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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十五章:墨の決死隊、経典の巡礼

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第三節:黒い風、追跡の盤面

 ゴビ砂漠の夜は、生き物の気配を根こそぎ削ぎ落とす。

 アシャたちの耳を打つのは、ただ冷たい風が砂の斜面をなでる「サラ、サラ」という無機質な摩擦音だけだった。だが、その静寂の底には、彼らを確実に、一歩ずつ追い詰める巨大な論理の網が張られていた。


 モンゴル軍の斥候チェルビは、決して感情で動かない。

 彼らにとって、興慶府から脱出した「西夏の生き残り」の追跡は、怨恨えんこんや報復といった人間的な熱量によるものではなかった。それは、新しく構築されるハーンの世界地図から、解読不能な「ちり」を完全に消去するための、冷徹な事務手続きに過ぎなかった。


 彼らが用いる索敵網は、残酷なまでに合理的だった。

 人間の肉体が維持されるために必要な一日の最低限の水量、重い皮袋を背負った僧侶たちの平均移動速度、そしてこの周辺に存在する数少ない涸れ井戸やオアシスの位置――。

 それらの数値を冷酷な算式に代入すれば、逃亡者が「どこにいるか」ではなく、「どこにしか存在し得ないか」が自動的に導き出される。


「逃亡経路の読み、変更なし」


 夜の闇の中、等間隔に配置されたモンゴルの十人隊ハラウが、互いに松明たいまつを掲げることもなく、ただ星の配置と砂の沈み具合だけを頼りに包囲網を狭めていく。

 彼らは網を絞る漁師のように淡々と、だが確実に、アシャたちの生存確率を零へと向かわせる「排除の差配」として機能していた。そこには、意思の疎通を拒絶する「天理」の如き冷酷さが横たわっていた。


「……来る」


 砂丘の窪みに身を伏せていたアシャは、突如として喉の奥がキュッと締まるような強烈な悪寒に襲われた。


 五感が、過敏なほどに周囲の歪みを察知していた。

 凍える夜風のなかに、ほんのわずか、いつもの砂漠にはあり得ない異質なものが混ざり合っている。それは、乾燥した大草原を何百里も駆け抜けてきた軍馬の強烈な汗の脂、開いた毛穴から立ち上る獣の熱、そして、何人もの血を吸って赤黒く錆びついた武具の、冷たい鉄の匂いだった。


「皆、息を殺せ。砂と同化するんだ」


 アシャは囁き、背中にかついだ羊皮紙の袋をいっそう強く地面に押し付けた。


 ズズ、ズズ……と、大地の底から伝わってくる微弱な地鳴り。それは馬のひづめが砂を噛む音だ。馬たちはいななくことすら禁じられているのか、ただ重い呼吸の音だけが、黒い風に乗ってカサカサと響く。

 すぐ上の砂丘の尾根を、影が通り過ぎていくのが見えた。月光を浴びて鈍く光るかぶと、検地でもするかのように冷徹な目線で周囲を見据える斥候の目。


 アシャの隣で、若い僧侶の身体がガタガタと震え、衣服が砂と擦れる微かな音がした。アシャは咄嗟とっさにその肩を組み伏せ、己の体温でその震えを抑え込んだ。心臓が胸の内で狂ったように太鼓を打つ。

 もし今、一歩でも足跡を見つかれば、彼らが抱く大夏の魂は、すべてその場で肉片へと変えられてしまうだろう。肌があわ立つような、生と死の境界線がそこにあった。


 影が去ったあとも、アシャの算術は絶望を弾き出し続けていた。

 今通り過ぎたのは第一陣に過ぎない。敵の冷徹な先読みは、こちらの移動を制限するために、すでに前方のオアシスへのルートを全て封鎖しているはずだった。


「アシャ殿、前方の網の目はさらに密になっています」学士の一人が、血の気の失せた顔で告げた。「彼らは我々を探していません。ただ、我々が通らざるを得ない地点に、先に駒を張って待っているのです」


「分かっている」


 アシャは乾いた唇を噛み締めた。

 モンゴル軍の恐ろしさは、武力の多さではなく、その「思考の無駄のなさ」にある。彼らは西夏の文化を憎んで滅ぼしたのではない。ただ、管理する上で「不必要に複雑なもの」を切り捨てたのだ。そして今、その合理の刃が、文字の盾を抱えた自分たちの首元に正確に突き付けられている。


 逃げ道は、もはや盤上から幾何学的に消滅しつつあった。このまま進めば、敵の計算通りに包囲網の中心へと誘い込まれ、文字通り処理される。生き残るためには、敵の算式を根底から裏切る、全く別の「解」を選択するしかなかった。

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