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探偵事務所の所長さんⅡ

「いいえ、僕はギルのようにはなれません。どうも表に立つのは苦手でして、できることなら裏方に(てっ)したいと思っています」


 すっと口から吐き出た言葉は、僕と所長との間にしばしの沈黙をもたらした。

 あきれてしまったのだろうか。ほかの若者と異なり、あまりにも消極的な姿勢を見せてしまったから。所長からすれば、たいへん興ざめに映ったにちがいない。


 己の失言に、カップの取っ手をつかむ指先が硬くなる。しかし、またも場の空気をやわらげてくれたのは、所長の微笑であった。


「ハロウくんは、正直だね」

「…………」


 返す言葉を探していると、所長は続けてこうおっしゃった。


謙遜(けんそん)することはない。君だって、この私が見込んだ才ある七人のうちの一人だ。自分に自信を持って、積極的に前に出たまえ。……でないと、せっかくの輝きがもったいないじゃないか」


 所長の言うことがいまひとつ飲みこめず、僕はきょとんと、またたきをする。とりあえず「そう……ですか?」と曖昧に聞き返してみた。


 本当は首がもげるくらい、ブンブン左右に頭を振ってもよかった。

 だが、せっかく励ましてくれる相手の意向を完全否定してしまうのも気が悪い。僕の尋ねた言葉に、所長は優しく「そうとも」と深くうなずいた。


「覚えているかな? 君がこの事務所に身を置くようになってから、そろそろ四カ月が経つ。その四カ月前、君は街の倉庫で働く、しがない掃除屋の若者であったね」


 あれは、半月(はんげつ)に薄い雲の絹がかかった夜のこと……。

 と、デュバン所長はおもむろに天井を見上げて、懐かしむように語りはじめた。


「まだ季節は冬だった。肌に刺すような冷たい空気が、闇夜のなかにきめ細かくツヤだたせていたね。

 その夜、私はひとり街なかを歩いていた。郵便屋に寄った帰りだった。……恥ずかしい話なのだが、そのときの私は少々気が立っていてね──ほてりを冷ますために、しばし冷えた石畳(いしだたみ)の通りを適当に歩きまわっていたのだよ。

 とても静かな夜だった……だが、その静寂は突如、切り裂かれてしまった──」


 ええ、よく覚えていますとも。

 心のなかで、僕はひとりごちる。


 あえて口には出さなかった……そのまま、大げさに身ぶり手ぶりをまぜて語る所長の話に、黙って耳を傾けた。


「女性の金切り声が聞こえたのだ。声を頼りに駆けつけてみれば──ご婦人がひとり、地面にうずくまって泣いていた。

 聞けば、どうやら建物の角から急に何者かが飛びだしてきて、大事な手荷物を引ったくられてしまったというんだ……」


 すでに通り魔の姿は、その場から消え去っていた。

 悲しみに暮れる声だけが闇夜に残され、所長も困り果てたという。


「そこへ──」


 所長はまっすぐ、僕の顔を見据えた。


「君が現れたのだよ、ハロウ・オーリンくん」


「ええ、そうでしたね……」


「荒い息づかいとともに、君が暗闇からぬっと現れてきたときは、正直心臓が止まるかと思ったがね。

 ──だが、しかしだ。私の目の前に現れた君の手には、なんとご婦人が盗まれたという手荷物が握られていた」


 あのときの光景を、私はいまでもはっきり思いだせるよ。

 という所長の言葉には、僕も同意した。バックンバックンと激しく脈を叩き打つ、あのときの心臓の感触は忘れようにも忘れられない。


 手荷物をご婦人に返したのち、当人からひどく感謝の意を述べられた気がするが……残念ながら、そちらのほうはまったく覚えてない。それほどまでに、僕は別の意味で緊張していたのだ。


「雲が晴れて、半月の淡い光が君を照らした。感謝するご婦人に、肩を上下させる君はあくまでも控えめに笑っていたね。その姿を見て──私はピンときたのだよ」


 所長の目がキラリと光った。


「この正義感あふれた若者こそ、まさしく探偵にふさわしい人間であると!」

「い、いや、そんな……あのときはたまたまというか……」


 所長の強い眼差しに気圧され、僕はごまかすように笑った。宙に視線を泳がせてから、まぶたを軽く伏せてカップのなかに目を落とす。


「ひ、人として当然のことをしたまでです。本当に、誰にでもある……ごくごく平凡な親切心だっただけですよ」


 お茶はもうほとんど残っていない。それでも僕はカップの縁に唇を当てて、取っ手をつかむ手を傾けた。底に残った茶葉のカスのざらついた食感と嫌な渋みに、ぐっと顔をしかめる。


 穏やかな気質の一方で、感極まりやすい性分なのか……デュバン所長は時折、熱に浮かされたような言動を取られる。


 いまも唐突にソファから立ち上がると、精神の高ぶるままに部屋のなかをうろついた。それから適当な位置で壁に手をつくと、今度はぐるりと部屋のなかを見まわす。


「この事務所もずいぶん立派になったものだ……」


 僕もつられて一緒に、所長室を見まわした。


 立派とは言うものの、所長室には必要最低限のものしかそろっていない。よい言い方で『すっきりしている』、悪い言い方で『地味だ』、というのが僕の感じている印象である。


 南向きの窓は通りに面しているため、眺めがにぎやかだ。それ以外の壁──たとえば、西側の壁はすべて本棚や棚で埋められている。そのほか目につくものといえば、僕のいる応接用のソファと低いテーブル、所長の仕事机、ささやかな緑を添える観葉植物に、帽子掛けと細長い傘のようなランプだろうか。


