ゴートと空き部屋Ⅱ
「そんなに熱心に、いったいなんの本を読んでいるんだい?」
僕はまず、彼の手にしている本に目をつけた。
気さくに話しかけながら少し首を伸ばす。遠目から、開かれた本の中身を覗こうとした。
きっかけがほしかっただけだ。けれど彼は僕の行動を察知して、開いたままの本を自身の胸へ引き寄せて読んでいるページを隠してしまった。
そんなに拒絶しなくてもいいのに──だが、ゴートが本を縦向きに伏したせいで、隠れていた表紙のほうはばっちり見えてしまった。手書きでつづられた表題に、僕の目は大きく開かれた。
「おや、それは名探偵ヘリオスが残した手記か」
「……邪魔はしないんじゃなかったのか?」
苦々しく言うゴートに、僕は慌てて首を振ってそのつもりはないと彼をなだめた。
「ごめん、ごめん。ちょっとだけ気になったものだからさ」
「…………」
「本当に、君の邪魔をするつもりはないんだ。……あ、そういえばゴート、君の耳には例の話は届いているかな? 今夜七時の談話室で──」
ゴートはむすっとした顔のまま「知っているとも」と言って、胸に押し当てていた本をパタリと閉じる。いらつきながらも、きちんと僕との会話に反応してくれるところが真面目である。
「君も律儀に出席してくれるんだね?」
「……ああ、気は進まんがな。ないがしろにして、あとがうるさくなるのはもっと敵わん。
あの目立ちたがりの男のすることだ。どうせ、事務所の探偵たちに、なにか釘を刺しておきたいことでもあるのだろう」
口数が少ないぶん、ゴートははっきりものを言う。僕も彼にならって、遠まわしにではなくストレートに話を進めることにしよう。
「君は、ギルについてどう思う?」
メイラとかとちがって、ゴートは感情の起伏が平坦だ。だからこうやって、聞きにくい質問も思いきってぶつけることができる。
それでも、奇妙な質問に聞こえたらしい。ぴくりと、彼の片眉が吊り上がった。
「どう、とは?」
「昼間の騒動……探偵のなかで君だけがあの場にいなかったけれど、おおよその話は聞いているんだろう?」
僕の問いに「まあな」と、ゴートは答える。しごく淡々とした響きで、どうでもいいといった意味合いにも感じた。
「みんな、ひどく悔しがっていてさ。そりゃあ、あんな大きな馬車に乗ってさ、さっそうと大勢の前に下り立つやいなや、あの厄介なオルソー・ブラックを含めた守衛たちをあっさり引き下がらせてしまったんだもの。
輝かしい名探偵の肩書きが為せる業だったね、あれは」
「…………」
「メイラやシルバーはもちろん、マリーナに、あの年少のロイくんでさえも、ギルのことをやっかみだしているんだ。ここままじゃ名探偵ギル・フォックスに、事務所の仕事を全部奪われて、自分たちは彼の踏み台にされるんじゃないかってね。
大げさだとは思うけれど……たしかに、あり得ない話じゃないって僕もうっすら感じはじめているよ」
わざと不安をあおるようなことを言って、僕はゴートの顔色をうかがった。後ろ向きな意見に引きずられて、無口な彼も愚痴の一つや二つ吐きだすだろうか。
ところが、ゴートの表情は変化しない。
話の途中で一瞬だけ、手元の本へ視線を落としたこと以外は……やはり彼はつまらなさそうな、興味のない白けた顔をしていた。
「……君はどうもその気はないようだね。ギルのことを、うとましくは思わないの?」
「たしかに、やつは小うるさい。だが、事務所の仕事はきっちりこなしているように、少なくとも俺の目には見える」
「ふんふん……」
「あの男は宣伝が上手いだけだ。世間へのアピールというか、売り出し方というやつがな。それがこの事務所内での不公平を生みだす要因ではあるが……それも、やつの実力のうちと捉えていいだろう」
なかなか的を得ている意見だ。口には出さないが、僕は心のなかで感心しておいた。
「それだけだ」
「ふーん、そうか。ゴートはそう考えるのか……」
ゴートの担当する事件に、僕も何度か助手としてついてまわったことがある。だいたいは、依頼人とのコミュニケーションに難が生じて、特に人に媚びない態度からプライドの高い依頼人を怒らせていた。
とっつきにくい人物だと、多くが評するだろう。しかしこうして話してみると案外、人の話をよく聞いてくれるほうだし、ただの実直な青年のようにも見えた。
(若者はみんな夢があるものだ……とか、言っていたけれど)
朝、ロイ少年が公園で言っていたことだ。
当然、その若者の部類にゴート・イラクサも入る……のだが、はたしてこの無欲な彼は、どんな理由で探偵という仕事を選んだのだろうか。
思案の途中で、僕ははたと彼の手元に目が向いた。
名探偵ヘリオス・トーチが遺したと言われる手記。所長に勧められて、僕も軽く目を通したことがある。その中身は、主に当人が解決してきた事件の詳細がつぶさに記録されていた。
ふと、ある一つの考えが頭に浮かんだ。
もしかするとゴートは、ヘリオスのような正義感あふれる探偵に憧れているのでは? と。
手記と無愛想な男の顔を交互に、僕はまじまじ見つめてみた。
(世のため人のために、事件を解決する。無表情の裏で、そんな熱い正義感に燃えてたりするのかな?)
