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美代じいさんがいる部屋は、この前みた限りでは襖が年中全開というような感じで、両方とも開け放たれていた。
でも今はぴっちりと閉ざされている。蟻一匹通さないという具合だ。
変なにおいはどんどん強くなる。しかし娘さんは、まったく表情を崩さない。
自然と私はごくりとつばを飲み込む。
でもうまく飲みこめない。喉がつっかえてうごかない。
「開けますよ」
娘さんが言う。
そしておそるおそる、ほんの数ミリ襖に隙間を作る。
どうぞというように私をうながす。
こんな隙間から中を見ろということか?
隙間の中だって暗い。何も見えないではないか。
しかたなく中をのぞき込む。
何も見えない。
しいて言えば闇だ。そこは真っ暗になっている。
「ど、どうしたんですか?」
私は尋ねる。
「あの」
と、娘さんが言った。そのときにはもう彼女の手によって、そのホンの隙間さえも、元のとおりぴたり締め切られていた。
「闇が、あの、水晶の闇が」
そう言って彼女はその場にぺたんとへたり込んでしまった。
どうもまともな会話ができるような状況ではない。
私は少しだけそこに立ち尽くしていた。結局もう一度、娘さんの様子を窺いながら襖を拳ほど開け、中の様子を見てみた。
こんなの真っ暗だし、何も見えやしないじゃないか。
だが、なんだろう。
煙?
よく見ると、闇が生きているみたいに蠢いているのだ。
そして私はそれを見たことがある。
水晶の中の闇にそっくりだ。
それに気づいたとき、素早く襖を元通り閉ざし、何歩か後ずさった。
踵に何かが当たる。重い木材のようなもの。後ろを振り返る。
私はそこでようやく家の状況を把握する。
部屋がめちゃくちゃに荒らされている。メチャクチャとしか表現できない。
後ろにある居間だったものが見る影もない。破壊されたテレビや調度品やガラス片で混沌としている。嵐、いや戦争でも起こったみたいだ。
本当に家の中で打ち上げ花火でもやったのではないか。
ざっと歩いて家の中を確認してみる。ひどいのはそこだけのようだ。
私は娘さんを起こし台所まで連れて行き、お茶を淹れて彼女に飲ませた。私も飲んだ。
落ち着いたかして、少しずつ彼女は話をし始めた。
「あの水晶の中、はじめチカチカ光っていたじゃないですか」
と、彼女は言った。私はうなづく。
「その輝きが日に日にドンドン大きくなっていって」
娘さんが湯呑を両手で包んだまま、ズズッと飲む。
「今日の深夜2時ごろでしょうか。物凄い音がして、居間に行ってみると、天井に穴が開いていたんです」
私は黙って聞いている。
「でもそれも一瞬でした」
火の玉みたいなものが続けざまに水晶から出てきて、彼女の家の壁や天井を破壊したということだった。
その後は現在の通り、じいさんの部屋は闇で溢れていた。
彼女はどうすることもできず、とりあえずあの水晶を持ってきた私を呼んだというわけである。
「警察には?」
「言ってません」
まあこんなわけの分からないことになって、誰にも知られずに済むならそうするだろう。
幸い隣の家とも距離がある。外は寒いから開けてなんていないだろうし。
音は聞こえても気になるほどのものでもなかったのだろう。
でもだからといって私を呼ぶのはお門違いである。
これは、即警察案件だろう。この闇は危険すぎる。
「私、声優なんです」
と、娘さんはぽつりと言った。
私はその意味が一瞬分からなかった。
ただ、その声は、思えばどこかで聞いたことがある声だった。
「こんなことになって警察でもこられたら、私がどんな人か言わなくちゃならないでしょ。黙ってたって、周りの人の口から漏れるでしょうし」
私は元カレに電話をかけてみた。
つながらない。…まあ寝ているに違いない。
でも粘っていれば必ず捕まると思ってそうしていた。
結局休み休みかけ続け、30分くらい粘ったが彼は電話に出なかった。
正直最初のころはホッとしていた。気まずいし、その上この状況についてどう説明したらいいか分からなくて。
でもやがて、電話のコール音の向こうで彼が耳を澄ませていることを、私はありありと想像できた。
出ないつもりなのだ。
そしておそらくだけど、彼はこうなることが分かっていたのではないだろうか。
思い当たる節はあった。
彼は大学の准教授だった。50歳。私の20上。
知り合ったのはこの仕事でだった。私は彼の母親をマッサージしていたのだ。
彼は大学で七色のザリガニを作ろうと研究していた。でも先に七色のハムスターを他の大学に作られて、意気消沈していた。
彼は私との結婚を考えていた。私もまんざらでもなかった。
でも踏み切れないでいた。彼が母親の介護を任せようとしていたらかだ。
正直結婚するにせよ、今まで通り働きながら母親の面倒を見た方が正直ずっといい。
「このままでは駄目なの?」
「このままってどういうことです?」
「結婚をしても私は今の仕事を続けたいの」
それが最低限の譲歩だ。
「君が家のことをやってくれれば母は助かりますし、負担は今よりずっとかからない。裕福とはいえないまでも、自由になるお金もあります」
私は何も言えなかった。年齢差もある。デートの時もそうだが、私と彼は教師と生徒。
いや、弟子と言った方がいいかも知れない。
弟子である私は彼の言葉に耳を傾け相づちを打ち、ときどき些細なわがままを言う。
言葉を重ねてお互いの主張をすり合わせていくような、そんな関係ではなかった。
プラントプラネットは、そんな彼のプロポーズを保留にした一か月後に私へ宛てた贈り物である。