燥した静謐さのなかに隠されていたからである。
いかに苛烈なイデオロギーの赤い風が吹き荒れようとも、人間の神経細胞の一本一本に刻み込まれた歴史の残影を、根こそぎ焼き払うことは不可能なのだ。
平地の朝廷が世界の再記述を完了したと宣言するその陰で、文字なき民は自らの肉体を暗号の檻とし、不服従の記録を確実に次代へと退避させていた。ラサは脳内の書庫の扉を静かに、しかし二度と破られぬよう強固に締め直し、立ち上る黒煙の向こうの冷徹な未来を見据えていた。