 仮にも事務所を代表する所長の部屋なのだ、もう少し見栄を張って装飾にこだわってもよいのではないか? なども思わないこともない。

 しかし、部屋の広さとちょうどいい兼ね合いが取れていることもたしかだ。来訪者と落ち着いて話をするには申しぶんのない場所であると、所長の性格も踏まえて僕は改めて評価し直すのであった。


「それこそ昔は、事務所なんてものを構える余裕もなかったんだ。自分たちの巣はつくらず、ただ事件を追いかけてあちこちを飛びまわる日々が続いたものだよ。

 これも時代の(さが)か。救いを求める人々の声が増えるにつれて、事務所の看板もどんどん大きく──同時に重たくなっていくようだね」


 だというのに。

 と、所長はため息を吐いてうつむいた。


「いまさらながら、自分の力不足を痛感するよ。君ら若い探偵たちを育て、この混沌(こんとん)とした世を正せるように導くのが私の役割なんだ。

 どうにかして、事務所内の不穏な空気を取り除かなくては……助けを求める人々の声を前に、迷っている時間などないのだから」


「所長……」


「ハロウくん、私の意見を率直に言おう。彼らにも再三(さいさん)、伝えておいたのだが──我々は仲間だ。互いを補い、時には切磋琢磨(せっさたくま)に競い合う素晴らしき同士なのだよ。

 それだけは……どうか、心に留めておいてくれたまえ」


 デュバン・ナイトハートという人間は、どこまでもまっすぐでしなやかな心の芯を持っている。けして、上っ面だけのきれいな言葉を並べているだけではないことは、本人のこれまでの行動と熱量が物語っていた。


(だからこそ、僕は不安なんですよ……)


 所長の期待に、あの若者たちがちゃんと応えてくれるかどうか。

 ……いいや、もうすでに両者の間には溝が生まれている。


 ギル・フォックスという一人の成功者の登場が、すべてを変えてしまった。所長が信じるような希望の光よりも、もっとずっと……しごく単純な欲望の輝きにみな目がくらんでしまっているのだ。


(探偵とは、ひたすらに真実を追いかける者を指す。己の正義と愛を信じて、人々を惑わす闇を払う存在……)


 黙りこんでしまった僕の不安をすくい上げるように、「いまは、無理に結論づけなくともいい」と所長はつけ加えた。


「道のりは険しい。来たる時がくれば、みなわかってくれるさ」


「そうなれば、いいんですけれど……」


「君も、私の考えを甘いと思うかね? 秘書のシトラスくんにも、何度も口酸っぱく言われているのだが……まだまだ未熟で不安定な部分がある小さな芽だからこそ、私は支えて助けてやらねばとも思う」


「ふふっ、やはり所長はお優しいんですね」


 僕は手にしていたティーカップを、テーブルの上にそっと置いた。行儀よく静かに置いたつもりだったが、陶器の薄い皿からカチンと高い音がなってしまった。

 音のあとで、所長は「私だけの意思じゃないんだ」とぼそりつぶやいた。


「ヘリオスだって、きっとおなじことを言ってくれるだろう」

「…………」


 ヘリオス探偵事務所。

 その看板をひと目見て、じっさいに多くの人間が勘違いしてしまうことがある。『ヘリオス』という名が、事務所の所長の名前から取ってきているのだと。


(名探偵ヘリオス・トーチ)


 それが、その男の正式な名である。

 かつて、ここイルイリスの国中を駆け巡り、あまたの事件を解決していったという名探偵の名前だ。所長のデュバン・ナイトハートは昔、その彼の助手を務めていたそうだ。


 所長の口から語られる名探偵の活躍は、まるで冒険活劇のようであった。

 事件とあれば自ら現場におもむき、徹底的に謎を向き合う姿勢を見せた。ささいな疑問も見逃さず、解決に導くための証拠をねばり強く探していったという。すべては事件に傷ついた人たちの心を暗い闇から救うため、名探偵は己のすべてを賭けて戦ったのだ。


 とても親切で、気さくな人物だったらしい。

 あの所長も、思い出のなかの名探偵を語るときは特に幸せそうな顔をしていた。かけがえのない人であったということは、僕にも痛いほどよく伝わった。


(しかし、その人はもうこの世にはいない……)


 疑心の闇を払うことで、人を救っていった英雄とも言える探偵は──人の毒牙によって倒れた。


 話に聞けば、彼の最期はじつにあっけなかったようだ。行きずりの悪漢に得物で刺されて……名探偵は死んでしまった。


 時が経ち、人々の記憶のなかから名探偵ヘリオス・トーチの名前はすっかり消え失せてしまった。


 ヘリオスの助手であり親友であった所長だけは、どうにかして名探偵の意思をこの世につなぎ止めようと考えた。そこで彼は、ウォルタの街に探偵事務所を設立することを決意したのだという。


 かつての友の名を、看板に刻んで。

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