名探偵、誕生
【ネタバレ注意!】初めての方、途中の方はネタバレにお気をつけください。
どうにか身を起こそうと、僕は痛む体に鞭を打つ。地面から胸を浮かしたそのとき、ふと眼下を見やればそこになにかが転がっていた。
万年筆である。
ロイ少年に用意していた『約束のご褒美』だ。彼が以前、雑貨屋で欲しかった万年筆が手に入らなかったとぼやいていたのを僕は覚えていた。それを密かに購入し、上着の内ポケットに忍ばせていたのである。
転がった万年筆の上に、水滴が落ちた。
地面に黒い染みが広がる。思いだしたとたん、僕の目から涙があふれてきたのだ。
ロイが探偵として昇格した時に、手渡したかった。おめでとうと口にして驚かせてやりたかった、喜ばせてあげたかった……。
しかし、現実は無情である。
彼の存在や探偵事務所そのものが、幻影でしかなかったのだから。
(最初から幸福なんて、どこにもなかったんだ……)
いまになって、感情の波がどっと押し寄せる。
僕は嗚咽した。
地に這いずりながら、惨めに泣きじゃくった。
信じていたものに裏切られた悲しさ、すべては虚構であったという虚しさ、奪われたままでいる悔しさ、己の非力対する情けなさ、やるせなさ……。
感情を一つになど、とても絞れない。ぐちゃぐちゃに一巡したのち、今度は己の人生の空白に対して強烈な後悔にさいなまれるのであった。
いったい、いままで自分はなにをやってきた?
罰を恐れて罪から逃げて、労働でひたすらに体を痛めつけることだけに甘んじて、思考停止し流されるままの意味のない時間を過ごしてしまった。
(根暗の気取り屋めっ! おまえの自虐は全部、なにもしてこなかった自分への言い訳じゃないか……!)
結果、いまの僕にはなにもない。
僕は地面を睨めつけた。骨を砕かんばりに両手の拳を握りしめれば、ギリギリと音が鳴る。噛みしめた唇が赤い血を垂らし、舌先に生臭い苦みが走った。
眼球を取り返せる力もなければ、正義を語る弁もなし。勝手に感傷的になって、勝手に浮世だった幸福に浸っていた──大馬鹿者だ。
暗い熱をもって、やがてぬかるんだ感情の泥が一つに固まりはじめる。そいつは輪郭を形づくって、脳内から直接僕に語りかけてきた。
──事のはじまりを討て、と。
こんな悲惨な結末に至った元凶が存在する。
身を投げたデュバン所長が口にしていた『あのお方』という人物、当人が親友殺しの罪悪感を失くしたきっかけをつくったという、真の神の眼──。
(罪を浄化するだって? 罪悪感から解放させるだって?)
その末路があの痛々しい姿であるというのか。
ならば、僕は断じて認めない。
「……あれは、絶対にあってはならないものだ」
呪うようにつぶやいた。
大罪を犯した人殺しの僕だからこその、拒絶であった。
この感情は怒りだ。許しがたい怒りによって、ふつふつと僕のなかで血がたぎりはじめる。しかし、怒りで身を起こす一歩手前のところで心に一抹の影がよぎった。
何度も言うが、僕にはなにもない。
特別な才もなければ、強力な後ろ盾もない。いままでなに一つとして培おうとしてこなかったから当然の話である。
(なにか……なにか、ないのか?)
地面に落ちた影のなかに問いかける。
こんな僕にも残されているものがないのか。
世を渡り、悪しきものと戦うことのできる武器が──。
「おや、君。そんなところでうずくまっていて大丈夫かい?」
ふいに、頭上から声をかけられた。
視線を脇へ向けると、すぐそばにつれ立った二人組の足が見えた。恐る恐る顔だけを上げてみると、そこにはごく平凡な老夫婦が立ち止まっていた。
「どこか気分がよろしくないの?」
「あ、いや……」
優しく気づかう老婦人の声に、僕は乱暴に涙をぬぐった。そろそろ早朝の六時の鐘が鳴るころだ、きっとこの夫婦は教会へ祈りをささげにいく途中だったのだろう。
いつまでも、道のどまんなかで伏していては邪魔だ。転がった万年筆をさっと拾うと、僕はよろよろと立ち上がった。
「大丈夫です。お声をかけてくださり、ありがとうございます」
公園内には、ちらちらと人の姿が増えはじめている。僕は親切な老夫婦に礼を述べると、そそくさとその場から退散しようとした。
だがそのとき、老夫婦がそろって固まっていることに僕は気づいた。心底驚いたという感情を顔に張りつけ、二人とも目を大きくひん剥いている。僕がきょとんとしていると、老人の唇が震えた。
「あ、あんたはハロウ・オーリン……」
名前を口にされ、僕は正直に「ええ、そうですが」と応えた。 どうして名前を知っているのだろうと疑問を覚えていると、僕ははたと、あることを思いだした。
そうだった。
手配書のことをすっかり忘れていた。
事件の最中、僕の名と人相が書かれた手配書がこのウォルタの街のいたる場所で張られたのだ。これはまずい、もしかして事件が終わったことを知らずに、いまだ僕のことをお尋ね者だと勘違いしているのではあるまいか。
剥がされていない手配書が残っているのかもしれない。守衛の日頃の仕事ぶりを考えれば、十分にあり得ることだ。
僕はとっさに、自分の顔を隠そうと手を上げようとした。瞬間、その手はがっしりと老人につかまれてしまった。
ああっ、なんて弁解しようか。
……と思っていた、そのときである。
「いや、すばらしい! このたびは、たいへんお手柄でしたな!」
などと言って、握った僕の両手を丸ごとブンブン縦に振った。
顔から驚愕の色は失せ、代わりに晴れ晴れとした表情に切り替わっている。夫婦そろって子どものような無邪気さで、目をキラキラと輝かせていた。
僕がぽかんとしていると、老婦人が彼方のほうへ振り向き、「ねぇ、こちらにいらっしゃい! いまここに、ハロウ・オーリンさんがいるのよ!」と知り合いなのか通行人を呼び止める。伝染するかのように、近くを歩いていた通行人たちの顔にもぱっと明るさが灯った。
またたく間に、僕の周囲に小さな人だかりができていた。
次の人も、そのまた次の人も、差しだされるがままに僕は人々を握手を交わしていった。いったいなにがなにやら……僕は彼らから、いわれのない称賛を受けた。
奇妙なことに集まった人たちは「新聞で読んだぜ」とか「新聞を拝読して感動しました」など口々にしている。
共通する単語は『新聞』だ。どういうことなのだろうと、握手のかたわらで頭を巡らせていると、おもむろに背後から上着の裾を引っぱられた。
振り向けば、そこには新聞売りの少年を立っていた。
「なぁなぁ、ここにサインをおくれよ。今日もバッチシ表紙の一番いいとこに、お兄さんの話題が載っているんだぜ?」
そう言って、差しだされた新聞一部を僕は受け取った。
真っ先に目に飛びこんできたのは、手配書に使われた僕の人相書きだ。その次に、デカデカと飾られた大きな見出しに目が留まる。
それとほぼ同時に、教会の鐘の音が荘厳に鳴り響いた。
『難事件をズバッと解決! ウォルタの街の救世主、その名も──名探偵ハロウ・オーリン』
名探偵ハロウ・オーリン。
その呼称が、僕の赤い瞳に焼きついた。
《次回で最終回となります!》
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