愛に勝るものなど、何もない
頭がくらくらする。俺は酒に強くない。体内でアルコールを分解できず、今、顔は真っ赤になっていることだろう。なんだかぼんやりして、意識もはっきりしない。気分がすぐれない。前を見ることさえ困難になっていた。それでもただひとつ、俺にははっきりと見えているものがある。目の前の女性だ。向かいの席にずらっと並んだ女性たちの中で、周りが風景と化してしまうほど、一際輝かしいオーラを放っている。この女性のおかげで、俺は無理して酒を飲んだことを後悔せずにすむ。むしろ、合コンに誘われた時、酒に弱いことを理由に断らなくて良かったと、強く思った。こんな美しい人は、今まで見たことがない。酔っていない時にじっくり見たかったが、それだと照れてしまってとても直視できないだろう。この女性を見つめるのは、酔っている時でないと無理だ。
目の前の神々しい光を意地でも目に焼き付けておこうと、俺はずっと彼女のことを見つめていた。やがて、俺の視線に気づいた彼女は、優しく微笑んだ。女神のようだった。いや、女神だ。俺たち二人は見つめあった。やがて俺の酔いが醒めても、ずっと夢中で見つめあった。暑い。今年の夏は、夜でも容赦なく暑い。クーラーをつけてもまったく効いている気がしない。今までに経験したことのない夏だ。地球温暖化とは、なんとも恐ろしいものである。それに、今では彼女からの熱い視線も相まって、余計に暑く感じる。俺は死んでしまいそうだ。でも死にたくない。まだ死ねない。この女性がこの世にいる限りは、意地でも死にたくない。この美女と、是非とも話をしてみたい。そんなことを考えながら、お互い笑顔で見つめあっていると、とても幸福な気持ちになれる。他に何も考える必要のない幸せな、ひと時だった。
俺はモテない。したがって、恋愛経験に関してもあまり多い方ではない。イケメンでもない。チー牛ではないが、ほとんど弱者男性に近い。というか、今の世の中ほとんどの若年層は弱者男性に相当すると、個人的には思っている。何故ならば、20代男性の『恋愛未経験率』は脅威の60%というデータがどこかで発表されたことがあるからだ。これにはビックリした。下には下がいるもんなんだなあ、と。もっとも、恋愛経験の有無によって人としての価値を量るという行為は、あまりにも頭が悪いように思える。しかしながら最近の若者はやっぱり恋愛至上主義に系統しているという現実がある。さらにはそんな中、さらに弱者男性の立場を悪くするのが、一部の強者男性の存在である。1割にも満たないこいつらが同世代の異性を独占する傾向にあるせいで、残りの9割超の弱者男性が損する仕組みになっている。男性と女性とでは、恋愛のハードルの高さが違いすぎる。
そんな中、何もしなくてもモテるであろう那奈が奇跡的に合コンに参加しようという考えになり、さらには奇跡的に俺が参加する合コンに参加し、奇跡に俺の向かいの席に座り、そして奇跡的俺を好きになってくれたこと。それは間違いなく『運命』だと思う。宝くじなんかよりよっぽど低い確率だし、宝くじが当たることなんかよりよっぽど幸せだ。この幸せを、俺はいつまでも噛み締めたい。
「おそろしいこともあるもんだね」
スマホのネットニュースの記事を見せると、彼女は背筋を丸めた。無理もない。今年の日本は、どこかおかしい。十月半ばまで暑かったかと思えば、十一月に入っていきなり冷え込んだ。あまりにも短かった秋が、恋しくなってくる。いや、今年の日本には秋なんて季節が本当にあったのかどうかも微妙だ。こんなことで、この国は本当に四季折々だといえるのかどうか、疑問に思ってしまう。俺の部屋にはヒーターもないので、冬は流石に厳しい。
「うわ、怖あ。でもこれ、九州の話じゃん。さすがに東京までは来ないっしょ」
自分に言い聞かせるかのようにそう言うと、那奈は俺のスマホに片手を添え、今度はじっくりと画面をのぞき込む。彼女が背筋を丸めたのは、どうやら寒さのせいではないらしいと、この時わかった。