などと、失礼なことを頭に巡らせた僕は、これも本人に直接聞いてみようと口を開きかけた。
だが、その前に──。
「おまえはどうなんだ?」
「えっ?」
先に、ゴートに尋ねられてしまった。射抜くようなまっすぐな視線で、彼は僕の目をつかまえる。
「おまえの質問ばかりでは不平等だ。だからハロウ、おまえも自分の意見を話せ」
「い、意見って言われても……」
「見るかぎり、おまえもギルの功績に対して、一切の羨望も妬みも抱いていないようだな」
それはまぁいい。
と、ゴートはひと区切りつけたあと、今度はまぶたを細めて睨みつけるような視線に切り替える。
「しかし、おまえの場合、探偵の仕事に関しても意欲的でないように見える。先日の猫の事件といい、あまり感心はしないな」
「……やだな、これでも真面目にやっているんだよ?」
「ああ、人から命じられたことを忠実にこなす能はある。だが、おまえ自身の意志はどうだ。見習いから脱しようと、尽力する姿勢がまったく感じ取れない」
「うっ、それは……なんというか、その……」
「だからこの機会を通して問おう……その思惑はなんだ?」
「…………」
双方の間の距離は十分あるというのに、ゴートの無言に圧力に僕はたじろいだ。
言葉が喉に詰まる。けして口に出してはならないことは頭でわかっているのに、圧に押されてひねりでるように──僕の唇は動いていた。
「……単純に、その資格がないから」
「資格?」
「……そう、人として資格が──」
言いきってしまう直前、ドアが外から開いた。
助かった。解放されてゆるんだ顔を向けてみれば、そこにはまたしても秘書シトラスの姿があった。彼女は手にお盆を持っていて、その上には所長室に置いてきたティーカップとポットがそれぞれ乗っていた。
「シトラスさん……」
「そろそろお時間が近づいてきましたわ。お茶と軽食を用意しましたので、お二人も談話室にいらしてください」
ゴートはソファから立ち上がると、手近な本棚へヘリオスの手記を戻した。「先に失礼する」と短い言葉を残して、彼は部屋を出ようとした。
入口で、シトラスが脇へ避ける。すれ違いざまに、ゴートは彼女に「ギルはまだ帰っていないのか?」と尋ねた。
「ええ、困ったことにまだなんです……」
「……主催者が指定の時間前に来ないとは、身勝手なやつだ。七時きっかりになっても来なかったら、俺は帰らせてもらおう」
それだけ言って、ゴートはドアの向こうへ消えていった。
階段を下りていく重い足音が響くなか、僕もシトラスのいるドア元へ近づく。「僕たちも行きましょう」と声をかけても、彼女の目はゴートの背中を追って、じっと廊下の先に向いていた。
「ゴートさんとなにかあったんですか?」
「えっ、いや……」
「ハロウさんと、ゴートさん……珍しい組み合わせもあるものだと思ったんです。あと……」
ようやくシトラスがこちらを向く。品のよさを残しながら、彼女は少し苦笑った。
「あなたが、いやにしょんぼりされているから」
「いいえ、べつに。ただ仕事で手を抜かれていると、相手に誤解されているようだから焦っただけです。
探偵の才はなくとも、一応真面目に事務所の仕事は続けているのに……ハハッ、仲間うちに誤解されることほど悲しいものはないですよ」
早口で弁解してから、僕は空き部屋をあとにした。
二階の廊下を、今度は僕が前を、シトラスが後ろにと列になって進む。せめてお盆を持とうかと彼女に提案するも、当人はこのまま流し台に用があるらしく大丈夫ですと返された。
「…………」
背中に人に立たれると、どうも気が落ち着かない。加えて、いよいよ談話室に向かう時が来たのだと思うと、心がげんなりする。
歩みを遅くするわけにもいかず、仕方なしに階段まで進む。
そして段差を下りる手前であった。ふと、背後にいるシトラスがしゃべった。
「わたし、わかっていますよ」
突然の言葉に僕は振り返らず、「……なにがです?」と静かに聞いた。するとシトラスは「昼間の、壺の事件ですよ」と続ける。
「気づいていたんでしょう。あの壺の仕掛けのことを」
「…………」
「ふふ、嘘をつくのが下手ですね。手柄をロイくんに渡しただけで、ハロウさん、けっこう勘の働く人なんですよね。だったら、もしかして……この間の子猫の誘拐事件もわざと──」
僕はせせら笑った。「ハハ、考えすぎですよ」と一言添えて、背中向きに肩をすくめた。
「……資格がない、というのはどういう意味なんですの?」
僕が「聞いていたんですか?」と尋ねると、彼女は気まずそうに「すみません」と言った。ますます僕はおどけるように笑って「それはまぁ、そういうことですよ」とはぐらかす。
「朝、買い物につき合っていただいたときも、似たようなことを言っていましたよね。本当は、別のお仕事のほうが向いているとか……」
「…………」
「あれはどういう意味なんですの?」
ばつが悪いとは、このことだ。
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