第一節:黄河上流の日常
歴史は、文字に残されたものだけで作られる。
王の命令。
戦の勝敗。
王朝の興亡。
それらは木簡や書物に刻まれ、「歴史」として後の時代に伝えられる。
だが、文字に残されなかった人々はどうなるのだろう。
中国の史書には、ときおり「羌」という名が現れる。
山に住む民。
従わぬ者。
反乱を起こす異民族。
彼らは記録の中で、いつも背景として現れ、やがて消えていく。
しかし、その外側にも人々の生活があったはずだ。
風の音を聞き、獣を追い、死者を弔い、歌を歌う日々が。
この物語は、そんな羌族の側から見た古代中国の物語である。
王にもならない。
天下も取らない。
多くの場合、敗れて山へ退く。
それでも彼らは消えなかった。
文明が文字を広げ、
秩序を広げ、
世界を記述しようとするその外側で、
名を持たない時間が続いていた。
この物語は、その時間の断片である。
世界には、まだ「言葉」が閉じ込められる前の、剥き出しの音が溢れていた。
黄河の上流。空の重みが肩にのしかかるほど高く、切り立った山々の合間に、トグたちの一族はいた。そこでは、あらゆるものが「歌」として呼吸していた。風の唸り、土の乾き、そして羊たちの命の震え。それらは記されるべき記録ではなく、ただその身で受け止めるべき「生」そのものだった。
*
夜明けの光が、赤茶けた断崖を獣の血のような薄桃色に染める頃、トグは冷え切った大気を肺の奥まで吸い込んだ。空気は薄く、研ぎ澄まされた石刃のように鼻腔を刺す。
トグはまず、耳を澄ます。
遥か下方、谷底を這う黄河の濁流が立てる低い唸り。それは大地の腹の底から響く脈動だ。風が西から吹けば、それは雪解けの湿った重みを運び、北から吹き降ろせば、砂漠の乾いた砂を肌に叩きつける。文字を知らぬトグにとって、風は季節を告げる伝令官であり、雲の形は数日後の獲物の多寡を教える「空の表情」だった。
「トグ、紐は持ったかい?」
天幕の影から、羊の脂の匂いとともに母の声が届いた。
トグは腰に下げた「結縄」を無意識に握った。さまざまな色に染められた羊毛の紐を束ねたものだ。指先に触れる結び目の大きさ、位置、そして紐のざらつき。それがトグの世界のすべてだった。
「今日の白羊は四十二。……でも、昨夜一匹、崖の隙間に脚を挟まれたやつがいる。そいつの分は、まだ結び目を作っていないんだ」
トグが答えると、母は少しだけ眉をひそめた。
「連れ戻せるのかい? 迷い羊は、山の神が欲しがっている印かもしれないよ」
「……あいつは、俺が一番可愛がっていた子だ。次の新月の祭りには、あいつの毛を一番に刈ってやると約束したんだ」
トグは、腰の紐の端を強く握りしめた。本来、群れから遅れた弱った羊を深追いするのは、この峻険な地では禁忌に近い。だが、トグは自分の指先に残る、あの羊の柔らかな体温を「結び目」として残したかった。
彼らにとって、数を数えることは、神から預かった命の重さを指先でなぞる儀式だ。一族の古い歌は教える。最初の人間は、天の頂に住む「大いなる羊」の涙から生まれたのだと。
「我らは羊。高い山の草を食み、天の声を聴く者。
羊は神の愛子。その毛は雲となり、その肉は我らの血となる」
この「羊の歌」を口ずさみながら、トグは一人、群れの進路から外れて崖の下へと降りていった。
足元には、先祖たちが積み上げた「白い石」のケルンが点在している。トグは、最も高い位置にある石積みに、新しい小石を一つ置いた。
「今日だけは、山が静かでありますように。あいつを連れて帰るまで」
だが、その願いが、この土地の精霊ではなく、遠い異郷の神に届いてしまったことを、トグは知る由もなかった。
岩陰で、脚を血に染めて震えていた白羊を見つけたとき、トグの鼻腔を「異質な臭い」が突いた。
それは、焚き火の煙でも、家畜の糞の臭いでもない。何かが焦げ付いたような、吐き気を催すほどに重苦しい、未知の「獣」の臭い。
ふと、谷の向こう側を見やったトグの目が凍りついた。
一筋の、見たこともないほど真っ黒で太い煙が、一族の住処がある方角から立ち上っていた。
「……母さん?」
トグは動揺し、抱え上げた羊の脚を強く握りすぎてしまった。羊が悲鳴を上げる。
その時だった。
風の音が、死んだように止まった。
代わって届いたのは、地響きのような、重く、硬い、聞いたこともない「唸り」だった。
それは、大地の底から湧き上がる不浄な音。
トグは、本能的に自分の結縄を強く握りしめた。だが、指先が震え、どの結び目もその「音」を捉えることができない。それは、トグたちの知る「自然」のどこにも居場所のない音だった。
遥か東の地平線、黄河が平原へと流れ落ちるその先から、黄金色の砂塵が舞い上がっている。
その砂塵の中に、トグの目には「太陽の破片」が地面を這っているように見えた。あまりに真っ直ぐな、あまりに冷たい、命を拒絶するような光の列。
それは、文字を持つ文明が、野生を蹂躙するために鋳造した「青銅」の輝きであった。
トグは羊を抱えたまま、足を震わせた。
もし、あの怪我をした羊を放っておいて、すぐに村へ戻っていたら。
もし、自分の指先が、たった一匹の「数」に執着しなかったら。
そんな後悔が、まだ名付けられぬ泥のような感情となって、トグの胸を焦がし始めていた。