田川庄次郎死刑囚、刑務所へ護送中に看守に暴行を加え、脱走。記事をぼそぼそと読み上げる那奈の表情は、どことなくひきつっていた。
「でもさ、どうせまた捕まるのに、よくやるよね。てか見ろよ、この死刑囚の顔。怖すぎるよ。人相が悪いというかさ。いかにもな顔してるよね。あれ、那奈、聞いてる?」
「ああ、ごめん雅人。そんな怖いニュースよりさ、今はクリスマスのことでも考えようよ。ね?」
「クリスマスぅ? まだ一か月先じゃん」
「あっという間だよ。一か月なんて」
「はいはい、クリスマスね」
強引に話題を逸らそうとする。どういう訳だろうか。彼女にしては珍しい。よく分からないがとりあえず俺も話を合わせてみることにした。彼女はこういうニュースに敏感に反応するタイプなのだろうか。そういうもんかな、と聞くと、そういうもんだよ、と笑って返された。俺たちは今年のクリスマスの予定に話題を変更した。まだまだ先の話ではあるが、案外楽しい。那奈と話すことならなんでも、とにかく楽しいのだ。俺の家に那奈が遊びに来ると、必要最低限の家具しかない、いつもの殺風景なアパートの一室に花が咲いたように、部屋の雰囲気がぱあっと明るくなる。那奈には、華がある。俺は那奈と、時間を忘れて何時間でも喋ることができる。
那奈とは先日の、大人数での合コンで知り合った。俺はあまり合コンに参加するタイプではないが、以前付き合っていた彼女と喧嘩別れをしてしまい、立ち直れないほどメンタルが弱っていた時期に友達に誘われ、気は乗らないが腹をくくって参加してみた。そこで、那奈と出会ったのだった。おとなしいタイプの那奈だったが、女子大で出会いがなく、なんとなく合コンというものに参加したそうだ。そこでたまたま向かいの席に座っていた俺と趣味の映画の話などをきっかけに意気投合し、出会ってからわずか一か月で交際へと発展した。正直にいって、那奈は話も面白いが、見た目も美しく魅力的だった。にっこりと笑った時に見せる歯並びの良い綺麗な白い歯。彼女の純粋さを象徴するかのような、綺麗に澄んだ大きな瞳。瞳の奥には、彼女なりの強い芯のようなものが見てとれる。俺にはそれも魅力的に感じられた。
俺は初対面の時点で既に彼女の虜になっていた。一目惚れというものかもしれない。合コンから数日経っても、頭の中にはぼんやりと那奈の笑顔が存在し続けていた。それでも恋愛経験の浅い俺はラインを交換したのはいいが、しばらくの間何もメッセージを送れずにいた。するとなんと、那奈の方からデートに誘ってくれたのだった。初めてのデートは映画館だった。緊張していたので映画の内容はあまり覚えていないが、那奈と一緒にいるという、それだけで幸せな気持ちになれた。その後も何度か那奈の方からデートに誘ってくれ、俺たちは色んな所に遊びに行った。その結果、人見知りの俺でも気軽に連絡が取れるようになり、俺の方から食事や遊びに誘う機会が多くなった。そしてある時、思い切って交際を申し込むと、那奈は喜んで承諾してくれた。
付き合ってまだ二か月しかたっていないが、俺は那奈のことが大好きだ。ただ、那奈のことをまだまだ知りたい気持ちもある。だから、那奈とは頻繁に会うし、毎日のように電話で話している。一日のうち、三分の二以上は那奈のことを考えている、かもしれない。いや、間違いなくもっとだ。
俺は、クリスマスに恋人と一緒にいたことがない。それでも、それだからという理由で恋人を作る気にはなれなかった。恋人になってくれる相手に失礼だと思っていたからだ。だから、イブやクリスマスに街を歩く幸せそうなカップルを見ても、特に何も感じたことがなかった。しかし、自分があの立場になれると思うと話は別である。
承認欲求のためでもなく、見栄のためでもなく、俺は光り輝くイルミネーションの中、那奈と一緒に、光に照らされていたい。幸せを、感じていたい。クリスマスまでの時間も楽しみだし、すべてが楽しみだ。