探偵事務所の所長さんⅠ
腹をくくって、僕は目の前のドアをノックした。
握りしめた手を下ろす前に、なかから声が聞こえてくる。
「ハロウくんだね、どうぞ」
ドアの向こうから、穏やかで優しい声が僕を呼ぶ。だのに僕はへんに緊張してしまって、ドアノブをつかむ手がかぼそく震えていた。
ひと息吸って、「失礼します」と返事をした。そして、ここヘリオス探偵事務所の二階奥──所長室のドアをそっと開く。
時刻は、間もなく夕方の六時を迎える。
さっき懐中時計で確認したから、間違いはない。それにしても時の流れの早いこと……昼間の広場での騒動が、なんだか遠い過去のように感じた。
ドアを開いて真っ先に目に飛びこんだのは、部屋の奥にある所長の仕事机だ。
その席に、あの人はいつも座っている。しかし今日にかぎっては椅子の上はからっぽだ。声はしたのに、所長の姿がどこにも見当たらない……。
「こっちだよ、ハロウくん」
「!」
思わぬ方向から飛んできた声に、僕はびくりと肩を震わせる。
所長は、やっぱり部屋のなかにいた。ドアから左手にある、応接用の低いテーブルとそれを挟んだ二対のソファ──その片側に彼は優雅にたたずんでいた。
ドア元に突っ立っている僕を、所長はほがらなか顔で手招きする。僕は気恥ずかしさから少しうつむいて、こそこそなかに入ると……そっとドアを閉めた。
「そんなに緊張することはないよ。まぁ、気楽にかけたまえ」
「は、はい……」
促されて、僕は反対側のソファに腰を下ろした。
革張りのソファの手ざわりのよいこと。中古で手に入れて自己流で補修したのだと過去に所長が自慢していたが、まったく古びた様子がなかった。
(突然の呼び出しだけれど、いったい所長は僕になんの用があるのだろうか……?)
そわそわと体をゆすっていると、所長にくすりと笑われた。細めた目尻のやわらかな小皺に、僕の気は余計に乱される。
気を引きしめる意味合いも込めて、僕は呼び出された理由を必死に頭のなかから探した。報告に抜けている部分でもあったのだろうか、いま現在に至る経緯を振り返ってみる。
時をさかのぼること、昼過ぎ。
広場でもひと騒動のあと、僕はほかの四人の探偵たちと一緒に事務所に戻ろうとしていた。
姉妹探偵の姉のメイラ・リトル、その妹のマリーナ・リトル、キザな探偵のシルバー・ロードラインに……僕とおなじ見習い探偵のロイ・ブラウニー少年と、である。
振り返っても苦い記憶だ。
他愛もない会話だったのだ、それなのに僕ときたら勝手にもやもや感じて……感情を爆発させてしまった。
彼らのつまらない愚痴にうんざりした僕は、買い物の荷を押しつけ、一方的に彼らと道を別れた。そのままひとり、街なかへと消えていって、そして──。
(ちょっとした野暮用を終わらせてから、僕はヘリオス探偵事務所へ帰ってきた……)
そのときの時刻は、午後の一時くらいだったと思う。
事務所に帰ってきた僕を、真っ先に出迎えてくれたのは秘書のシトラス・リーフウッドであった。
(彼女には悪いことをしてしまったな、余計な心配ばかりかけて……。それから二人で、昼間の経緯を所長に報告しにいったんだっけ)
事務所にいた所長の耳には、すでのおおかたの話は伝わっていた。先に帰っていたロイたちから、いろいろと事情を聞いていたようだ。
ひとまず今回の件については、後日改めて事務所の人間全員で話し合う方向で決まった。要するに、現状は保留というわけである。
(そのあと僕は、普通にたまっていた事務仕事を続けた。ほかのみんなも、それぞれ自分の仕事に手をつけていて、それで──)
カチャン。
と、澄んだ音が耳をかすめる。
はっと、僕は顔を上げた。見れば、テーブルの上に、皿つきのティーカップが置かれたところであった。
「ハーブティーだよ」
いつの間にか席を立っていた所長が、僕の横からにっこり笑って言った。
「もっとも淹れたてではなく、先程シトラスくんが用意してくれたポットのなかのものだけれど。……それでも、まだ十分に温かいと思うよ。ささっ、召し上がってくれ」
僕がひとり悶々と記憶を巡らせている間に、わざわざ淹れてくださったようだ。まだひと口も飲んでもいないのに、僕の顔が熱くなる。
「あ、いえ……お、お気づかいさせてしまって……」
言葉がこんがらがる。
所長は再び正面のソファに腰かけて、気さくな笑みを浮かべた。
「なに、君を急に呼びだしてしまったのは私のほうだ。こちらこそ、仕事中にすまなかったね」
デュバン・ナイトハート。
それが、僕の目の前にいる──ヘリオス探偵事務所の、所長の名である。
年齢は四十代だというのに、すでに落ち着いた初老のような雰囲気を漂わせている。ぐっと年上の、とても穏やかな紳士というのが、僕のいだいている印象だ。
白髪まじりの薄いブロンドヘアを背中まで伸ばし、白い陶器の細工が施されたバレッタで一つに束ねている。顎にはおなじ色をしたヒゲをたくわえ、張りのきいたジャケットを着こなすさまは、まさに紳士の装いといえよう。
事務所の人間をまとめ上げる重要なポジションについていながらも、けして僕らに威圧的な態度は取らない。老いも若きも男も女も、分けへだてなく親切に接する──常に穏やかな雰囲気をまとった不思議なお人なのであった。
