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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第四章:渭水の釣客(いすいのちょうかく)

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第二節:文明の背教者

 焚き火の煙が、霧の中に細く、毒蛇のように這い上がる。

 トグは全身を強張らせ、目の前の老人の指を凝視した。その節くれ立った人差し指と親指の付け根に、不自然なほど硬いタコがある。それは、長年重い筆を握り続け、骨や木にことわりを刻み込んできた者だけが持つ「文明のあざ」だった。


「……あんた、あそこにいたのか」


 トグの喉の奥から、低く、獣の唸りが漏れる。

「あの忌まわしい都の奥で、俺たちの仲間を『羊』だと決めて、骨を焼いていたのは……あんたのような連中か」


 呂尚は微動だにせず、ただ真っ直ぐな釣り針を水面へ垂らしたまま、氷のような視線をトグに向けた。

「左様。私はかつて大邑商の深部で、王の代わりに世界のすべてを『名』で縛り上げていた。……だが、絶望したのだ。文字は万物を捉える檻だと思っていたが、今の王は、その檻の中に『腐った未来』しか入れぬようになった」


殺された時間

「腐った……未来?」


 トグが吐き捨てるように問うと、呂尚は焚き火の火をじっと見つめ、静かに、しかし冷酷な声で語り始めた。


「あいつらは木札に暦を刻み、まだ来ぬ春を『何月何日』と決めつける。そうした瞬間に、今この時を流れる風の匂いや、鳥の羽ばたきは死ぬのだ。記録された予定だけが『真実』となり、目の前の草が震える理由は無視される。……文字を持つ者は、文字で書かれたことしか信じぬ。それは、生きた時間を殺して、干し肉のように木札に並べる作業だ」


 トグは、その言葉を理屈ではなく、肌の粟立ちで理解した。

「……分かる。奴らは羊を数えるが、その羊が腹を空かせているか、仲間を呼んでいるかは見ようとしない。ただの『五十』という傷跡を骨に刻めば、それで仕事が終わったと思っている。あいつらは、目の前の命を一度も見ていない」


 トグの言葉には、泥を啜り、仲間を失った者だけが持つ「土の重み」があった。

「俺たちの山では、風が止まれば何かが来る。草が倒れれば誰かが通った。それは書き残すことじゃない、その時、この体が震えて教えることだ。奴らはその震えを忘れて、木の板ばかりを拝んでいる」


呂尚の観察眼

 呂尚の口角が、わずかに吊り上がった。それは笑みというより、獲物の喉元に牙を立てる位置を確認した猟犬の表情だった。


「面白い。……文字に魂を食い殺されながら、これほど鮮やかに『空白』を語る獣は初めてだ」


 呂尚はトグを救うべき同胞としてではなく、精巧なからくりを調べるように冷徹な目で観察した。

「だが、お前のその『肌の震え』が、文字という名の怪物に勝てると思うか? 奴らは木札一枚で万の軍勢を動かし、お前のような一匹の獣を、砂粒のように押し潰すぞ。文字なき知恵など、文明の車輪の前ではただの泥に過ぎん」


 トグは岩を掴み、指先に血が滲むほど強く握りしめた。

「泥で結構だ。車輪を滑らせ、奈落へ叩き落とす泥になってやる」


真っ直ぐな針の盟約

 呂尚はゆっくりと竹竿を上げた。糸の先で、真っ直ぐな青銅の針が月光を跳ね返し、鋭く光る。


「ならば試してみよう。……お前という泥が、私の『理』を食らい、大邑商の檻を内側から錆びつかせることができるかどうか」


 呂尚は、その直針ちょくしんをトグの目の前に差し出した。

「この針は曲がっておらぬ。無理に命を引っ掛ける文字とは違い、これには意志ある者しか食らいつけん。……この針を呑むことは、文字という病を知り尽くした私の軍略を、お前の野生に注ぎ込むということだ。それは、もはや純粋な山の民には戻れぬことを意味する。それでも食らうか?」


 トグは、その鋭い青銅の先端を見つめた。

 これを呑めば、自分はもう、風の音だけに耳を傾けていた頃のトグには戻れない。文明という毒を以て文明を制する、呪われた戦士になる。


 背中を、大邑商で焼かれた同胞たちの冷たい灰が押した気がした。


「……食ってやるよ」


 トグは荒々しく手を伸ばし、呂尚の手からその針をひったくるように受け取った。

「あんたの理とやらが、あいつらの木の板を全部叩き割れるってんなら、俺の魂くらい幾らでも汚してやる」


 呂尚は満足げに目を細めた。その瞳には、かつて王宮で見たどの高貴な者よりも深い、暗い悦びが宿っていた。


「よろしい。……文字なき軍勢が、文字に溺れた帝国を食い破る。その最初のひび割れを、今ここで始めよう」


 霧が晴れ、東の空から白んだ光が渭水の水面を照らし出した。

 泥まみれの戦士と、文字を捨てた軍師。

 二人の影が重なった時、殷王朝という巨大な「文字の檻」に、決定的な崩壊の予兆が刻まれたのである。

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