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第16話 アキの迷子

 朝の空気は冷たく、粉の匂いに柑橘のような鋭さが混ざっていた。

 アーケードの天幕がかすかに鳴り、パン屋のオーブンが低く唸る。結城トワは、紙のチェックリストの一枚目を親指で弾いて、HUDの薄い光と見比べた。呼吸は四拍、歩幅は七十センチ。優先順位は、パン・駅・保育所・市場の順。

『停止案件、青が二。パン屋の支払い端末レスポンス低下、駅西の案内灯ちらつき。いつも通り率、八十六・七%』

 端末のミカは、いつもの平坦さで告げる。

「了解。アキ、先にパン屋行って。俺は駅の灯を見てから追う」

「了解。十分で戻る」

 灰原アキは、メッセンジャーバッグの口をキュッと絞り、踵で地面を鳴らす。いつも通りの速さ、いつも通りの角度。トワが紙をしまうより先に、彼女は既に横断歩道の白い帯を一つ目で渡り終えていた。

 その背中が、二つ目の白い帯にかかったところで、ふと止まった。

 アキの右足が、脳の命令から半歩だけ遅れて上がり、空中でもたついた。

 彼女は周囲を見回した。パン屋の看板は彼女の正面にある。いつもどおり、朝焼け色の電球と、黒板のメニュー。

 でも、アキの身体は、そこで進まない。

 トワは、呼吸の四拍をそのまま保ち、歩幅だけ少し広げて追いついた。

「どうした?」

「……パン屋が、右にあるはずだって、身体が言ってる」

 アキは自分の胸を人差し指で軽く叩いた。

「左にある現実を、身体が認めてくれない」

 トワは言葉を探し、見つけられなくて、代わりにチョークを出した。アスファルトの白い亀裂の横に、矢印を描く。

「今日はこっち。『現実のパン屋』は左」

 アキは矢印を見て、頷いた。けれど、その頷きに、いつもの軽さはなかった。

「了解。……ごめん。遅れた」

「遅れてない。『確認した』」

 彼女は小さく笑い、その笑みもいつもより一段浅かったが、足は戻った。左のパン屋に、正確に向かった。

     ◇

 パン屋の黒板の端に、昨日の黒枠の跡が薄く残っていた。白い花は新しく、花瓶の水は透きとおっている。

「おはよう」

 老夫婦が同時に言う。夫の手にはカードリーダー、妻の手には焼き立てのトング。

「端末、遅いね。二秒くらい」

「二秒は長い」と妻が言い、夫が笑う。「二秒“も”長い、だな」

『原因、端末側のログ詰まり。再起動提案』

 ミカの提案を受け、トワはメニューの裏の小さなスイッチを押す。

「再起動します。三十秒。現金の袋、手前に置いておいてください。『小銭は後精算で』」

 普段は言いづらい言い回しを、「お願い」に変えて配る。列の先頭の青年が、頷いて財布をポケットに戻した。

 その間、アキは店の奥の棚を素早く数え、端パンの山を高く美しく組み直していた。メッセンジャーバッグの肩紐が、肩の骨の位置で正しく固定されている。動きに迷いはない。

 トワは安堵する——が、その安堵は短かった。奥の棚から戻ってきたアキの視線が、ふいに宙を泳いだのだ。

「……ここの棚、いつも何段だった?」

「四段」

 即答できた。チェックリストの欄外に書き込む数字を、指先が覚えている。

「今は三段。上段は“ありがとう欄”になったから」

「そっか」

 アキは笑ってみせる。その瞳の奥で、小さな警報が鳴っている。現実の棚の段数が、体内の地図と擦れ合って、微かな音を立てていた。

『停止案件、青が一移行。駅西の案内灯、手動に切り替え』

「駅、行ってくる」

「私は、ここで“ありがとう欄”を回す。……トワ」

 アキは、トワの袖を短くつまんだ。

「今日、私は、少しだけ“迷子”かもしれない。だから、もし私が変な方向へ歩いたら、矢印を描いて」

「描く。何本でも」

 短く交わして、分かれる。

     ◇

 駅西の案内灯は、やっぱり切れていた。

 トワは「手で作る矢印」を三人に頼む。一人は駅員、一人は高校生、一人はベビーカーを押す父親。

「人の矢印を三つ並べる。『人を見る』を、今日の案内灯にする」

「了解」

 駅員は深く頷き、高校生は照れながらも腕をまっすぐ伸ばした。ベビーカーの父親は、赤ん坊の視線が矢印の先へ動くのを見て少し笑った。

『いつも通り率、八十七・一%。人矢印、観測』

 ミカが読み上げる音が、少し柔らかい。

「ありがとう。次」

 チェックリストに一行足し、角を折る。

 戻る途中、アーケードの柱の陰で、アキが立ち止まっていた。

