逃避行のはじまり──選ばれない場所を求めて──
――北東の山を越えた先、地図にもあまり載っていない小さな村、ミルツェ村。
ラゼルとカリナが目指したのは、そんな“誰からも見つからないような場所”だった。
「この村、昔一度だけ訪れたことがあるんです。診療師の修行で。
周囲に結界もなければ、魔道会の監視網も届かない。……一度消えるには最適な場所です」
カリナは、ラゼルの手を握りながらそう言った。
ラゼルは、その手の温度だけで、心を落ち着かせようとしていた。
(選ばれないって、こんなに不安なのか……)
王都から出て、町の馬車路を外れ、山道を越えて――
やがて、石畳も舗装もない道が現れ、視界に木造の小屋と畑が並び始めた。
“ここでは、何者でもなくていい”。
カリナは、そう信じたかった。
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村の人々は素朴で、二人を特に詮索しなかった。
「旅の途中で、ちょっと寄っただけです」と説明すると、
「そうかい、畑の手伝いしてくれりゃ、それで十分だ」と、村長は笑った。
ラゼルは、慣れない鎌を手に畑に入り、
カリナは、草花の知識を生かして、村の診療師の手伝いを始めた。
――平穏な時間が流れた。
ラゼルは毎日、少しだけ疲れて、少しだけ笑って、
カリナもその姿を見て、
(やっと、“選ばれなかった先”にたどり着いた)と安堵しかけていた。
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だが、それは二週間目のことだった。
村の近くで、地滑りが起きた。
道が崩れ、薪運搬の荷馬車が転倒。
乗っていた子供が一人、木の下敷きになった。
――その現場に居合わせたのは、ラゼルだった。
「誰か、誰か呼んでくれ!」
「だめだ! 木が重すぎる!」
「魔法士がいれば……!」
そんな声の中、ラゼルは“また”動いた。
周囲の地形。
崩れた土の角度。
木の重心と、支えになりそうな石の位置。
一瞬のうちに――すべてが“見えた”。
そして彼は、見事な動きで、石をテコにし、枝を使って軸をずらし、
一度も力任せにせずに、子供を助け出した。
助けられた母親が、震えながら彼に叫んだ。
「あなた……普通の人間じゃないわよね。あれは、“見えてる動き”じゃない。」
村人たちは口をつぐんだ。
だがその目には、もう“何者でもない目線”ではなくなっていた。
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その夜。
カリナとラゼルは、小屋の中で静かに語り合っていた。
「……結局、こうなるんですね」
ラゼルの声には、自嘲のような響きがあった。
「俺、どこへ行っても“普通”ではいられない。
誰かが困ってたら、動いてしまう。……力があれば、見えてしまう。
そして助けてしまう」
カリナは、ラゼルの手を取った。
「あなたは間違ってない。私が“選ばれたくない”って思っていたのは、
あんなふうに、みんなが“期待”という名の荷物を背負わせてくるから。
でもね……助けたあなたを、すごいって思った私もいるの」
ラゼルは、驚いたように目を見開いた。
「私……もう“選ばれるのが悪”だなんて言わない。
その才能を、あなた自身の“選択肢”として使えるなら、それでいい。
――その代わり、ちゃんと帰ってきて。助けるたびに、“あなたが遠くなる”気がするの」
ラゼルは黙って、彼女の額に手を当てた。
「……約束します。俺が選んだ先には、必ず“あなた”もいるようにする」
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翌朝、村長がふたりのもとを訪れた。
その背後には、見覚えのある顔がいた――魔道会の追跡者だった。
ラゼルは、カリナにだけ聞こえるように囁いた。
「逃げるのをやめよう。俺は、俺の才能を“自分の意思”で差し出してみる。
その代わり――条件をつける。“選ぶのは、俺自身”だって」
カリナは、小さくうなずいた。
「……じゃあ、選びなさい。誰にも奪わせないで。自分のこと、そして“私たちのこと”を」