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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第四章:渭水の釣客(いすいのちょうかく)

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第一節:泥にまみれた彷徨(さまよい)

 水は、名前を持たない。

 ただ重力に従って低きへと流れ、岩を削り、泥を運び、一切の容赦なく命を押し流す。そこには「善」も「悪」もなく、ましてや王が木札に刻み、固定しようとする「秩序」の欠片もなかった。


 トグは泥の混じった飛沫を吐き出し、渭水いすいの湿った岸辺に這い上がった。

 指先が掴んだのは、大邑商だいゆうしょうの整然と切り出された石畳ではない。ぬらぬらと指の間から逃げていく、名もなき大地の粘土だ。


 彼はそのまま、死んだ魚のように動けずにいた。背後では、はるか遠く、夜空の一部が未だに赤く染まっている。自分が放った火が、あの「文字の檻」を焼き続けているのか。あるいは、逃げ遅れた同胞たちの魂が、煙となって天へ昇っているのか。


 意識の混濁の中で、耳の奥には未だにあの音がこびりついて離れなかった。


――カリ、カリカリ、カリ……。


 骨を削り、羊と人を混ぜ合わせ、命を「きょう」という記号へ閉じ込める刻刀の音だ。トグは震える手で、自分の首筋をなぞった。鎖はもうない。だがその皮膚には、鎖が食い込んでいたあとが、消えない醜いあざのように残っている。


(……奴らは、俺を書き換えたんだ)


 肉体の傷なら、山に帰れば塞がるだろう。だが、一度あの「文字」という毒に触れた魂は、毒を飲まされた羊のように、内側からじわじわと腐っていく感覚があった。

 都の連中は、暦と呼ばれる木札で時間を刻み、今日という日を「殺して」記録の中に保存する。トグを苦しめているのは、逃走の疲労ではない。自分という人間が、都の帳簿の上で「死んだ在庫」として定義されてしまったという、得体の知れない気味悪さだった。


「……墨だ。墨が、こびりついている」


 トグは呻き、傍らの水たまりに顔を突っ込んだ。自分の血管を流れているのは、もはや山の清らかな血ではなく、あの書記官たちの筆から滴り落ちる、世界を黒く塗りつぶす「死んだ言葉」ではないか。

 爪の間に泥が入り込むのも構わず、彼は自分の皮膚を掻きむしった。だが、どれほど洗っても、鼻の奥に居座る「焼けた肉と墨の匂い」は消えなかった。


釣客の影

 夜が深まるにつれ、霧が渭水を白く覆い隠していった。

 トグは、泥まみれの拳を地面に叩きつけた。


「……食ってやる」


 誰にともなく、彼は呪詛を吐いた。

「お前たちが木札の上で俺たちを殺すなら、俺は泥を食い、獣になって、その板切れをすべて噛み砕いてやる」


 その時だった。霧の向こう、水の音に混じって、奇妙な音が聞こえてきた。


 カタ、リ。

 カタ、リ。


 それは、都の太鼓のような威圧的な音ではない。神殿の刻刀のような冷たい音でもない。木と木が、あるいは石と木が、ごく自然に、しかし明確な意志を持って触れ合う音。


 トグは獣のように首をもたげた。霧の向こう、水際に突き出した岩の上に、一人の老人が座っていた。

 老人は白い衣を纏い、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。その姿は、周囲の風景と異様なほど調和していながら、同時に、世界のどこにも属さないような異質さを放っていた。


「……何をしている」


 トグの声は、自分でも驚くほど掠れていた。老人は振り返らなかった。ただ、静かに流れる渭水を見つめたまま、独り言のように言った。


「魚を釣っているのではない。……墨の臭いのする『迷い子』を待っていたのだ」


 その声は、トグの荒れ果てた心を見透かすような、残酷なほど澄んだ響きを持っていた。老人はゆっくりと、手にした竹竿を上げた。その糸の先には、針もなければ餌もない。ただ一本の、真っ直ぐな青銅の針金が付いているだけだった。


「針が……真っ直ぐだ」


 トグが吐き捨てると、老人はようやく顔を向けた。その瞳は、知識を蓄えた者の温かみなど微塵もなく、ただ冷徹に、トグという「標本」を観察する者の目だった。


「曲がった針は、無理やり命を引っ掛ける文字と同じよ。だが、この真っ直ぐな針には、意志ある者だけが自ら食らいつく。……さて、お前はただの逃げ出した家畜か、それとも己の運命を食い破る意志を持った『人間』か。どちらだ?」


 トグは、その真っ直ぐな針を睨みつけた。

 この老人が、あの神殿の神官たちと同じ、あるいはそれ以上の「ことわり」を宿していることは、言葉を介さずとも肌の産毛が伝えてきた。

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