 黒板に並ぶ“ありがとう欄”の前で、彼女はチョークを持ち、動かない。

 紙コップのコーヒーから上る湯気のように、迷いがゆっくり上っている。

「アキ?」

「……“ありがとう欄”、何を書けばいいのか、分からない」

「いつも書いてるだろ」

「いつも、書ける。でも今、書こうとしたら、頭の中に出てくる“ありがとう”が、全部『昔の街』のものだった」

 アキはチョークの白を見つめる。

「『この曲がり角』とか、『このシャッターの錆び方』とか、『このパンの焦げ目の形』。それらが、少しずつ違う。私の“身体の地図”と合わない。……私は、この街の“現実のいま”を、ちゃんと覚えていないのかもしれない」

 トワは、言葉を選ぶ。

 段取り、手順、優先順位——それらが、いま、彼女には届かない。届かないまま押しつければ、彼女の内側の地図を余計に乱すかもしれない。

「書かなくていい」

 そう言いながら、ペン先をアスファルトに落としたような感覚があった。

「今日は、アキは“ありがとう欄”じゃなくて、“矢印係”になってくれ。俺が書く」

「でも」

「“待つ”の係も、ほしい。『待つ場所』を作る。……段取りの中に“待つ”を入れる」

 アキは少し目を見開き、次に小さく笑った。

「それ、難しいやつ」

「難しいから、必要だ」

 チョークを受け取り、トワは“ありがとう欄”の上に新しい項目を書いた。

 〈“待ち椅子”を置きました。すこし座って、すこし見て、すこし思い出してください〉

 パン屋の老夫婦が、店の奥から古い丸椅子を二脚持ってくる。ひとつは子どもが描いた花のシールでいっぱい、もうひとつは脚が一本だけ少し短い。

「これでどう?」

「最高です」

 アキが椅子の向きを調整し、通路を塞がない角度に少し斜めに置く。

「“待つ”の角度」

 彼女は、そう言って、自分も一度だけ座った。背中が緩んで、肩の筋肉がふっと解ける。

「こうやって座ってると、昨日の黒枠の位置を“身体”が覚える。今日の光の色も、嗅ぎ分けられる」

『停止案件、青が一。市場裏、搬入口の認識エラー。荷が迷子』

「俺、行ってくる」

「私は、“待つ場所”の看板を増やす。『ここで会いましょう』を三カ所」

「頼む」

     ◇

 市場裏の搬入口は、普段より声が高かった。プラスチックのパレットが床を擦る音、人が呼び合う声が重なる。

 搬入口のカメラAIは「ここは閉鎖中」と表示している。だが現実には、今日はここを使わなければ、日配の牛乳が昼に間に合わない。

「ここのAIが『閉鎖』って言ってるから、みんな右の狭いほうへ並んでしまうんだ」

 店主が眉を寄せる。

「『広いほう』、使えるのに」

『原因、地図更新の巻き戻り。再起動は高負荷。手動フラグ推奨』

「手で、“開いてる”を作る」

 トワは段ボールを切って大きな矢印を作り、三ヶ所に立てた。

 さらに、アキの真似をする——「人の矢印」。

「三分だけ、人の矢印ください」

 肉屋の兄ちゃん、八百屋の姉さん、花屋の店員。それぞれが腰に手を当て、腕をまっすぐ伸ばした。

「こっち、こっち」

 人の声は、AIよりも遅い。でも温度がある。

『いつも通り率、八十七・八%。荷の流れ、回復。……しかし、灰原アキ、位置異常。パン屋から北へ四十メートル、既定ルート外』

 トワの心臓が、少し跳ねた。

「ミカ、視界」

 端末に、北の路地の薄暗い映像が映る。アーケードの継ぎ目から外へ出た先。人通りの少ない、植え込みのある小道。

 アキは、立っていた。両足を肩幅、肩は低く。視線は右へ、左へ。

「“矢印”を探してる」

 トワは走った。呼吸の四拍は崩さない。歩幅は伸ばす。

「アキ!」

 呼ぶと、彼女は振り返る。

 その目は、空腹な犬が飼い主を探すときの目に似ていた——まっすぐで、頼り方を間違えない目だ。

「ごめん。『待つ場所』の看板、増やしに行く途中で、……『西の角』って、身体が言うから、曲がった。そしたら、ここに出た。ここ、……知らない匂い」

 トワは周囲の匂いを吸い込む。湿った土、鉄錆、細かい油の匂い。植え込みの下草は昨日の雨をまだ少し含んでいる。

「知らない匂いは、悪くない」

「うん。でも、“いつも通り”じゃない」

 彼女の声が、一段低くなる。

「私さ、たぶん、“現実の地図”が薄い。ヴェアの中での『街』の地図は、鮮明にある。でも、『いま目の前の街』の地図は、穴だらけ。穴を埋めながら走ってた。でも今日は、埋める材料が足りない」

