心の音を、もっと近くに
※秋の歴史2024「分水嶺」参加作品。多分に創作を含んでいます。ご容赦ください。
「夫婦の危機だ……」
組んだ手に顎を乗せ、ルネはぼんやりと窓の外を眺めていた。
揺れる木の葉。きらめく陽光。
気持ちの良い風が吹いているらしい。
曇天な気持ちとは裏腹に。
(このままいけば、曇りどころかいずれ嵐に発展する)
そうなる前に何とかしたい。
だが、今更ではあるのだ。
(呼吸音を聴くため、肌に直接耳を当てるのは、医者なら誰もがやっていることなのに……!)
古代ギリシャの医聖・ヒポクラテスが、体内の異音を病と結びつけたのは紀元前4世紀。以来、こんにち19世紀まで二千年以上。
聴診は、病気発見の大きな手立てとして用いられてきた。
その診察方法は、患者の胸に直接耳をあて、音を聞き取るというもの。
相手が同性の男性患者なら、問題はない。
だが患者が女性の場合。ご婦人の胸の下に耳を当てる行為は、いささか問題があった。
尊いはずの医療行為なのに、某ご婦人が街に言いふらしてしまったのだ。
「ぐいぐいと顔を押し当てて来られて、わたくし戸惑いましたわ!」
──いやそれは! アンタの肉付きが良すぎて、心音が聞き取りにくかったから! あと顔じゃない、耳だ。誤解される言い回しはよせ!──
そう叫べたらどんなにか楽だろうが、紳士の振る舞いとしては許されない。
「はぁぁぁぁぁぁ」
だがその噂話が原因で、妻が立腹中とあれば話は別だ。
理解のある良き伴侶。医師としての自分を認め、そして支えてくれる愛しい妻。
彼女とて、夫が"下心で診察している"という噂が広まれば、街で気まずい思いをするかもしれない。妻に誤解されるのも辛い。だって事実無根なのだから!
しかし聴診をしなければ、それだけ病気を見逃し、患者の状態に気づきにくくなっててしまう。つまり命に係わる大問題なのだ。
「──もうこんな時間か」
医師ルネ・ラエンネックはカタリと席を立つと、仕事に向かうことにした。
診療所に向かう途中、公園を横切る。
重い気持ちが、木々の緑で少しでも癒されればと願って。
馴染みの公園では、まばらに佇む人々が、思い思いに過ごしている。
そんな中、一際明るい子どもの声が、ルネの耳に飛び込んできた。
「おーい、聞こえるかー」
「はいはーい」
目を遣ると、少年たちが長い木の棒の両端で、互いに音を伝えている。
棒を引っ掻き音を出す側、耳に当てて音を聞く側、双方ともに楽しそうだ。
(無邪気なものだ)
ふふっ、と笑い、そのまま歩を進める。
(妙齢の女性患者が来ませんように)
そんな益体もない願いは、打ち砕かれた。
(一人目からかーい)
診察室に入ってきたのは、若い女性。息苦しさを訴えている。
聴かないわけには……、いかない……!
困ったように目を泳がせたルネは、机上のノートに気付いた。
(筒を作れば、よく聞こえるんじゃないか?)
そう、先ほど公園で見た、子供たちの遊びのように。
早速ノートを丸めて簡易の筒を作ったルネは、それを患者の肌にそっと当てる。
(聞こえる! しかも音が増幅されて、聴きやすい!)
ィヤッホ──!!と、踊りださなかったのは、長年の社会経験の賜物だ。三十代半ばの落ち着きだ。
こうして。耳を直接、相手の胸に当てず、かつ、しっかりと体内の音を聞き取る方法を考案したルネ・ラエンネックは、後に紙ではなく木で筒を作り、現代の聴診器の原型ステート・スコープを作った。
間接聴診法の始まりである。
そしてたくさんの患者を診察した彼は、肺炎、気胸、結核でそれぞれ音が違うことに気づく。
現在でも使用される4つ音の分類。水泡音、類鼾音、捻髪音、山羊音もルネが分類したとされる。
約十年後、結核で亡くなるまで、彼は様々な病気の解明に貢献し、医学界に大きな影響を与えたとされている。
「わが人生最大の遺産」。こう言い残し、ルネは聴診器を甥に譲ったという。
「あなた、聞こえます? 私の胸の音」
「ああ。少し心拍数が速いな」
「まあ。あなたのせいですわ」
「私の?」
「ときめくと、脈拍って100を越えちゃうもの」
「それは私に、ドキドキしてくれているということかい?」
夫婦の危機は、去った。
お読みいただき有難うございました!
もしかしたら、奥様いなかったかもです。検索で「妻帯者」という情報が出なかったので(ノД`)・゜・。調べ切れず、すみません。
企画の趣旨が"タイムトラベルもあり"ということなので、多少の創作はお許しください。
もしかしたら内縁の妻とか恋人は、知られてないだけでいたかもしれないし…!
また、子どもの遊びは木の信号ではなく、"電話ごっこ"という話もありますし、帰り道で女の子の遊びを見たという説もあります。
歴史ジャンル初めて書きましたが、すごく勇気が要りますね!
ルネ・ラエンネック氏のファンの方がいらしたら、めちゃ怒られるわ。あと医療詳しくないから、ガタガタだわ。と思いながら書きました(;´∀`); その道の方、どうぞお見逃しください。
ルネ=テオフィル=ヤサント・ラエンネック(1781-1826)。聴診器1816年、35歳くらいの時。
正式名もかっこいい彼は、前半生もすごい。