第五話 悪い夢
保健委員の子はリュウを保健室の前まで送り届けると、そのまま何も言わずにすぐに教室へと戻ってしまった。
急に一人になるとなんだかさらに不安になるリュウ。
誰か、誰でもいいから濁ったガラス玉のような目をしていない普通の人がいてくれと、リュウは祈るように保健室に入る。
けれど、そこにいた保健室の先生もみんなと同じ濁ったガラス玉のような目をしていて、やっぱりダメかとリュウはがっかりした。
「あら、三年二組の杉野龍平くんじゃない。どうしたの?」
「ちょっと、調子が悪くて……」
この見慣れた光景なのにいつもと違う何かを感じる恐怖感からくる体調不良。
だが、リュウはそのことについて上手く言える自信も、素直にそう言っていいのかさえもわからなくて、とりあえず当たり障りない答えをした。
「あら、いつから?」
「うーんと、さっきから……かな?」
「それは大変! 早く寝てなさい」
「え? いいんですか?」
「当たり前じゃない。ほら、こっちに来なさい」
普段なら、お調子者のリュウが適当にちょっと寝たいと保健の先生に頼んでも、「ベッドは本当に具合が悪い人用なんだから、簡単に寝ようとしないの」と諌められるというのに、今日はなぜかどうぞどうぞと言わんばかりに、ベッドに寝ることを薦められる。
そんなに具合が悪そうな顔をしているだろうかと不安になりつつも、リュウは先生の言葉に甘えて大人しくベッドに転がる。
そしてカーテンを引くと、静かに横になった。
急に静かになる空間に、なんだか無性にドキドキしながら、リュウは布団に潜り込む。
__これはきっと全部、悪い夢だ。起きたら元に戻る。いや、戻っていてくれ。
ギュッと目を閉じる。
寝て起きたら悪い夢が醒めないだろうか。どうか醒めてくれ。そう祈りながらチャイムが鳴るまで大人しく睡魔を待つ。
だが、寝ようとしてもなかなか寝られない。
仕方なく寝ることを諦めて、リュウは今日のことや神社のこと、あの氷のことやヒナやヨシのことをたくさん考えることにした。
__もしかして、もしかしなくても、ここってヒナが言っていた異世界なんじゃ……?
もし仮にここが異世界だとしたら自分はどうなるのだろうかと考えたときに、背筋がぞくっとするような嫌な感覚が走る。
__帰れなかったらどうしよう。一生この世界にいることになったら?
不安が次々にリュウを襲い、胸がギュッと苦しくなった。
これが夢ならいいが、一向に醒める気配はない。リュウはだんだんと焦ってきた。
そして、どれほど待っただろうか、待てど暮らせどチャイムが鳴らない。
だいぶ待ったはずなのにおかしい。
そう思いながらリュウが身体を起こそうとすると、ガラッと音を立てて扉が開くのが聞こえる。誰かが保健室に入ってきたようだ。リュウは気配を悟られないよう、慌ててまた布団に潜り込んだ。
ドキドキ、ドキドキ……
悪いことをしているわけではないのに、胸がさらに緊張でギューっと縮み込む。今にも心臓が口から飛び出そうだった。
「すみません。お待たせしました」
__え、母さん?
聞き慣れた声が聞こえて、リュウは耳を傾ける。
どうやら自分が具合が悪いと学校から母に連絡がいったらしい。リュウはお迎えにわざわざ母が来てくれたことに嬉しくなった。
__やっぱり違和感はあっても母さんは母さんだ。
そう、リュウがホッとしたのもつかの間だった。
「今日、朝から普通じゃないんです、あの子」
__え?
「普通じゃない」という言葉がやけに異音のように耳に残る。
まるで「普通じゃない」ことが悪いことのような口調の母に、リュウはドキリとした。
2人はリュウが寝ていると思っているからか、声を抑えることなくペラペラと喋り出す。
「あら、それはまずいですね……」
「えぇ、どうしましょう」
「普通じゃないのはまずいですね。この世の理を乱しますし」
「どうしましょう。普通じゃないと平等になりませんからね。争いが生まれてしまうことが恐い」
__普通じゃないというのはどういうことだろう。普通って、そもそも何だ?
やけに「普通じゃない」という言葉にこだわる二人。
リュウはその意味がわからないながらも、明らかに会話としておかしいことだけはわかった。
そして、何となく聞かれていることがバレてはいけないと、息を殺して寝たフリを続ける。
「でしたら、もう送還されるのがよろしいのではないでしょうか? 先日も持田佳樹くんが送還されたそうですよ」
__ヨシのことだ!
ヨシの名前が出てきて、ヨシもやっぱりここにいるのか! と嬉しくなる。だが同時に、「ソウカン」とは一体なんだろうという疑問も生まれた。
リュウは聞いたことのない言葉に困惑しつつもも、ヨシも前まではこの世界にいて「ソウカン」というものをされてしまったことだけはわかった。
「あら、そうなんですか! 知りませんでした。では、普通じゃない子が紛れているということなんですね」
「えぇ。ですから、ビョードーさまのところへ行けば、きっとすぐに普通に戻してくださいますよ」
「そうですね、普通じゃないなんて、この世界にはあってはならないもの。わかりました。早速手配します」
「そうしたほうがいいですよ。リュウくんならそこで寝てますから、すぐにでも捕まえましょう」
「そうですね」
__捕まえる!?
二人は早速リュウの寝ているベッドまで来る。
__「ソウカン」ってオレ、どうなるんだ!?
リュウは母の「送還の手配をする」という言葉にパニックになりながらも、どうすればいいかわからなかった。でも、とにかく捕まらないためには早くこの場から逃げなければとも思った。
そしてカーテンを開けられた瞬間、リュウはダッと二人に突進するように勢いよく飛び出した。
「きゃあ! リュウ!?」
「リュウくん! 待ちなさい!! どこに行くの! 逃げてはダメよ! 大人しく送還されなさい!」
リュウは保健室を出て、廊下を全速力で駆け抜けて昇降口を出る。
二人が追いかけてくるも、リュウは後ろを振り返ることなく上履きのまま、荷物も持たずに外に向かって走り出した。