 トワは、ポケットからチョークを出す。

 アスファルトに、矢印を描く。

 それから、文字で書く。

 〈待つ〉

「ここを、『待つ場所』にする。間違って曲がった人が、戻って来やすいように。『待つことが、戻る手伝い』になるように」

 アキは肩で笑った。

「トワ、今日は、やたらと良いコピーを出す」

「コピーは、広げると“現実”になる」

「うん」

 彼女は矢印の先に立ち、両手を広げる。

「“人の矢印”、一分、やる」

 すぐに、老夫婦がやってきた。

「ここが、『待つ場所』なの?」

「はい。『すこし座って、すこし見て、すこし思い出してください』」

 丸椅子が一脚、誰かの手から回ってくる。アーケードの端から端へ、椅子が人の手を渡って、この路地に届く。

 老夫婦が腰を下ろし、ふうと息をつく。

「雨上がりの土の匂いなんて、久しぶりだ」

 ベビーカーの赤ちゃんが、植え込みの葉を握って笑う。

 その笑い声で、路地の空気が一度だけ柔らかくなった。

『停止案件、緑。市場裏、解消。……新規、灰。保育所の外部スピーカー故障。遠足の合図が聞こえない』

「保育所へ」

 トワが言うと、アキが頷いた。

「“待つ場所”は、ここまで。三十分おきに巡回。看板の文字、三行で」

「了解」

     ◇

 保育所の庭は、朝の湿気をまだ抱いていた。ブランコの座面が冷たく、滑り台は昨日拭いた布の香りがする。

 外部スピーカーは沈黙。遠足の合図を“目”でやる必要がある。

「『旗』が必要だね」

 青年保育士が言う。

「赤、青、黄色。順番で“進む・止まる・待つ”」

「“待つ”を入れると、列が短くなる」

「短くてもいい。今日は、長さより、落ち着き」

 赤い旗で一組、青い旗で二組。黄色い旗が上がると、子どもたちはしゃがんで地面に絵を描き始める。

「『待ってる間、遊んでいいよ』」

 トワは、自分で言いながら驚いた。

 いつもなら、「待ち時間の短縮」を最優先にする。でも今日は、「待ち時間の質」を入れたいと、身体が言った。

 アキは、黄色い旗の前でしゃがむ。

「“待つ”のゲーム。目を閉じて、音を三つ探す」

「おと!」

「風」「鳥」「パン」

 園児が叫び、笑い、指を空に向ける。

 アキは、目を閉じた園児たちの真似をして、ほんの少しの間、自分の目も閉じた。

 彼女の肩の力が、すっと落ちる。

「……いまの『パン』は、どこのパン?」

 園児のひとりに尋ねる。

「角の! 黒板の!」

「『現実のパン屋』の匂い、届くんだ」

 アキは、少しだけ息を吐いて笑った。

「覚えた」

『いつも通り率、八十八・三%。“待機時の騒音”、低下。……新規、青。駅東、合図混線。人の矢印が足りない』

 青年保育士が、旗を肩に乗せたまま、トワに問う。

「“待つ”を覚えた子たちなら、駅でも“待てる”?」

「試す価値はある」

 アキが立ち上がる。

「子どもたち、駅の“時刻板係”を今日は『待つ係』にする? 黄色の旗を持って、『深呼吸の合図』をする」

「やれる」

 保育士は即答した。

「十五分だけ、交代で」

 トワはHUDにメモを入れる。

 〈待つ→混線をほどく〉

 手順書にはない矢印が、一つ増えた。

     ◇

 駅東。

 人の矢印は二本だけ、通勤の波に呑まれかけていた。

「黄色の旗、配置」

 アキが声を張る。

 園児たちが黄色の旗を上げると、人の流れが一呼吸ぶんだけ落ち着く。

「旗が上がったら、深呼吸」

 子どもが叫び、大人が笑う。誰かが真似をし、誰かは恥ずかしそうに肩だけ上下させる。

 混線していた列が、綺麗に三つに割れた。

『いつも通り率、八十九・一%。混線、解消』

 ミカの声が、ひそやかに柔らかくなる。

『……灰原アキ、心拍、落ち着き。皮膚電気反応、平常』

 トワは、ちらりと横を見る。

 アキは、人の流れの少し外で、黄色の旗の先を空へ向けていた。

 彼女の目の焦点は今日はよく揺れたけれど、いまは、遠すぎない何かにちゃんと合っている。

「トワ」

「ん」

「『手順では救えないもの』、あるね」

 アキは、旗を少しだけ下げ、握り直す。

「たとえば、今朝の私。手順を一つも間違えなくても、迷子だった。私が“現実の街”を覚えていない、という事実は、手順じゃ変わらない」

「……うん」