僕は小さく「いただきます」と口にしてから、カップに手を伸ばした。薄いアメ色をした温かいお茶で冷えた唇をぬらせば……スンとさわやかな香りと味わいが、口のなかに広がった。
「それで所長。お話とはなんでしょう」
やはり昼間の件についてでしょうか。僕が尋ねると、所長はほがらかな表情をすっとひそませ、形の整った眉を申し訳なさそうに寄せた。
「おおかた、全員の話は聞かせてもらったよ。その上で、ぜひとも君の意見をうかがいたくてね」
「僕のですか?」
「そう……というのも、どうにもこの事務所全体によくない空気が漂いはじめているような気がするんだ。ま、私の口からはっきり言わなくとも、誰しもが感じ取っているとは思うがね」
事務所に漂う、よからぬ空気。
それはもちろん、ギル・フォックスへの不満と嫉妬心のことだ。
ふと僕は、テーブルの脇へ目を向けた。縦に丸まった、読みかけの新聞が置いてある。きっと僕が部屋に来る前に、デュバン所長が読んでいたものだろう。
「今朝の新聞、所長もお読みになったのですか?」
「ああ、これかい」
そう言って、所長は新聞へ手を伸ばし、僕の前に広げてくれた。でかでかと飾られたギルの名前に、お高くとまった宣伝文句……見たことのある紙面だと思ったら、今朝方ロイが買ったものとおなじものである。
「もちろんさ。なんたって、我がヘリオス探偵事務所のメンバーの活躍が書かれているのだからね。あとで記事を切り抜いて、丁重に保管しようと思っているくらいだ」
所長の顔が、わかりやすく明るくなった。白い歯を見せて笑う様子は、いっそ子どものような無邪気さを感じる。
「ギルくんの活躍は、じつにすばらしい。彼はどんな卑劣な犯罪を前にしても、けして怯まず、立ち向かう勇気がある」
「ええ、まぁ……度胸だけは認めます」
「所長の私が言うのもなんだが、正直この事務所は彼の存在に助けられている部分がある。まさに、彼はこのヘリオス探偵事務所にとって期待の星なのだよ」
所長は感嘆の息をこぼした。そのギルの活躍こそが、事務所に不穏な空気をもたらしている原因だというのに……どこまでも純粋なお方である。
「これほどの名声は、かつての名探偵ヘリオス以上と言っても過言ではないだろう。もっとも、ヘリオスが活躍した時代では、まだこうして大衆向けの情報媒体はないに等しかったがね。
あのころ、新聞に書かれることと言えば、重々しい国の情勢や、隣国との争いの話ばかりだった……」
「しかし、光あればなんとやらです」
遠い過去に浸ろうとする所長には悪いが、僕が先に事の本題を口にした。
「ギルの名が売れたおかげで、依頼の手紙は増えました。ところがどの手紙にも決まって『名探偵ギル・フォックスへ』との宛名が記されています。
これでは自分たちに客がまわってこないと、ほかの探偵たちが不満を抱くのも仕方ないでしょう」
「……ああ、そうなんだ。まったく、そうなのだよ」
感嘆の吐息は、すぐにため息と変わった。それでも目の色は穏やかなまま、デュバン所長は向かいに座る僕を見つめると、ふっと苦笑った。
「己のふがいなさを痛感するよ。この私にもう少し、人をまとめる資質があれば……」
「いいえ、所長のせいじゃありませんよ。現に所長は僕たちに十分すぎるくらいよくしてくれています」
僕は昼間のロイたちの愚痴を思いだした。みんな、所長に才を見込まれ、拾われたからいまがあるのだ。やっぱり彼らのほうが少しばかり図々しいのだと、心のうちでうなずいた。
「嫉妬する彼らの気持ちもわかりますが……彼らにだって、もっとひたむきに努力する必要があると思います。……まぁ、見習いの僕が大層なことを言える立場じゃないんですが」
「いいや、ハロウくん。若いうちはそれでいいんだ」
所長は僕にこうおっしゃった。「若いうちは、うんと嫉妬してほしい。時に投げやりになって、くさくさした気持ちになって……それがのちに人を成長させる豊かな土壌になるのだよ」と。
「でも、芽がつぶされては元も子もない」
「芽が……」
「そう芽だよ。だからなんとか上手い手を考えて、彼らの情熱と意欲を救いたいのだが……」
もう一度、僕はティーカップの中身をすすった。
同時に、メイラ・リトルの言葉を思いだす。
『人がよすぎるのよ、うちの所長は。人に騙されるタイプの人間だわ』
ぬるくなった液体を喉に流して、僕は息を吐いた。
(そんな甘いところが、逆に人を惹きつけるのかもな)
ギルとは異なる種類のカリスマ性というものを、このデュバン・ナイトハートという男は持っている。
(見放せないというか、こちらから手を差し伸べたくなるような……)
反射的に、僕は左手の内側をさすった。
似ているのだ。記憶の底にいまもなお影を落とす、さる人の輪郭と──。
「ところで、君はどうなんだい?」
「えっ」
「君は、嫉妬しないのかな──」
名探偵ギル・フォックスの栄光に。
まっすぐな目で問われた。逸らすことのできない妙に強い眼差しだったけれど、僕はどうしてか臆することはなかった。
というのも、質問が質問だからだ。
僕はすんなりと──静かに首を振った。
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