「でも、手順の外側に、『待つ』を入れると、変わる。『待つ』って、空白じゃないんだね。『空白に街が入ってくる時間』なんだ」

 トワは、頷いた。

 言葉が必要ない種類の理解が、二人の間に落ちて、そこで止まらずに流れた。

「今日の段取りに、『待つ』を正式に入れよう」

「入れよう。『三つの待つ』」

「三つ?」

「“人のために待つ”“自分のために待つ”“街のために待つ”」

 アキは、指で三つ折りを作る。昔、紙で三角を折ったときの手つきを、身体が覚えている。

「『人のために待つ』は、列の譲り合い。『自分のために待つ』は、矢印を探す時間。『街のために待つ』は、音や匂いを身体に入れる時間」

「いい」

 トワはHUDの新しい欄に、三つの“待つ”を書き込んだ。

『保存完了。新規プロトコル“WAIT-3”』

 ミカが、小さく読み上げる。

『……いい名前』

 珍しく、感想がついた。

     ◇

 午後。

 “待つ場所”の看板は三カ所に増えた。パン屋の角、保育所の門、駅東のベンチの横。

 どの場所にも、丸椅子が一脚ずつ置かれ、黒板の端には小さな花瓶がある。

 人々は、そこで短く座り、短く深呼吸し、短く思い出す。

 老夫婦は「昔、子どもが小さかった頃のベビーカーの重さ」を、喫茶店のマスターは「今朝の豆の焙煎の音」を、夜勤明けの清掃員は「誰もいない廊下の匂い」を、それぞれ言葉にして、“ありがとう欄”は今日も埋まっていった。

 アキは、看板の前で時々立ち止まり、目を閉じて三つの音を数えた。

 風。パン。旗。

 そして、もうひとつ。

 トワの呼吸。

 四拍で吸って、四拍で吐く。それが彼女の右斜め前で安定していると、現実の地図の穴が、少しだけ小さくなる。

『停止案件、緑。市場、保育所、駅、安定。いつも通り率、八十九・七%』

「今日の“いつも通り”を数えようか」

 日が傾き、アーケードの天幕に斜めの光が差し込む時間。二人の合図で、いつもの締めに入る。

「一、“待つ場所”ができた」

「二、“人の矢印”が増えた」

「三、保育所の旗で、遠足が進んだ」

「四、“ありがとう欄”に、『待ってくれてありがとう』が増えた」

「五、……迷子が、少し減った」

 アキは、そこで一呼吸置き、笑う。

「六、私が“現実のパン屋”の位置を身体で覚えた」

「七、俺が『待つ』を段取りに入れた」

 数字が、いつもより滑らかに重なっていく。

 ハイタッチはしない。

 代わりに、今日は“待つ”ように、視線で頷きを交わす。

 HUDの隅で、数字が安定する。

 ミスも穴も、残っている。アキの“現実の地図”にだって、たぶん大きな穴がいくつもある。

 けれど、穴はすべて悪ではない。穴があるから、そこに椅子を置ける。花瓶を置ける。矢印を描ける。人が座って、深呼吸ができる。

 トワは紙のチェックリストの余白に、太字で書いた。

 〈待つ〉

 そして、その下に小さく。

 〈待つ=空白ではなく、回復の段取り〉

 チョークの粉が指につき、パンの粉と混ざる。

 アキが空を見上げる。

「ねえ、トワ。『明日も同じ時間』って、すごい言葉だね」

「そうだね」

「今日みたいな日が続けば、私は“地図”を作り直せる」

 彼女は自分の胸を二度、軽く叩いた。

「身体にも、頭にも。……“いつも通り”を、身体で覚える」

「覚えよう」

 トワは、彼女の手の甲を、一瞬だけ片手で包む。

 温度は確かで、矢印よりも確かだ。

『いつも通り率、八十九・九%』

 ミカが、最後の数字を読んだ。

『……今日の“待つ”を、記録しました』

「ありがとう、ミカ」

『ありがとう』

 パンの湯気が薄くなり、アーケードの灯りが少しずつ色を変える。

 街の匂いは、ほんの少しだけ元に戻った。

 振り返れば、黒板の“ありがとう欄”の一番下に、チョークの新しい線。

 〈待ってくれて、ありがとう〉

 誰の字かは分からない。

 でも、二人は同時に頷いた。

 明日も、同じ時間に、また会う。

 “待つ場所”の椅子は、そのために、今夜もそこに残る。

 迷子になったとしても、帰ってこられるように。

 そのための矢印は、もう描かれている。

 そして、たぶん、描き足りない分は、明日、また描けばいい。

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